アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(186)岩井忠熊「西園寺公望」

おそらく、どんな人にも好みの歴史上の人物が必ずいるに違いなく、私も日本史にて好きな人は数人いる。そして、その筆頭に近代日本の政治家、西園寺公望を私は挙げる。西園寺公望が昔から好きなのだ。私は、いつも西園寺に心惹(ひ)かれている。

「西園寺公望(1849─1940年)は、公家出身の政治家。文・外相などを歴任。1903年、伊藤博文の後を受けて立憲政友会総裁となり、明治末期に2度組閣した。第一次世界大戦後のパリ講和会議の全権委員を務め、大正後期以降は、ただ一人の元老として立憲政治の保持に尽力した」

西園寺は幕末の1849年生まれであり、10代の時には戊辰戦争にて官軍の総督を務め、明治維新の際には、まだ19歳であった。その後、フランスに留学し史上初の社会主義的政権たるパリ・コミューンの時代のフランス革命を目撃し、後に帰国して自由民権運動時の中江兆民が主筆の「東洋自由新聞」の社長になった。だが、明治天皇の「内勅」にて直々(じきじき)に宮中に呼び戻され、伊藤博文の後を受けて立憲政友会総裁となり、明治末からいわゆる「桂園時代」を牽引(けんいん)し度々組閣した。その頃には時代は明治から大正へ移りつつあった。それから大正から昭和にかけて元老の重責をになった。特に大正後期以降は、元老は西園寺公望ただ一人であった。第二次世界大戦の開戦を見届け、1940年、国政が第二次近衛文麿内閣の時に西園寺公望は没し、91年間の生涯を閉じた。

何よりもまず西園寺に関しては、彼の生年と没年とを確認して頂きたい。幕末に生まれ、日米開戦間際に没している。西園寺公望は明治と大正と昭和を生きて近代天皇制国家と共にあった。まさに「近代日本を体現した」政治家であった。明治維新から自由民権、日清・日露戦争、大正デモクラシー、第一次世界大戦、昭和ファシズム、十五年戦争の全てを一人の男が同時代に生きて経験しているとは話が出来すぎている。人は自身が生まれてくる時代や没する年月を指定できない(本当はより厳密に言って人生が始まる生まれてくる年月は指定出来ないが、人生が終わる没する年月だけはコントロールできる、自殺という非情手段によって)。西園寺公望と同様、明治から大正を経て昭和を生きた近代日本の全てを同時代人として経験できた人物に徳富蘇峰(1863─1957年)がいる。

私が特に好きな西園寺公望のエピソードとして、以下の二つを挙げることができる。

西園寺は伊藤博文に見出だされ伊藤の後継に指名され、立憲政友会の総裁となり後に組閣するまでに至るが、もともと西園寺は現実政治への熱意や権力政治にて成りあがる野心など皆無で、政友会総裁や内閣ポストや首相の仕事を淡々と、ある意味、世俗を超越してやっていた。「やる気のない首相」の西園寺公望であった。だから、立憲政政友会の総裁に伊藤博文の後継指名でなっても成りあがりの長州閥出身の伊藤を西園寺は内心、馬鹿にしていたし、政友会の総裁には渋々なったものの政党内の実務は勤勉な原敬に一切を任せ、やらせていた。西園寺公望その人は政治の仕事に全くのやる気のなさを見せた。

この人は公家の生まれで幼少時から宮中に出入りし明治天皇と交友して天皇と面識あるような、ある意味、超越して高踏で余裕な人である。生まれがよい生来的な貴族的資質の人であった。ゆえに下剋上の成りあがりの立身出世主義や泥臭い世俗の権力掌握や政治闘争への惑溺(わくでき)、自己の派閥形成の思い上がりや親分・子分の仁義の筋道とは無縁で、極めて個人主義的な洗練された大人な人であった。また若い頃にフランスへの留学経験もあり、豊かな国際経験とリベラルな政治見識とを兼ね備えていた。

そうした西園寺公望が伊藤博文の邸宅を尾崎行雄と訪れた際に、伊藤が席を外すと「政治などというものは、ここの親爺のような俗物のやることだ」と吐き捨てるように言ったという。これは傑作だ。この一言だけで伊藤博文やその他政治家たちと西園寺公望との格の違いを思い知らされる。当然、西園寺の方が一枚も二枚も遥かに格上である。西園寺は破格の超一級であり、高踏で上等である。

もう一つの私が好きな西園寺のエピソードは、以下のような西園寺の軍人嫌いに関係する。西園寺公望は天皇側近の宮中グループに属し大正後期から、ただ一人の元老として立憲政治の保持に尽力した。「最後の元老」として昭和史で唯一の「内閣製造者」の役割を果たした。戦前の日本では首相の決定は、まず元老からの後継首班の奏薦を内々に受け、後に正式に天皇より組閣の勅命が下るシステムであったのだ。

公家出身で日本の政党政治確立に尽力し、後継首班の奏薦に「憲政の常道」(大日本帝国憲法下で運用されていた政党政治の政界の慣例で、天皇による内閣総理大臣の任命にて、衆議院での第一党の政党の党首が内閣総理大臣となり組閣すること)を守った西園寺は、右派や軍部の暴走を抑えたい天皇側近の宮中グループの中心人物であった。事実、西園寺は昭和に入って軍人が政治に介入し、陸軍大臣が属している内閣の意向を無視して現場にて暴走する右派や軍部の連中を忌避し嫌悪していた。そのため、内閣の後継指名にも軍部を押さえるような牽制(けんせい)の組閣人事を度々なした。五摂家筆頭の近衛文麿を政界デビューさせ後に近衛に組閣させたのも、皇族に果てしなく近い近衛をして軍部の暴走を封じ込めたい宮中グループの元老、西園寺の考えであった。

西園寺は自身と同じ元老であり軍閥の首領であった山県有朋とは終生、反(そ)りが合わなかったし、枢密院の平沼騏一郎は西園寺からすれば散々たる悪評であった。張作霖爆殺事件(「満州某重大事件」)など大陸前線にてやりたい放題で、戦闘実務の事後報告の既成事実の積み重ねにて、やたら戦争をやりたがる軍人や、そうした軍部を支持の強硬外交路線の枢密院に西園寺は辟易(へきえき)していた。また五・一五事件や二・二六事件のクーデターで内閣が総辞職に追い込まれた際も、暴力テロ首謀者らに利するような「悪しき前例」にならぬよう後継内閣の指名に西園寺は苦心した。若い時分に海外への留学経験があり、リベラルな政治見識を兼ね備え、協調外交とある程度の政党政治を知っていた西園寺にとって軍部の暴走は異常に思えた。

こうした西園寺が全権委員を務めた第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)から帰国して間もなく、朝鮮総督に任ぜられて京城に赴任することになった斎藤実の送別宴が原首相の主催で開かれ、西園寺もこれに出席した。主賓(しゅひん)である斎藤の挨拶が終ったとき、席上は一旦静かになった。そのとき突然に西園寺は盃を上げて大きな声で「閣下、文明の政治を願ひます」と斎藤総督にむかって言った、という。

パリ講和に日本全権委員として出席した時分には西園寺は70歳に達しており、「内閣製造者」たる元老の立場から原敬に組閣を指示するような隠然たる実力者の立場にあった。そうした西園寺からみて、朝鮮総督に就任し現地に出向く海軍大将の斎藤実など明らかに格下の軍人の役人でしかなかった。しかし、そうした斎藤実に向かって丁寧に「閣下、文明の政治を願ひます」。従来の武力による朝鮮統治の「武断政治」を暗に諌(いさ)め、「文化政治」の「文明の政治を」と野次(やじ)を飛ばして衆目の面前で釘をさす。軍部と距離をおく「穏健な帝国主義者」にてリベラルな側面が感じられる、高踏派の余裕とユーモアの機知とに富んだ西園寺公望である。このエピソードも相当に傑作で私は特に気に入っている。

西園寺公望の評伝に関しては、岡義武「近代日本の政治家」(1960年)に収録の「最後の元老・西園寺公望」や、伊藤之雄「古希からの挑戦・元老西園寺公望」(2007年)の名作・力作があるが、岩波新書の岩井忠熊「西園寺公望・最後の元老」(2006年)がよくまとまっていると思う。

西園寺公望は私塾立命館の創始者であり、私塾を一度閉鎖した後、西園寺の側近が「私塾立命館」の名跡を譲り受け発展させて現在の立命館大学に至る。そうした経緯にて、西園寺は直接の創設者ではないけれど、立命館大学の学祖ではあった。岩波新書「西園寺公望」を執筆の岩井忠熊は立命館大学名誉教授であり、立命館大学編「西園寺公望伝」(1990年)の編纂委員長だった人である。ゆえに立命館学閥による立命館創始者の西園寺に対し、本書は全体に肯定称賛の顕彰色が強い評伝になってはいる。しかし「おわりに・失敗に学ぶ」にて、西園寺公望その人の問題点や西園寺の時代の限界性の指摘もあり(天皇至上主義、「文明」の名の下での侵略是認、アジアのナショナリズムへの無理解など)、幅広い評伝記述に好感が持てる。「西園寺公望を知る最初の一冊」として初学者にも大変に有益である。

最後に岩波新書の赤、岩井忠熊「西園寺公望」の帯にある本文抜粋を載せておく。

「西園寺が日本の近代史に登場するのは一人の有力な政治家としてであった。しかし西園寺にはデーモンに取りつかれたような政治家特有の情熱が見られない。目標に向けて遮二無二(しゃにむに)突進する気迫もない。そのかわりに、いつも透徹した見通しと冷静な分析があった。西園寺がしばしば政治家として熱がないと評されながら、それでも重んじられたのは、西園寺の余人の追随を許さぬリアルな見通しと分析に負うといってよい」