アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(159)手塚治虫「ぼくのマンガ人生」

岩波新書の赤、手塚治虫「ぼくのマンガ人生」(1997年)は手塚の没後、過去に発表された手塚治虫の文章や講演を再構成して一冊の書籍にまとめたものであるが、何よりも本書を企画した岩波新書編集部の功績が大きいように思う。

日本に数ある新書の内で、伝統ある老舗(しにせ)の岩波新書である。岩波新書に収められた新書は後世まで残り、長く読み継がれる可能性が新興の他社新書よりも(おそらくは)高い。本書の他にも手塚治虫の自著や評伝はある。しかし、岩波新書「ぼくのマンガ人生」は、手塚治虫に関する手塚の創作漫画以外での作品書籍として後々まで長く残り、広く読まれ続けるのではないか。

私は漫画家の寺田ヒロオが昔から好きで、以前に寺田を中心に藤子不二雄や石ノ森章太郎や赤塚不二夫らの日記や自伝を、特にトキワ荘に関係する書籍を集中して読んだことがあった。その際に手塚治虫に関するものもよく読んだ。手塚治虫は「漫画の神様」と称せられるような決してよく出来た人ではなくて、若手漫画家の台頭には(例えば、自分よりも漫画家デビューが最年少で早く、児童物だけでなく青年や成人漫画でも成功を収めテレビの特撮実写でもヒットを連発していた石ノ森章太郎に対して)露骨に悔(くやし)がり、嫉妬して闘争心を露(あらわ)にするし、アニメーション会社の虫プロダクションを倒産させて経済的に困窮したり、手塚の作風にも時代の波に乗れない漫画家として人気が落ち込む低迷期もあって、「手塚先生の漫画は古くてもう駄目だな」と編集者たちから内々にささやかれる時代もあった。

また手塚治虫が業界に持ち込んだとされるアシスタントを多人数使っての短期間での漫画の量産体制やアニメ仕事の安価での請け負い慣習が、後の漫画家やアニメーターの過酷な労働環境につながったとして、漫画アニメ業界に手塚治虫がもたらした罪を追及する声も実はある。しかしながら岩波新書が手塚治虫を扱うと、これが見事なまでに「反戦平和を希求し生命の尊厳を主張し、若者の夢に向かっての努力を応援する誠に理想的な手塚治虫」が前面に押し出されるのであった(笑)。そして、もちろん私はそうした理想的な手塚治虫像も否定せず、当然の如く認めるのだけれど。

手塚治虫は1928年の生まれであり、1945年の日本の敗戦時には10代の青年だった。関西の生まれであり、大阪大空襲も経験している。ゆえに手塚治虫には強烈に反戦平和の志向、人間の生命の尊厳の意識があった。本書にても手塚は、「『生命の尊厳』がぼくのテーマ」と述べている。

彼は幼少の頃から身体が小さく近視で眼鏡をかけスポーツが苦手で、いじめられっ子であったという。しかし、漫画を早くにから描き始めて手塚少年は漫画に没頭していった。手塚によれば、漫画を描くことでいじめっ子から一目置かれ、いじめられなくなった。後に漫画を介して友達も多くできたという。この辺りの漫画を描くことにより、いじめが回避されたり、交友の輪が広がり友人が多くできた事情や無二の親友に出会うことができた話は、手塚治虫のみならず、藤子不二雄のエッセイや自伝を読んでも共通する内容である。

岩波新書「ぼくのマンガ人生」の巻末に「ゴッドファーザーの息子」という、漫画を介して自分とは正反対なバンカラ応援団長のヤクザの息子と手塚少年とが友達になって互いに心を通わせる自伝漫画が掲載されている。最後に「ゴッドファーザーの息子」の友人は、手塚が描いた漫画を携(たずさ)え戦地に行き、若くして戦死してしまう。あれは本当に読む人の心に染みる良い漫画であると思う。

昔は漫画は今よりも社会に認められていなかった。私が子どもの頃、といっても1970年や80年代だが、その時代でさえ「漫画なんか読んで(怒)」と私ら子どもは大人たちから叱(しか)られていた。1970年代当時でそうであるのだから、手塚が漫画に熱中し後にプロの漫画家デビューを果たす戦中や敗戦直後の漫画に対する社会からの厳しい風当たりの強さは推(お)して知るべしである。だが、そうした状況の中でも母親や学校の教師は手塚が漫画を描くこと、そして後々漫画の道に進むことを認め応援してくれたという。

手塚治虫は医学の学校に進学し臨床実習を受けて医師免許も持っていたが、後に上京して念願のプロの漫画家になった。手塚治虫という人は、来る仕事を基本断らなかったらしく、実に多作な漫画家であった。生前の手塚の密着映像を見ていると、この人は移動中の車の中でも、空港にて飛行機搭乗の待ち時間でもギリギリまで漫画を描く(笑)。とにかく大量の原稿を描いて創作する極めて多作な人で、作品数を厳選して寡作(かさく)で済ます人ではなかった。しかも多作な中で手抜きせずに全作全力で、おそらくは描き抜いているので手塚の身体には相当な負担であったに相違ない。手塚治虫は、いつの時代でもほとんど寝ていない。寝る時間をも惜しみながら彼は漫画を描き続けた。手塚治虫は60歳で亡くなっているが、やはり早いと思う。手塚の早逝は非常に残念であり無念である、私達にとっても当の手塚治虫本人にしても。

岩波新書の手塚治虫「ぼくのマンガ人生」を貫くテーマは「反戦平和を希求の生命の尊厳と、若者の夢に向かっての努力の応援」の二つだが、特に後者について手塚治虫の人生を見ていると、人は若い頃から何かしら一つでも自分の人生にて継続して熱中できる仕事や趣味を持っている人は幸福であると思う。そのことに傾注し充実して自身の人生を費やすことが出来るからだ。手塚治虫の場合、それがたまたま漫画だっただけのことである。

「ぼくのマンガは大阪大空襲と八月一五日が原点だ。子供時代、父母、先生、友人との触れあい、作品にこめた熱いメッセージを語る。マンガを読み聞かせてくれた母、作文する楽しさを教えてくれた先生、絶体絶命の苦境で助けてくれた友。彼の創作を支えたものは何か。不滅のマンガ家が遺した講演記録を編集、ハートフルな肉声がいま甦(よみがえ)る」(表紙カバー裏解説)