アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(193)丸山静雄「インパール作戦従軍記」

岩波新書の黄、丸山静雄「インパール作戦従軍記・一新聞記者の回想」(1984年)は、戦時に朝日新聞記者の立場から「インパール作戦」に従軍した著者による「一新聞記者の回想」である。従軍記者としての戦場での個人体験を記録することに時に葛藤し、その意味を突き詰め、従軍から40年後の1984年にやっと刊行できた、戦場の事実を幾分突き放し冷静に考察記述した社会派ジャーナリストによる優れた従軍記(戦争記録)だ。

だから本書の「はじめに・四0年めの従軍記」にて、これまで「インパール作戦従軍記」を執筆しようとしたが何度も思い止(とど)まり、しかし少なくとも二回は書いて廃棄し、また書いてを繰り返し、やっと40年目に完成公表した著者の筆による「インパール作戦従軍記」は、氏のなかでの40年間の自己批判や内的葛藤や反省意識の過程をすでに知る読者には誠に読む感触が重いのである。

「インパール従軍について書いてみようと思ったとき、わたしを最初に駆りたてていたのは、どちらかといえば自己顕示欲だったと思う。…戦いの悲惨さ、そうした悲惨さが兵隊にしわ寄せられる戦いのの実相は、わたしこそが見とどけたものであるという一種の『おごり』が心のなかにあり、それを書くことによってわたしの存在を誇示したいというひそかな願望があったようである。…二回目に筆をとろうとしたときには、…自分のこと、日本の兵隊のこと、戦争のなかでの日本の立場に関心を奪われていた従来の姿勢から一歩離れて、わたしは他者のこと、アジアのことをより鮮明に考えるようになった。…アジアのことに考えが及ぶとき、それはより明確に侵略者としての日本、加害者としての日本人を再発見することにほかならなかった。大東亜共栄圏は虚像であった。わたしは慄然(りつぜん)とした。三回目の発見は、インパール作戦は無用の戦いでなかったかという反省である。…そのことに思いいたり、無用の戦いであったことを思いきって書くことこそがわたしにあたえられた課題ではないかと考えた」(「書くことの意味」)

著者のなかで「インパール作戦従軍記」を「書くことの意味」についての葛藤と自己内変化があった。それは三段階に分かれる。最初は、せっかく苦労して従軍し生還したのだから新聞記者としての私の自己顕示欲の「おごり」から従軍記を書こうと思った。それから二回目は、日本軍兵士のことだけではなく被害者としての現地ビルマやインドのアジアの人々のことに気付いて、すると同時に加害者としての自分たち日本人のことも分かってきた。そうして三回目でインパール作戦は無用の戦いだったと明確に作戦を否定する反省の思いに至った。この時になって初めて「インパール作戦従軍記」をやっと書ききることが出来た。すでに相当に年月が経過し、著者にとってまさに「四0年めの従軍記」になっていたのだった。

インパール作戦(日本側作戦名・ウ号作戦)とは、1944年3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてビルマ奪還を企てるイギリスのインド軍前進基地があるインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。制空権のない日本軍は後方からの補給も得られず戦うことになった。他方、イギリス軍はビルマに空挺師団を送り込み、重戦車、重砲、航空機の機械化師団にて日本軍を圧倒した。軽装備で食糧と弾薬の補給を断たれた日本軍は撤退するしかなかった。本作戦は、参加した日本陸軍部隊に多大な損害を出して7月に中止された。インパール作戦に動員された人員は9万人を超えるとされ、作戦遂行に伴う戦死者、戦病死者、行方不明者は各師団兵力の実に70%に達したともいわれる。これは相当に高い死傷率である。作戦に参加した多くの日本兵が死亡したため、インパール作戦は後に「史上最悪の作戦」と呼ばれるまでになった。

岩波新書「インパール作戦従軍記」の著者・丸山静雄は当時、朝日新聞記者であり、 1944年3月にビルマのラングーンに入り、朝日新聞ラングーン支局から作戦軍(第十五軍)司令部のあるメイショウに向かう。その後、第十五軍山本支隊に従軍してインパール作戦の進攻から敗走まで日本軍兵士らと行動を共にした。ただし、著者はインパール作戦がすでに動き出した後の遅れた時期に現地に入っており、しかも報道管制の割り当てから他社新聞とは異なりカメラマンとの記者団編成なく、「報道記事にしない」前提の単独従軍というフリーな立場で山本支隊に帯同している。

従来のインパール作戦に関する読み物では、1944年7月以降の日本軍の敗走過程がかなり扇情的に時に劇画調に語られる傾向にある。「退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く蛆(うじ)の湧(わ)いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有り様から『白骨街道』と呼ばれ」云々といったような凄惨(せいさん)な語りだ。本書「インパール作戦従軍記」にても、こうした退却戦の過程の詳細描写があり、著者の身体の不調と精神的に追い詰められる極限状況の記述、著者が居合わせた前線近くの野戦病院の描写が一つの読み所とはいえる。本新書でいえば「敗走千里」の章がそれに当たる。

ただし本書「インパール作戦従軍記」は、そういった従軍記者たる著者の実際の体験回想に終始するものではなく、前述のような「従軍記を書くことの意味」に絡(から)めてインパール作戦に関する軍事的再考である「インパール作戦考」や、戦地での日本軍とビルマ軍とインド国民軍との共闘事情や行軍にて出会った現地住民(ナガ族ら)のことを記した「インパール従軍」や、この従軍を経て著者の中での「組織と人間」観に大きな変化をもたらすこととなった「インパール開眼」など、一冊の書物として極めて冷静に総合的に考察記述されていることも確かだ。

あと岩波新書「インパール作戦従軍記」の読み所としては、作戦立案と指揮にて主要な役割を果たした牟田口中将に関する記述が挙げられる。

牟田口廉也(むたぐち・れんや)は、インパール作戦を指揮した第十五軍司令官であった。インパール作戦に際し、当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口中将の強硬な主張により作戦は決行されたという。補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦指揮者の代名詞として現代でもしばしば引用される人物である。戦後、「インパールでの日本軍敗北の責任は牟田口にある」とする評価が支配的である。あまりに激しい敵の猛攻に作戦中止を進言した兵団長が牟田口の怒りに触れ戦闘中に解任されたり、「第一線は撃つに弾なく、今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」の前線兵団長から打たれた後方打電の逸話は有名だ。「一将功成らずして万骨枯る」という言葉は、インパールにて大勢の部下を死に至らしめ、だが、かくたる責任追及や厳重懲罰なく戦後も生き残った牟田口廉也中将と共に主に語られるものとなった。

インパール作戦に関する書物を連続して読んでいると、必ず牟田口廉也に対する中傷の個人攻撃が出てくる。私は、そうした牟田口への感情的な個人攻撃の戦争責任論に違和感を抱いてきた。確かに牟田口は、合理的な作戦立案と軍務遂行の思考を欠いた旧日本軍人にありがちな無責任で非合理的な精神主義(根性論)と、さらには部下たる兵士の人命軽視の悪性を備えた典型的な帝国陸軍指揮官ではあった。また牟田口がインパール作戦の主唱者であった以上は責任甚大であるのは当然である。しかしながら、牟田口一人に罪を被(かぶ)せるのは酷(こく)である。

結果的に数万人の兵士を動員した一大軍事作戦にて、一人の将校に主な責任を帰させるのは無理がある。常識的に考えてインパール作戦の立案や承認や実戦推移に際し、牟田口個人の独断や暴走で作戦遂行・継続できるわけがないのである。当然、牟田口以外のビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長や牟田口に従った下士官の責任もあるはずだからだ。事は個人の責任問題ではなくて、組織的なそれである。インパール関連の関係者の回想談話や手記、事後のインド・ビルマ戦線に関する歴史研究を読んでいると、特に軍関係の当事者のほとんどが自身の責任逃れのためなのか、時に苛烈に不自然なまでに牟田口の個人攻撃に転じているように私には思えた。

確かに牟田口廉也は、戦闘指揮の司令官として合理的な戦術能力に欠けており恐ろしく非合理で精神主義的な、決して優秀ではない「愚将」であったことを私も否定しない。しかし、牟田口廉也に対する中傷に近い個人攻撃の叩かれ方は異常すぎる、少なくとも私には酷に思えた。昔からインパール関連書籍にて、牟田口廉也(と後は河辺正三あたり)を個人攻撃で徹底的に叩いておけば溜飲(りゅういん)が下がるのかもしれないが、本当にそれで良いのだろうか。

岩波新書「インパール作戦従軍記」の中で、著者の丸山静雄が実際に牟田口中将と同席し、やり取りした場面回想の記述がある。

「作戦計画が破綻し、全軍の退却がはじまったころ、わたしはクンタンの第十五軍司令部で牟田口将軍に会ったことがある。軍司令官部といっても、森のなかに建てられた数軒の藁葺(わらぶき)小舎である。…司令部の要員もすでにほとんどが後方に下り、わずか数名の下士官、兵が残るだけだった。その小舎の一隅に将軍は腰かけていた。…剛直とうわさされ、他人の気持に思いをいたすようなことはなく、ただ強引に自説をおし通すといわれた将軍の面影(おもかげ)はどこにもなかった。副官のもらすところによると、将軍が自決するのではないかと、たえず気をくばっているということだった。孤影悄然(こえいしょうぜん)、まさに敗軍の将だった。辞去しようとすると、将軍は一ふりの刀を取りだして、わたしの前においた。…将軍は『記念にさしあげましょう』といった。わたしは黙って頭を下げ、刀をいただいて別れを告げた」(「敗軍の将」)

本書にて語られる「敗軍の将」牟田口廉也は、インパールを扱った類書にての「牟田口=悪玉」の典型描写とは少し違っている。そうした著者と牟田口の同席会話の記述が私には非常に印象深く、岩波新書の黄、丸山静雄「インパール作戦従軍記」にてのもう一つの読み所であると率直に思えた。