アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(189)岡本清一「自由の問題」

人間の自由について、「自由とは拘束の欠如」とよく言われる。しかし、そうした何ら拘束されず強制のないことを「自由」とするのは人間の本来的な自由ではない。

加えて、そういった束縛や強制なく、常に自分のやりたいように自身の欲望の赴(おもむ)くままに思考し行動するのも人間の自由ではない。そういうのは、いわば自身の「欲望の奴隷」である。なるほど、動物は「自由」である。誰にも束縛されることなく本能のままに行動する。食べたいときに食べて寝たいときに寝て好き勝手にどこにでも行く。そうした動物のように欲望のままに欲望充足のみを主眼とする人間の生き方を、思想史研究ないしは文芸批評では欲望自然主義(欲望ナチュラリズム)と呼ぶ。人間の欲望は自然に際限なく溢(あふ)れ出てくるものだから、その都度、欲望充足を果たすことこそが人間の「幸福」であるとする動物本能的な生き方である。この欲望自然主義は何も拘束や強制を受けることのない「自由」の謳歌(おうか)と表裏をなしている。

ところで、近代は人間主体確立の理性の時代である。人間の自由について、前近代から「人間は欲に手足が付いた物ぞかし」云々の欲望自然主義に依拠した人間理解ないしは欲望充足的な「自由」を極める人間の生き方は、あった。だが、近代にて単なる厳格主義(リゴリズム)の禁欲ではない、欲望自然主義を超える人間理性に基づく主体的な自由が成立する。以下、前近代のフィルマーやホッブズの「自由」と対照せられる、近代のジョン・ロックにおける人間の自由定義に関する解説記述を引こう。

「名誉革命の思想家、ジョン・ロックにおいては、自由という観念は『行為者が精神の決定或は思考に従って特定の行為をし又は思い止まる事のいずれかを選択しうる能力』を意味する。従って、行為の前に、行為の結果の善悪を精査し勘考し、判断する充分の機会を持つということが自由の前提であり、『我々自身の判断によって決定せられていることは、なんら自由の拘束ではない』。…フィルマーやホッブズにおいては、自由とは第一義的に拘束の欠如であり、それに尽きているのに対し、ロックにおいては、より積極的に理性的な自己決定の能力と考えられている」(丸山眞男「日本における自由意識の形成と特質」1947年)

自身の欲望充足の堕落を戒(いまし)め、主体的に制限(コントロール)できるのは、積極的に理性的な自己決定ができる近代の人間だけだ。すなわち「(前近代の)フィルマーやホッブズにおいては、自由とは第一義的に拘束の欠如であり、それに尽きているのに対し、(近代の)ロックにおいては、より積極的に理性的な自己決定の能力と考えられている」。「自由とは拘束の欠如であり、制限なく欲望の赴くままにやりたいようにやるのが自由」とするような従来的な欲望充足の「自由」に対して、自身の成長のためには時に禁欲し、自分からあえて拘束や強制を自らに課す(いわゆる「人間の自然的欲望の規範化」をなす)、人間の主体的判断による自由も近代人には原理的にありうる。なぜならロックにおいて明確なように「自由とは積極的に理性的な自己決定の能力」にあるのだから。

その上で近代における人間の自由は、理性による自己決定に加えて、さらに人間主体と状況対象との関係性から人間の自由に際しての主体行為の理路を、やがては見切るまでに至った。今度は、近代のマルクスとエンゲルスにおける人間の自由定義に関する記述を引こう。

「必然性が盲目であるのは、ただそれが理解されない限りにおいてのみである。自由は、自然法則からの夢想された独立にあるのではなく、この諸法則の認識にあり、そして、この認識と結びつけられているところの、この諸法則を計画的に特定の諸目的のために作用させる可能性にあるのである」「だから、意思の自由とは、ことがらについて知識をもって決定しうる能力をいうものにほかならない」「したがって自由とは、自然の必然性にもとづいて、我々自身ならびに外的自然を支配することである」(エンゲルス「反デューリング論」1878年)

ここでは「自由とは拘束の欠如」の素朴な自由観から離れて、かなり遠い地点にまで来ている。「自由とは人間理性の主体的決定」であるのみならず、「自由とは必然性の認識」という点にまで到達しているのだ。この必然の法則認識に絡(から)めた近代の自由観は、人間主体を必然性という不自由に束縛しているようにも一見思える。しかしながら、例えば台風から自由になるためには台風の法則をとらえて事前に進路予測や被害対策をし、泥棒から自由になるためには、泥棒の犯行手口の法則をつかんで戸口に鍵をかけるなどしなければならない。また資本主義の矛盾から自由になるには、資本主義の政治と経済の法則をよく知って初めてその克服が可能となる。

自由とは必然の法則をよく知り、それに基づいて自分ならびに外的自然を支配することである。だから自由を得るためにはどうしても必然の法則を捕捉しなければならない。物事の傾向や原則の必然を知ってそれに従うのは人間に対する拘束の「不自由」ではない、むしろ人間にとっての自由の発露である。

このことは私の日頃の生活実感からしても納得できる。その都度、自身の欲望充足と恣意的な選択行動でフラフラと不安定に気分的に判断行動している人は、当人は何にも束縛・強制されず主観的に「自由」であるかもしれないが、それは自由ではない。その時々で場当たり的にフラフラと不安定に恣意的であるのではなく、自身の中に明確な基準や見通しの原理原則の必然性があって、常に即座にその必然性に則(のっと)って判断行動するのが本当の人間の自由である。だから真に自由な人間はフラフラと場当たり的にならない。常に自身にとっての「必然の自由」を知っているから、何事にも静かに即座に気分のムラなく安定し一貫して思考し行動する。いつも静かに的確にブレずに確信を持って必然的に物事に対処できる。

自由とは外部から自身が拘束されないことだから、自身の主体的判断によってその時々で欲望充足的に奔放に行動したり、何かを主体的に選択することで一見、近代的「自由」を手にしているように思えるけれども、さらに近代の内実が進むと、そうした自身に降りかかる拘束を回避したり主体的に選択したりするのは、ただ単に自己本意でフラフラしているだけの不安定な混沌の状態でしかなく、マルクスにまで至ると、人間の自由とは不安定な混沌を脱して人間主体における整序された必然的原則(いわば真理)への志向や献身にまでなる。「拘束の欠如」と「主体的決断」とを乗り越え、さらに進んで「必然の認識」へと人間の自由は実に見事なまでに昇華されるのであった。

岩波新書の青、岡本清一「自由の問題」(1959年)は、この辺りのことを詳しく書いている。上述のような「拘束の欠如」と「必然の認識」の相違の自由の原理的抽象的な話を「『自由』の概念の整理」として著者は全くの誤魔化しなく相当に厳密に何もないところから説明し整理し尽くしている。

本書より前に同じ岩波新書にて、高桑純夫「人間の自由について」(1949年)があった。高桑「人間の自由について」は主にカントの自由論について述べたものであり、岡本清一「自由の問題」は主にマルクスの自由論に関し論じたものである。哲学的自由の考察にて西洋哲学史の時代順に、それぞれカントとマルクスとに分けて論じていて実は二冊で続き物になっている。