アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(209)カー「歴史とは何か」

岩波新書の青、カー「歴史とは何か」(1962年)は有名な古典の名著で、岩波新書の創刊節目の読者アンケートにていつも上位にランクインする新書であるし、特に大学生には昔から必ず読むように勧められる定番の推薦書だ。カーの「歴史とは何か」についての書評やレビューはこれまで多くあり、今さら私が何かを述べることもない程よく読まれている疑いのない古典の名著であるが、しかし本新書に対する私なりの読みを以下、軽く書いてみる。

カー「歴史とは何か」は、前述のように大学生に必ず読むように推薦される新書である。事実、私が大学入学した直後の新入生対象の歴史系講義に出席した際、カーの「歴史とは何か」を読んでレポート提出するよう指導された。その当時から、どういった内容のレポートを出したら高得点の良評価になるのか、すなわちカーの「歴史とは何か」に関し、「どう読めばこの書籍を完璧に読めて読みき切ったといえるのか」私はずっと考えていた。

そもそもの「歴史とは何か」の問いが優れている。日本史や世界史の人文科学ではそのまま歴史が学問対象てあるし、政治学や経済学や教育学などの社会科学でも「理論、歴史、政策」の三つの部門があり、そのうちの「歴史」にて、例えば政治史や経済史や教育史といった「××史」がだいたいあって、どのような学問であっても歴史的遡行(そこう)の概観をやる。ゆえに、どんな学問の何を専攻するにしても「歴史とは何か」の問いは実は各人にとって必要不可欠で本質的なテーマなのであり、この点からしてカーの「歴史とは何か」は、いつの時代でも無心に読まれるべきものがある。

「歴史とは何か」は、1961年1月から3月にかけてカーがケンブッジ大学でやった同タイトルの連続講演の記録である。本書を日本語訳した清水幾太郎の「はしがき」紹介にて清水が「歴史は現在と過去との対話である」の一文をあまりにも引用強調したため、今でもカーの「歴史とは何か」は「歴史は現在と過去との対話」という定番フレーズと共に語られることが多い。

あらかじめ訳者の清水幾太郎が、「目次を見て頂けば判るように、これは、歴史というものの根本問題を一つ一つ周到に論じた書物、つまり歴史哲学の書物である」と述べるが如くカーは誠に周到である。実は「歴史とは何か」の講演タイトルに合致するよう、各章にて「歴史とは××である」のクライマックスの決め台詞(せりふ)をカーは毎回だいたい置いている。後々議論がそこに集中し最後のまとめとなるように、ないしはその決め台詞を最初に置いて、そこから後の議論が展開するようリズムをもって毎回講演している。よって、カー「歴史とは何か」を正しく読み切るには、訳者の清水幾太郎が「はしがき」にて紹介の有名な「歴史は現在と過去との対話である」だけでなく、各章にある全ての「歴史とは××である」のカーによる渾身(こんしん)の決めの文句(フレーズ)を押さえておくことが重要である。以下、それらを書き出してみると、

「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」(「Ⅰ・歴史家と事実」40ページ)、「歴史というのは…抽象的な孤立した個人と個人との間の対話ではなく、今日の社会と昨日の社会との間の対話なのです」(「Ⅱ・社会と個人」77・78ページ)、「歴史は科学であること。…歴史家は既に言葉を使うことによって一般化を運命づけられているのです。…歴史家が本当に関心を持つのは、特殊的なものではなく、特殊的なもののうちにある一般的なもの(註─「法則・理論化」)なのです」(「Ⅲ・歴史と科学と道徳」79、90ページ)、「歴史の研究は原因の研究なのですから。…歴史家というのは、『なぜ』と問い続けるもので、…偉大な歴史家とは、新しい事柄について、また、新しい文脈において、『なぜ』という問題を提出するものなのであります」(「Ⅳ・歴史における因果関係」127・128ページ)、「歴史はその本質において変化であり、運動であり─古風な言葉に御反対でないなら─進歩であります」(「Ⅴ・進歩としての歴史」197ページ)、「歴史とは、人間がその理性を働かせて、環境を理解しようとし、環境に働きかけようとした長い間の奮闘のことなのです」(「Ⅵ・広がる地平線」200・201ページ)

以上、新書タイトル「歴史とは何か」の問いかけに呼応する全六章すべての「歴史とは××である」のカーの決めの台詞を抜き出してみた。訳者の清水幾太郎が指摘するように、確かにカーは周到であり、ここに彼の優れた歴史哲学の精神が体現されている。上の六つの「歴史とは××である」において、まず先天的で孤立して素朴実在する客観的な歴史認識や歴史的真理など存在しないとする立場をカーはとる。なぜなら「歴史とは、歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なので」あるから、歴史的事実の素材を解釈して再構成する現在的立場から過去の歴史に向き合う歴史家の不断の相互作用の操作、すなわち「現在と過去との対話」関係論的な要素が必ず入る(第Ⅰ章)。しかも、その歴史家は抽象的に孤立した個人ではなくて、ある特定の社会に属しその社会の常識的な価値意識を有する社会の中の個人である(第Ⅱ章)。まさにこの意味において、

「過去は、現在の光に照らして初めて私たちに理解出来るものでありますし、過去の光に照らして初めて私たちは現在をよく理解することが出来るものであります」(78ページ)

そして、こうした現在の社会的な個人たる歴史家が、無数にある特殊的な過去の歴史的事実を取捨選択し一般化し理論化して歴史学という科学を成立させる(第Ⅲ章)。すなわち「歴史は科学であること。…歴史家が本当に関心を持つのは、特殊的なものではなく、特殊的なもののうちにある一般的なもの(註─「法則・理論化」)なのです」。

ここまでがカー「歴史とは何か」の前半の3章の概要だ。その上で後半の3章は、第Ⅲ章の特殊的な歴史の一般化・理論化という科学的思考操作の内容を具体化する展開になっている。つまりは歴史とは無数に偶発的に生起するように思われる様々な過去の事柄に、歴史家が「なぜ」という問いを主体的に発し続けることによって「歴史における因果関係」の関係論的な解釈理論を構築すること(第Ⅳ章)、さらには、その因果関係よりなる歴史の変化に人間社会の向上変革の価値評価を乗せ、「進歩」という概念にまで高めて歴史に対する歴史家の解釈理論化の操作をより精密にすること(第Ⅴ章)。そうした二つの歴史の一般化・理論化の項目を挙げている。

当然、そこには「歴史は現在と過去との対話」という歴史構成の作用を通して、現在を起点に次々と起きてくる諸現象との対話も進めながら事実との相互作用の不断の過程を続け、歴史家が歴史を生成しなければならない、つまりはカーの「歴史とは何か」には、現在からして新たに未来(の歴史)を人間みずからが生成していく関係論的で主体的な歴史構成の重大な契機も含まれているのだ。その上で最後に「歴史とは人間が理性を働かせて、環境を理解しようとし、環境に働きかけようとした長い間の奮闘のことなのです」とまとめて(第Ⅵ章)、前半3章にて主張した「歴史とは、現在に生きる現代社会に属している歴史家が、無数にある特殊的な過去の歴史的事実を取捨選択し一般化し理論化して、歴史学という科学を成立させる営み」の趣旨を再度強調し、全六章の連続講演を終わらせる議論の手順になっている。

さらにここでは次の二つの点に留意しよう。歴史記述の中に歴史家による価値意識の主観性が不可避に入り込んでくるならば、「歴史的事実の認定」と「歴史への価値評価の判断」はその歴史家による自由な恣意的操作に委ねられてしまうのか、 そうしたカーの「歴史とは何か」に対する疑問や反論である。だが、ここでもカーは周到だ。

前者の「歴史的事実の認定」については早くも第Ⅰ章で以下のように述べて、歴史家が過去の事実を歪曲する、時に史料を捏造(ねつぞう)したり無理な強引解釈をして「以前にあった事実を歴史的になくしたり、逆に以前になかった事実を歴史的にあることにしたりする」ような、過去に関する単純な事実の歪曲を強く戒(いまし)めている。

「すべての歴史家にとって共通な基礎的事実というものがあって、これが謂わば歴史のバックボーンになる…歴史家はこういう点で間違いがあってはなりません。しかし、こういう点が強調されるたびに、私は、『正確は義務であって、美徳ではない』というハウスマンの言葉を思い出します。正確であるといって歴史家を賞讃するのは、よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく交ぜたコンクリートを用いたとかいって建築家を賞讃するようなものであります」(7ページ)

つまりは、過去の基礎的事実の間違いのない正確な取り扱いは歴史家において当たり前の義務なのであって、あたかもそれは建築家が「乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく交ぜたコンクリートを用いた」りするような日常的で極めて当たり前のことであって殊更に賞賛されるほどのことではなく、いくら「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用」とは言っても、歴史家による基礎的な歴史的事実の歪曲や捏造は許されないということだ。

後者の「歴史への価値評価の判断」に関しても、「超歴史的な価値があるか」の問いを発して「歴史家が自身の属している現在の社会の価値観から歴史を一方的に裁断して超越的に裁(さば)くことをカーは強く戒める。

「ここで私が主張したいと思うただ一つの論点は、抽象的な超歴史的な規準を打ち樹てて、それで歴史的行為を審(つまびら)くことは出来ないということであります」「ある時代、ある土地に特殊の価値や理想が生まれることは、時代および土地の歴史的条件によって説明されます。…社会から切り離され、歴史から切り離された抽象的な規準や価値というのは、抽象的な個人と全く同様の幻想であります。真面目な歴史家というのは、すべての価値の歴史的被制約性を認める人のことで、自分の価値に超歴史的客観性を要求する人のことではありません」(120・122ページ)

この一連の議論は、今日の歴史研究にてよく指摘される所の「ないものねだり」の研究批判に連なるものである。思えば、カー「歴史とは何か」の功績の一つとして「価値の歴史的被制約性」という言葉を世間に広めたことが挙げられる。「価値の歴史的被制約性」とは、歴史家の歴史的事実に対する操作も彼が打ち立てる歴史の理論も、歴史家が実際に属している時代と社会の歴史的状況(その歴史家が生きている現在)から捕捉され常に制約される相対的なものであるということだ。

例えば、現代の私達が古代ギリシアのポリスの民主政やローマ帝国の共和政を研究し一定の歴史的判断をする際、人間の平等権利や人権思想の近代の価値観から「古代ギリシアやローマの政治は確かに民主政であったが、それは奴隷制に基づく極めて不十分なものであった」として一刀両断に批判し否定的評価を下すことは「ないものねだり」の歴史研究であり、それは間違っている。過去の歴史はその時代と地域の価値意識に制約されており、ギリシアやローマの古代史にて、いまだ人間の平等権利の人権思想が成立する社会的基盤や時代的な客観条件がないからだ。

「歴史は現在と過去との対話」であり、すべての歴史家の歴史解釈には現在からの価値意識が必ず入り込むとしても、歴史家が持つ後の時代からの超歴史的な規準を無制限に入り込ませて、それで過去の歴史的出来事を超越的に裁くべきではない。それは現在の歴史家ないしは過去の歴史の中に生きた人々は決してその時代や当時の社会から切り離されてある超越的な個人ではなくて、その時々の時代状況に価値意識や理念思想は必ず制約されてあるとする「価値の歴史的被制約性」を踏まえて歴史に向き合っていないことになる。それでは自身の価値判断に超歴史的客観性を暗に含ませ、それを歴史対象にも無邪気に無理矢理に要求する「ないものねだり」の貧しい歴史学になってしまう。

こうした「歴史的事実の認定」と「歴史への価値評価の判断」の操作についての二つの留意点は非常に重要だ。特に後者に関し、「価値の歴史的被制約性」を指摘したカー「歴史とは何か」が、同時代と後の時代の歴史学ならびに近隣諸科学に与えた影響は誠に大きなものがあった。カーの「歴史とは何か」を通して「価値の歴史的被制約性」という言葉は、以後よく言われるようになった。ゆえに岩波新書のカー「歴史とは何か」についての書評やレビューは昔から多くあるが、その精巧さの見極め基準として「価値の歴史的被制約性」への言及があるが否かが、一つの判断評価の指標になるのではないか。例えば「歴史とは何か」に関する大学生のレポート提出にて「価値の歴史的被制約性」の言葉がない、この概念に全く触れていないレポートは採点評価がかなり低くなると思われる。