哲学者の中村雄二郎による岩波新書は、まず「哲学の現在」(1977年)と「術語集」(1984年)と「問題群」(1988年)があって、これが中村の「岩波新書三部作」と呼ばれている(らしい)。後に「術語集」の続編「術語集2」(1997年)も岩波新書から出ている。
いずれも哲学に(特に西洋哲学と現代思想)ある程度、習熟した人が読んで完全に理解できるような、西洋哲学史の流れや古今の各哲学者の中核思想や現代思想のおおよその傾向と基本概念とを分かっている人が読み切ることのできる、いわゆる「哲学を二周目か三周目の人」が読んで楽しめる応用編の哲学読み物だと思う、岩波新書の中村三部作は。初学者には少し荷が重く厳しいのではないか。私は中村の「問題群」を始めとして岩波新書の中村三部作を何度も読んでいるのだが、自分は哲学の基礎がなっていないためか、毎回「完全に読み切れた。完璧に理解できた」というスッキリとした読後感を得ることが出来ない。いつも読み残しがあるような思いに苛(さいな)まれる。そして、また再読してしまう。
三部作の最後の「問題群」は、十五のテーマの切り口で(共通感覚、リズム、悪、制度、神など)、古今東西の哲学思想を各テーマの横のつながりから中村が縦横無尽に語る哲学エッセイのような体裁である。そもそもの古代・中世から近代・脱近代(ポストモダン)まで、時系列に並列してある西洋哲学史や日本の哲学思想史の縦糸をあえてほぐし、横のテーマ別に結び直し繋(つな)げて自在に語るため、プラトンやソクラテスやニーチェについて述べたかと思えば、次に空海が出てきてミンコフスキーも登場したり、三木清と西田幾多郎への言及に加えてバークを語ったり、さらにフッサールやフーコやレヴィナスが出てきて哲学史範疇(はんちゅう)の時代や系統がバラバラである。そうした新奇な切り口の「問題群」哲学エッセイの書き方を中村は、あえて狙ってやっている。
こういったテーマ別の横のつながりの縦横無尽な「問題群」哲学エッセイを書ける人は、そもそもの古今東西の哲学思想に精通し幅広く知悉(ちしつ)していなければ執筆できるわけがなく、そのような応用編の哲学新書を書ける中村雄二郎その人が相当に哲学的に優れているといえるのである。
そして、そうした「問題群」や「術語集」の新奇な切り口の自在な哲学エッセイを中村が連発するのは、従来の中村雄二郎論にてよく指摘されるような、「深層=パトス(感性)の知」と「知の愉しみ」(「イメージの愉悦」)の中村自身の脱ロゴス(理性)の「非哲学的な」あり方への志向(嗜好)に、おそらくは裏打ちされているに違いない。そうした見立てである。
ただ、あえて中村雄二郎の問題点を挙げるとすれば、昔から私は気になって仕方がないのだけれど、この人は自著に付する副題がいつも良くない。現代風の俗な言葉で言えば「中村雄二郎の書籍はサブタイトルが毎回ダサい」。本書「問題群」に付された副題は「哲学の贈りもの」である(笑)。「哲学の贈りもの」とは、非常に素朴でお人好しすぎて何だか胡散臭(うさんくさ)い、いかにも間(ま)の抜けたタイトルではないか。その他の岩波新書の中村三部作のサブタイトルをそれぞれ主タイトルも含め挙げてみると、「哲学の現在・生きること考えること」「術語集・気になることば」←(笑)。さらに岩波新書以外での中村著作の歴代サブタイトルも良くない。いちいちここでは列挙しないけれど。だが、しかし一つだけ。例えば「哲学入門・生き方の確実な基礎」(1967年)。「生き方の確実な基礎」という副題は相当にヒドいと私は思う(笑)。中村雄二郎は書籍の副題の付け方が下手である。本の内容は毎回、面白いのだけれど。
「現代思想の様々な問題を理解するためには、それに到る古来の思想の流れを把握することが大事である。本書は私たちがものを考える上で重要なヒントを与えてくれる十五の『問題群』を通時的に取り上げ、ロゴス、共通感覚、悪、真理、神などをめぐって展開された哲学の議論を現代に生かそうと試みる。『哲学の現在』『術語集』に続き三部作完結」(表紙カバー裏解説)