アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(179)松浪信三郎「死の思索」

岩波新書の黄「死の思索」(1983年)を執筆した松浪信三郎は、サルトルの著作の日本語訳を手掛けており、また氏による岩波新書として青版の「実存主義」(1962年)も以前にあった。

そもそも実存主義とは、人間の実存(現実存在)を哲学の中心におく思想であり、「実存は本質に先立つ」というように、普遍的・必然的な本質存在に相対立する個別的・偶然的な現実存在の優越を本来性として主張し考察する哲学立場のことである。「個別的・偶然的な現実存在の優越を本来性として主張する」というのは、より直接的に言って、形而上学的な神や理性などの普遍的で本質的な哲学課題の解明よりも、個別的で偶然的な現実存在たる私に強烈に差し迫ってくる人間の不安や死そのものを優先して考える哲学に他ならない。

そのような「実存主義」の岩波新書を以前に上梓していた松浪信三郎であればこそ、本書「死の思索」も氏の実存主義哲学への幅広く深い見識に支えられた実に手慣れた仕事の新書だといえる。また「あとがき」を読むと、「私は今年で七0歳に達する。死について語るのに決して早すぎはしない年齢になった」とあり、本新書は「(執筆時に)今年で七0歳に達する」松浪自身の人間的実存に裏打ちされ読んで誠に感慨深いものがある。ここで本書「死の思索」の目次を書き出してみると、

「Ⅰ・哲学は死の稽古である─ソクラテスの死生観、Ⅱ・『われは生命(いのち)なり』─『新約聖書』の死生観、Ⅲ・生命(いのち)はどこで終わっても、それがそのまま全体だ─モンテーニュの死生観、Ⅳ・人はひとり死ぬであろう─パスカルの死生観、Ⅴ・生まれるのも不条理、死ぬのも不条理─サルトルの死生観」

著者は「死の思索」について、ギリシア的な考え方とキリスト教的な考え方を対比させる意味で、まずソクラテスの死生観を、続いて「新約聖書」の死生観を挙げる。そのあと近世ないしは近代の二人の思想家、モンテーニュとパスカルのそれぞれの死生観を読む。その上で最後に、現代哲学のサルトルから現代人の私達の死生観に最も近いと思われる「死の思索」を導き出す構成だ。

最初のソクラテスと「新約聖書」に見られる死生観については、ギリシア哲学のポリス(共同体)至上主義な生滅し循環するギリシア哲学の時間観念と、極めて個人主義的な不可逆で直線的に彼岸の終末に向かうキリスト教的時間観念との相違を踏まえつつ、両者の「人間の死」の観念に関する紹介と考察になっている。これら西洋古代人の「死の思索」について、人間を生かしている普遍的物質としてのプシュケーだとか、輪廻転生(りんねてんしょう)、「人間は死ぬが、しかし霊魂は不死」の認識や「復活という永遠の生命」の議論など現代の私達の人間死の常識からかけ離れた形而上学的かつ神秘的な理論であり、冒頭のソクラテスのギリシア哲学と「新約聖書」のキリスト教に見られる「死の思索」に対しては、読んで(少なくとも私には)共感や参考になる知見は少ない。

だが、次の近世ないしは近代の思想家のモンテーニュとパスカルの章になると、いくぶん現代の私達の死生観に近くなってくる。例えばモンテーニュの人間の死に対する心構えは、不可避でやがて来る自分の死に対し、「至るところで死を待ち受ける」「あらかじめ死を思う」など、死を常に反芻(はんすう)することで、いたずらに死に恐怖することなく、むしろ逆に死を手なずけようとする。そして最後には自然的人間にふさわしい悟りに到達するというものである。すなわち、「死を気にするには及ばない。そのときがくれば自然が死に方を間違いなく教えてくれる」というものであった。他方、パスカルおいては、人々が日々の生活の中で遊戯や仕事の騒ぎや忙しさの気晴らしの虚妄にかまけて人間に付きまとう死の事実を忌避している現状を批判し、「人はひとりで死ぬであろう、心を安んぜよ」と説く。

それから最後に現代哲学のサルトルの死生観、「生まれるのも不条理、死ぬのも不条理」「死とは私にとって可能性が全く存在しなくなることである」の概観へと連なる。最終章のサルトルに関し、著者の松浪信三郎はこれまでに訳書や研究実績があるためか、さすがにサルトルの実存思想は書き慣れている感がある。またサルトルの、宗教を直接媒介にしない無神体験による「神を介さない実存」からの哲学的概念による死への考察は、現代の私達の死生観に最も近いと思える。ゆえに本書にてのサルトルの章は読みがいがある。

岩波新書「死の思索」にて、先に述べたように特に後半の三つの章、モンテーニュとパスカルとサルトルの死生観が比較的読みがいがあるのは、それは現代人の死生観に相当に近い死生観であるからだと思われる。例えば、モンテーニュにての個人による絶え間ない死の覚悟と自然的死の理想は、ルネサンスを経て、これまでの古代や中世西洋のポリスや宗教共同体的に媒介された死の観念を払拭して、「死の思索」を個人の理性的判断の内に主体的に引き受けようとする思考の現れであった。またパスカルによる「遊戯や仕事にかまけて我々は死を忘却し忌避している、我々は死に向き合っていない」旨の批判は、近代に入り人間の個人主義的実存の深まりによる「個(孤)」の認識とともに、近代社会にて来世の彼岸の観念薄く、現世にての世俗の繁栄(遊戯や仕事)に人々が没頭する、古代や中世とは異なった新しい社会の到来を、日常俗事の気休め活動に没頭し死を忘れて忌避する同時代人批判の裏返しの内に見事に指摘していた。

最終章のサルトルに至っては、もはや宗教的観念(神や超越や奇跡や来世など)を使って死を考察することが許されない時代、まさに神を排した哲学的思考のみにて人間の死は(同時に生も)不条理の確信に到達する。実存主義には当然、キリスト教的な神を介する実存の立場もあるが、著者が選択し強調するのは、非キリスト教的な神を志向しないサルトルの実存主義哲学、神なき時代の人間存在の生と死を考察する非宗教的哲学なのであった。

このように読み進めると、本書は「死の思索」を五つの章にて順次に述べながら死の考察の追究に止(とど)まることなく、古代・中世から近代・現代までの西洋哲学の時代の基本をコンパクトに語っている誠に周到な、いわゆる「西洋哲学小史」の体裁にもなっていることに気付く。

本書の紹介で「死とは何かを問うことは、同時に生とは何かを問うことであり、人間とは何かを考えること」という文章がよく添えられる。著者は、五つの章にて西洋哲学の代表的な死生観を概観してはいるが、著者である松浪信三郎その人の「私ならば死について、このように考える」や「私が思うに死とはこうであるから、このように死と向き合い処するのがよい。人間はこのように生きるべきだ」といった著者の独自の死の定義や死と生への処方箋(しょほうせん)記述は岩波新書「死の思索」には残念ながら、ない。そうした「死の思索」は、本書を参考に著者の松浪信三郎も含め、私達が日常的に時に言外で言葉を使わず、ねばり強く根源的に考えていくしかない。模範解答の正解は容易に出ない、人間についての「死の思索」であると私には思える。