アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(210)平岡昭利「アホウドリを追った日本人」

人間そのものの醜悪さや人間社会の不条理を鋭い問題意識と手慣れた論証手腕とによって明白にし過ぎているため、一読してよく出来た良書とは思うのだけれど読んでいてあまりに辛(つら)い、正直面白くない書籍が時にある。

岩波新書の赤、平岡昭利「アホウドリを追った日本人」(2015年)は、それに該当の良書だ。的確に書かれているが、あまりに本質問題を突きすぎていて、読んでどうしても終始私は辛いのである。

「明治から大正にかけ、一攫千金(いっかくせんきん)を夢みて遙(はる)か南の島々へ渡る日本人がいた。狙う獲物はアホウドリ。その羽毛が欧州諸国に高値で売れるのだ。密猟をかさね、鳥を絶滅の危機に追い込みながら、巨万の富を築く海千山千の男たち。南洋進出を目論む海軍や資本家らの思惑も絡(から)んで、『帝国』日本の拡大が始まる。知られざる日本近代史」(表紙カバー裏解説)

本書は著者の次のような素朴な疑問から始まる。「戦前、どうして日本人は太平洋の遥か遠くの絶海の無人島にまで進出したのか」。例えば伊豆諸島最南端の断崖絶壁の鳥島(とりしま)、岩だらけの尖閣(せんかく)諸島、日本最東端の低平な南鳥島(みなみとりしま)、さらに遠く東は北西ハワイ諸島や南は中国周辺、南シナ海のスプラトリー諸島(南沙諸島)にまで戦前の日本人は進出していた。これらの島々は台風や高潮に襲われれば人間はひとたまりもなく到底、長く人が居住できるような島ではない。だが、日本人は居住が不可能と思われるそれらの島々に明治・大正の時代の早くから進出し、村まで建設していた。

日本人の戦前早くからの南洋進出の理由はそれが全てではないが、主要なものに南洋の無人島に生息するアホウドリの捕獲があった。アホウドリの鳥の羽毛は帽子や羽飾りの原料としてフランスなどヨーロッパに輸出され、アホウドリ捕獲事業者に巨額の富をもたらした。アホウドリ捕獲には、小船と棒と袋さえあれば一攫千金を狙える、あらかじめの資本が要らない事業である。アホウドリがもたらす巨万の富に味をしめた人々は、アメリカ開拓時代に人々が西部の金鉱を求めて殺到した「ゴールド・ラッシュ」ならぬ、アホウドリの羽毛を求めて南海の島々へ捕鳥に群がる「バード・ラッシュ」に駆り立てられ、それが戦前の日本人の海洋進出の引き金となった。

アホウドリは、両翼を広げると二・四 メートル にも及ぶ太平洋でも最大級の海鳥である。本新書を手にされる読者は、最初のページに掲載されてある、両翼を広げたアホウドリのカラー写真「大空を舞うアホウドリ」を何よりもまず見て頂きたい。綺麗な羽毛とシルエットの本当に美しい鳥なのだ。なぜ、この鳥がアホウドリという名前なのかというと、この鳥は無人島で繁殖することから人に無警戒で人間を恐れることがない。そのため撲殺(ぼくさつ)して棒と袋だけで容易に捕獲できた。かつ大型の鳥のため敏速に飛び立つことが出来ず、動作が緩慢(かんまん)に見えることから「アホウドリ」、その他「馬鹿鳥(ばかどり)」の不名誉な名前が付いた。この辺り、捕獲されやすい、自分達にとって御(ぎょ)しやすい相手を自身の高みから、あからさまに馬鹿にする人間の傲慢(ごうまん)さが透(す)けて見えるような蔑称の付け方であり、私は不愉快である。やはり岩波新書「アホウドリを追った日本人」は読んでいて正直あまり面白い話ではない。

明治以前には北太平洋全域で見られ、南海の無人島にかつては数千万羽生息していたアホウドリは、「アホウドリは金になる」の日本人の撲殺による乱獲で壊滅的な減少にいたる。現在、アホウドリは国際自然保護連合から絶滅危惧種に指定されているという。絶滅が危惧されるほど、それほどまでに人間の大量捕獲によって絶滅危機寸前にまで激減したアホウドリであった。以下、本書から記述を引こう。

「アホウドリの捕獲の方法は、鳥島などで行われていたのと同様、撲殺であり、労働者は一人で一日三00羽を捕獲した。一八九七年(明治三0)から一九00年までの三年間に二0万斤(一二0トン)の羽毛が採取された。羽毛は、鳥島ではアホウドリ三羽から一斤(六00グラム)取れるとされたが、尖閣諸島では四羽で一斤といわれることから、およそ三年間で八0万羽のアホウドリが撲殺され、久場島では島が鳥の死骸で覆われたという」(「鳥類輸出大国『帝国』日本と無人島獲得競争」)

先に述べた「本書が一読してよく出来た良書とは思うのだけれど、読んでいてあまりに辛い」というのは、「アホウドリの捕獲事業は、とにかく金になる」という戦前の日本人の一攫千金の欲望(エゴ)に駆動されて、以下の3つの問題があるからに他ならない。すなわち、アホウドリの撲殺乱獲による、(1)アホウドリの種そのものを絶滅危機に至らしめ、環境生態系を人間が破壊してしまう問題、(2)アホウドリ捕獲事業にて、捕獲に際し危険な現場従事や無人島に捕鳥者らを置き去りにした事例など、労使間における資本家からする労働者への過酷な労働強要の問題、(3)アホウドリ捕獲事業が個人事業主から、やがてそれにとって代わった大型資本や帝国海軍の庇護(ひご)のもと、日本の国家の南洋進出の帝国主義的政策と結託してしまう問題である。

ところで、一般に「帝国主義」とは外部に膨張して外延する衝動に駆られた国家の一政策である。そもそもの「帝国(インペリウム)」が、常に外部に膨張拡大意識を持ち外延する国家の謂(い)いである。帝国は領土の拡大、覇権の拡張を常に目指す。戦前の日本は東アジアの周辺地域(朝鮮、台湾、太平洋諸国、シベリア、満州、中国)へ武力を背景に対外進出を繰り返し他民族の支配従属を目指していた。よって戦前の日本は「大日本帝国」なのであった。東京は大日本帝国が四方に拡大発展する拠点の極点たる「帝都」であった。帝国ないしは帝国主義とは国家の拡大膨張の志向である。

そうした帝国主義の拡大膨張の衝動は「周辺地域への覇権の確立」として政治学では一般理論的によく語られたりするけれど、その帝国主義の原初形態は、周辺地域の希少資源や新規市場や労働力を直接的に力の論理で求めて果てしなく領土拡大していく帝国主義であったのだ。

本書にて著者は、アホウドリ捕獲事業に関し「巨万の富を築く海千山千の男たち。南洋進出を目論む海軍や資本家らの思惑も絡んで『帝国』日本の拡大が始まる」と断じている。岩波新書「アホウドリを追った日本人」も、南海孤島にてのアホウドリの捕獲という資源を求めた当時の日本人の海洋進出が、戦前の大日本帝国の領土拡張の帝国主義的衝動と軌を一にしていたことを指摘している点が何よりも優れている。そこが本書の出色(しゅっしょく)であり、読み所といえる。

いつの時代でもそうだ。帝国主義の原初形態は、国境領土の確定といった地図上の理論的な話以前に、周辺地域の希少資源の採掘・捕獲・権利の独占の人間のどす黒い欲望(エゴ)と共犯して国家の帝国主義的振る舞いと共にあった。戦前の太平洋地域での日本のアホウドリ利権、現在の東シナ海の尖閣諸島での中国の海底資源利権、日本海の竹島での韓国の周辺海域の漁業権の事例など。岩波新書「アホウドリを追った日本人」は、そういった帝国主義の欲望にまつわる危うさについて新たに指摘し教えてくれて、改めて思い起こさせてくれる。

著者によれば「本書のテーマの謎解きには、構想以来、四0年も費やしてしまった。このテーマだけを追いかけているわけではないのだが、少々時間をかけすぎたと自分でも反省している」という。本新書に対する多くの書評にての、確かに世上一般の高評価の通り、基本的な文献が少ないなか丹念な資料(史料)発掘により細かな断片をつなぎ合わせて全体を構成した、まるでスリリングな「謎解き」推理小説のような書きぶりの著者の力量に私は感嘆するばかりだ。本書は間違いなく力作の良書といえる。しかしながら繰り返しになるが、岩波新書の赤、平岡昭利「アホウドリを追った日本人」は、アホウドリの羽毛を求め乱獲に明け暮れて結果、アホウドリを絶滅寸前にまで追い込み、その捕鳥事業に帝国日本の海洋進出を重ねた戦前の日本人の醜悪さを明白にしており、一読して非常によく出来た良書であるとは思うけれど、どちらかといえば読んでいて同じ日本人として私は一貫して辛いのである。

(※本新書以前に「アホウドリと『帝国』日本の拡大」(2012年)という同著者による専門の研究書が既刊であります。)