アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(175)長谷川千秋「ベートーヴェン」

岩波新書の赤、長谷川千秋(はせがわ・せんしゅう)「ベートーヴェン」(1938年)は戦前の岩波新書であり、当時の少ない資料の中でベートーヴェンの生涯を詳細に記した人物評伝の古典として評価の高い新書である。ベートーヴェンについての書籍はロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」(1903年)を始めとして昔から数多くあるが、岩波新書の長谷川「ベートーヴェン」も無心に丁寧に読んでみると、なかなか面白い。

岩波新書の長谷川千秋「ベートーヴェン」の読み方は少なくとも二つあるように思える。まず一つは、そのまま表題の「ベートーヴェン」その人の生涯を読み取り味わうことだ。他著に比べて長谷川の「ベートーヴェン」が良いのは、音楽的業績の専門評価などよりも、人間としてのベートーヴェンの喜びと苦悩の生涯を時系列で一気に書き抜いている所だ。本書の目次を一瞥(いちべつ)するだけで「ベートーヴェン」の生涯の概略は、およそ分かるのである。

「ボン時代─ウィーン初期─聾(ろう)に就いて─『エロイカ』(第三交響曲)─歌劇『フィデリオ』─永遠の愛人─ゲーテ―ウィーン会議─『ミサ・ソレムニス』─第九交響曲─甥(おい)カール─死まで」

ベートーヴェン(1770─1827年)はドイツの作曲家であり、古典派音楽を集大成しロマン派音楽への道を開いたとされる。彼は20歳後半より持病の難聴が徐々に悪化し、ついには聴覚を失い40歳頃から晩年の15年は聾(ろう)であったという。ベートーヴェンは57歳で生涯を閉じた。彼の生涯には様々な出会いと別れがあった。自身も音楽家であり、ベートーヴェンに厳しい音楽教育を施したが、極度のアルコール中毒で性格破産者であった父ヨハンの影響(ベートーヴェンも父の影響を受け、酒飲みで性格破産の傾向があった)。ボンから都会のウィーンに出てきた若きベートーヴェンに音楽を教えた師のハイドンとの師弟の気の合わなさ。音楽に理解のない詩人ゲーテとの、ちくはぐな交友。ベートーヴェンが憧れた音楽家・モーツアルトやフランス革命の当時を生きた同時代人ナポレオンに対するベートーヴェンの並々ならぬ思いなど。その他、多くの友人や支援者(パトロン)や恋人・愛人らとの出会いと別れがあった。

私には本新書の「甥カール」の章が特に強く印象に残る。ベートーヴェンの女性遍歴や同時代人の芸術家らとの交友よりも、親族であり同性で我が子のように年齢が離れた甥(おい)のカールとベートーヴェンの長くて苦難な愛憎エピソードが読んで特に心に残るのだ。詳細は本書ないしはベートーヴェンに関する類書を読んで確認してもらいたいが、ベートーヴェンには弟の子、つまりは甥のカールがいた。「甥カール」とベートーヴェンについての、おおよそのあらましはこうだ。

1815年、ベートーヴェンの弟カールが肺結核で逝去し、ベートーヴェンは弟の遺言によって同名の子、甥のカールを養子に迎える。ところが弟カールは妻ヨハンナも共同後見人としていたのでベートーヴェンとヨハンナとの間に後見をめぐって訴訟騒ぎが起こる。最終的には貴族の大物を多くパトロンに持つベートーヴェンの勝訴に終わり、ベートーヴェンは甥カールの単独後見人となった。長谷川「ベートーヴェン」の記述によれば、甥カールの母ヨハンナは「極めて邪心の深い、素行の悪い」女性であり、「事実、ヨハンナは嘗(かつ)て夫の在世中にも不貞を働いて一箇月監獄に入れられた事があった。淫蕩(いんとう)な彼女は1818年にもベートーヴェンと再び法廷で争っていた最中に一人の私生児を産んでいる」。ゆえに邪悪な母から子を遠ざけるべく、一層に激しくベートーヴェンは甥カールを溺愛した。再び長谷川「ベートーヴェン」の記述によれば、「彼は、この甥を愛する事、父親以上であった。その愛は、殆(ほとん)ど彼の性格を変じさせた。甥に財産を残す為に守銭奴の如く吝嗇(りんしょく)にさえなった。死の床で最後まで心配し、最後にペンを握る努力をしたのも甥の為であった」。晩年のベートーヴェンは甥カールのために健康が優れない中でも曲を書き続けた。

ベートーヴェンは甥カールに最高の教育を受けさせようと一流の学校に入れたが、カールはそれを疎(うと)ましく感じていたようでカールの成長につれ彼の怠学癖は強くなり、二人の間で口論も多くなっていった。決定的だったのは、カールに芸術家になるよう望むベートーヴェンに対し当のカールは軍人志望であって、そのため二人の「親子」の不仲はさらに進み、ある日、カールは拳銃自殺をしてしまう。幸いなことに一命をとりとめ自殺未遂に終わったが、カールは後日、警察の取り調べに対し「伯父(ベートーヴェン)は自分をよくしようと望んだが、そのために自分は悪くなった」と供述したという。その後、傷が癒(い)えたカールに対しベートーヴェンは甥の後見人を辞退し、ベートーヴェンはカールの自殺未遂を契機に彼に対し譲歩するようになった。最終的にはカールが軍人となることも認めている。それからカールは連隊に入隊し、ベートーヴェンとカールの関係は穏(おだ)やかで良好であった。ベートーヴェンは1826年の末頃から体調を崩して、やがて重態に陥り、「伯父の死近し」の報を受けたカールは休暇を取ってベートーヴェンのもとに向かったが葬儀には間に合わなかったという。

長谷川千秋「ベートーヴェン」の「甥カール」の章を読んで何という人間の愛憎、肉親で互いに愛するがゆえの行き違い、最悪の自殺未遂にまで至ってしまう互いの一時的な不幸、打算なく無心に愛するがために支援し干渉して「その人の人生を所有しようとする」ことの難しさ、愚かさともいうべきか。音楽活動以外での人間ベートーヴェンの生きることの不器用さを読む者に強く感じさせて深く心に残る一連の評伝記述である。

さて、岩波新書の長谷川千秋「ベートーヴェン」のもう一つの読み方は著者である長谷川千秋その人の生涯を読み取り深く感じることだ。長谷川千秋(1908─45年)は高校時代から音楽活動をやり、後に東京大学文学部美学科に進学、専攻は音楽美学であった。その後、音楽と文筆の創作活動に入り、岩波新書「ベートーヴェン」の上梓以外にも小説執筆にて芥川賞候補に選ばれ、また川端康成から高い評価を受け、寺田寅彦の子息との交友もあった。その他、雑誌編集や映画音楽を手掛けたり、校歌制作や音楽理論に関する研究も行ったという。私生活では一男一女の二人の子に恵まれた。

しかし1944年、召集令状により長谷川は入隊。その後、沖縄に送られた。戦地からの家族宛の多数のハガキが残った。1945年6月に長谷川千秋、戦死の報が伝えられる。最期は声を出して呼べないほどの戦況のなか、目も耳も不自由になってしまった千秋を上官はベルトにつかまらせて移動していたという。分かっているのはそこまでで1947年に千秋戦死の公報がもたらされた。妻の手箱には「千秋の消息は不明」の厚生省援護局のハガキがしまわれていた。

先のアジア・太平洋戦争にて国家に軍事動員させられて戦地で亡くなった人は実に多い。また過酷な戦時暴力にさらされ、戦火に巻き込まれ亡くなった非戦闘員の一般市民の方も多くいる。それら人々の無念を思わずにはいられない。岩波新書の赤、長谷川千秋「ベートーヴェン」を読むと、戦時動員されて戦場にて37歳の若さで家族を残して亡くなった長谷川千秋その人の無念を私は痛切に感じる次第である。

(※長谷川千秋の詳細については、「長谷川千秋・生誕100周年記念ホームページ」の「長谷川千秋プロフィール」記事を参考にさせて頂きました。)