アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(170)小塩力「聖書入門」

「価値判断は相対的」である。私達が物事に対し、ある一定の価値判断を下す時、常にそのものだけを見つめて唯一の絶対的判断を下している訳では決してなくて、意識的であれ無意識的であれ、実は他の同種なものと比較考量し、その結果「これは良い」とか「これは優れている」などの相対的な価値判断を下している。

岩波新書の青、小塩力「聖書入門」(1955年)は昔から知っていたが、以前はそこまで良く出来た書籍だとは正直思えなかった。しかしながら後々、他のキリスト教関連の「聖書入門」書籍を平行して読んで各書の内容を知るにつれ、これが不思議な事に「価値判断は相対的」の原理から「小塩『聖書入門』は、そこそこに良くできた入門書かも」という比較考量の相対的判断が働いて、ついには本書を手放せなくなって時折、読み返してしまう。

「聖書には何が書いてあるのだろうか。どのようにしてできたのだろうか。旧約・新約両聖書の成立事情とその背景を、歴史的・批評的研究の成果にもとづいて明らかにし、聖書の信仰内容を正しく伝えるとともに、また西欧文化と聖書、東洋の精神的風土と聖書との関係などにもふれ、現代生活における聖書の意義を解明する」(表紙カバー裏解説)

小塩力「聖書入門」は比較的古い書籍であるが、この人の「聖書入門」解説は、そこまでクセがなく語り手の我(エゴ)が出ていなくてよい。旧約・新約の聖書学者らによる後の「聖書入門」や「聖書講話」の著作にて、なかには非常に我の強い、その人ならではの読みの解釈の強調や独自な読解力点の置き方、翻訳理解をめぐる他の聖書学者に対する痛烈批判と論争、時にキリスト教倫理に依拠した文字通り、そのまま「説教」になってしまう現代社会批判まであって正直、私は辟易(へきえき)することがある。「それらに比べたら」の比較考量の結果の相対的な好印象は昔の岩波新書「聖書入門」に対し確実に残るのである。

本書の主な内容は「欧米文化と聖書」と「東洋精神と聖書」の考察を冒頭に置き、次に旧約聖書と新約聖書の各編の成立背景や概要を順次解説する形で叙述は進む。さらに最後には「聖書の特色」として五つの特徴が挙げられている。すなわち、「一・唯一神、二・仲保者、三・罪と死からの救い、四・虚無からの脱出、五・新しいヒューマニズム」である。

こうした叙述が「聖書入門」や「聖書講読」の基本の手順だと思える。最後の「聖書(キリスト教)の特色」を幾つかの点から箇条書きで羅列する解説は、この種の入門書にて昔から定番である。おそらくは誰が書いても「聖書入門」のジャンルの著作は、そうした型の内容説明になるのではないか。

それにしても私が昔から驚いて気になるのは、岩波新書「聖書入門」の著者である小塩力(おしお・つとむ)の名前だ。私は、この人のことはよく知らないのだが、これは本名なのだろうか。キリスト者の親が子どもに任意で好んで付ける下の名前ならともかく(イサクとかルツとかナオミなど)、名字も含めたフルネームが「小塩力」であるキリスト者というのは相当に話が出来すぎている。名字は生まれる前からその家に代々あるもので、その都度個人に任意で命名したり、そう簡単に名字から改名できるものではないからだ。いうまでもなく「小塩力」は、圧倒的に「少」ない「地の塩」であり、「もし地の塩が馬鹿になったら」云々の聖書にちなんだ名前である。人間社会の世上では稀(まれ)で貴重な存在であり圧倒的「少」数だが、確かに必要な「地の塩」たる「力」を持った小塩力という人が執筆した「聖書入門」というのは、格別に味がある。

最後に、聖書記述の「地の塩」の箇所を塚本虎二訳「新約聖書・福音書」(1962年)から引用しておこう。

「預言者と同じく、あなた達は地の塩である。世の腐敗をふせぐのが役目である。しかしもし塩が馬鹿になったら、何でもう一度塩気をもどすか。外に捨てられて人に踏まれるほか、もはやなんの役にも立たない」(マタイ、5の13)