アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(223)武田泰淳「政治家の文章」(その1 宇垣一成)

岩波新書の青版に武田泰淳「政治家の文章」(1960年)がある。武田泰淳は「近代文学」同人の文学者であり、小説家が書く「政治家の文章」タイトルだから政治家の文章を文学者が分析批評する文体論の新書かと思って読むと、そうではない。文体へのこだわりなく、そのまま戦前昭和の日本の政治家に関し、性格や人となりや日常や思想や人物評価を彼らが残した演説原稿や談話や日記や遺書の「政治家の文章」を肴(さかな)に、時に痛烈批判や嘲笑・皮肉まで交え自由奔放に武田が書いており、読んでこれがなかなか面白い。本書に扱われている戦前昭和の政治家は主に九人である。その目次を引用すると以下になる。

「『政党政派を超越したる偉人』の文章」(宇垣一成)、「思いがけぬユウモア」(浜口雄幸)、「二人のロシア通」(芦田均・荒木貞夫)、「ある不思議な『遺書』」(近衛文麿)、「近衛の『平和論』」(近衛文麿)、「A戦犯の『日記』」(重光葵)、 「『政党全滅』をめぐるもろもろの文章」(若槻礼次郎・鳩山一郎)、「徳田球一の正直な文章」(徳田球一)

この中から宇垣一成、浜口雄幸、近衛文麿、重光葵の四人について、今回から四回連続で書いてみたい。当然、岩波新書の武田泰淳「政治家の文章」にて論じられている武田の政治家評論も踏まえて、彼ら戦前昭和の政治家に対し私が思っていることや彼らに対する印象も加味して書いてみる。

今回は、武田泰淳「政治家の文章」にある宇垣一成についてである。

「宇垣一成(1868─1956年)。1925年、加藤高明内閣の陸相として軍縮を断行。一方、陸軍の近代化・機械化、軍事教練施行で軍事力強化をはかる。朝鮮総督2回。1937年、組閣にあたったが陸軍の反対で流産した(宇垣流産内閣)。第1次近衛内閣の外相兼拓務相」

宇垣一成という人は首相になりたくてなりたくて仕方のない、大正から昭和にかけて「宇垣閥」と称される一大勢力を形成し陸軍の実権を握った人であったが、この人は遂に首相になれず内閣を組閣できなかった。宇垣一成の経歴を見ると実力、経歴ともに申し分ない。宇垣は陸軍士官学校卒業後、田中義一の下に付き昇進を重ねドイツに留学もし、田中の工作で清浦奎吾内閣の陸軍大臣に就任した。直後の加藤高明内閣で陸軍大臣に留任し後に朝鮮総督をやり、さらに浜口雄幸内閣でも陸軍大臣になっている。朝鮮総督は当時の実力者がなる有力ポストで、歴代就任者を見ても外地での朝鮮総督を経て内閣総理大臣に就任する人が多かった。例えば、寺内正毅(初代)、斎藤実(第三代・第五代)、小磯国昭(第八代)、阿部信之(第九代)は、いずれもその前後で組閣している。宇垣一成は臨時代理と第六代の朝鮮総督を務めたが、遂に内地で首相になれなかった。

宇垣一成は岡山出身である。宇垣が陸軍内で権力を掌握しながら、なかなか首相になれなかったのは長州や薩摩の出身でなかったこともある。明治から大正・昭和のある時期までは「海の薩摩、陸の長州」といわれ、特に陸軍は長州閥が主流派であり、明治以来の藩閥政府との慣例から長州閥の政治家・軍人は首相指名を容易に得られた。明治から大正にかけ長州軍閥の首領(ドン)である元老・山県有朋の奏薦により、桂太郎、寺内正毅が、山県亡き後も長州出身の田中義一が山県閥の正統後継者として内閣を組閣した。確かに、昭和に入る頃には薩長の藩閥による出身地の優越(アドバンテージ)はなくなりつつあった。陸軍内部でも同郷の地縁よりは、陸軍士官学校同期や当人の実力や政策勉強会による派閥形成に重点は移りつつあった。だが宇垣の時代、大正から昭和初期にかけては個人の実力や政策よりも、まだ出身藩閥の名も通る過渡期であった。そういう意味からして、不運にも薩長出身ではない宇垣一成は生まれて軍人政治家として世にでる時宜(タイミング)を惜しくも逸した感がある。

さらに宇垣一成は加藤高明内閣下にて陸軍大臣を務め、いわゆる「宇垣軍縮」(1925年)をやった。宇垣軍縮は人員師団を減らし、その分経費を装備の機械化に回し日本陸軍の近代化を図(はか)ったが、人事の人減らしであったため、これが陸軍内部で嫌われた。第一次世界大戦終結後の軍縮の国際協調の流れに乗って、かつ大正テモクラシー下で清浦内閣が倒れ、1924年に「憲政の常道」で護憲三派の加藤内閣が成立し両内閣にて陸軍大臣を務めていた宇垣は、翌25年の男子普通選挙の実施も見て、陸軍を代表する陸軍大臣として軍の要求も出すが、他方で内閣の一員として政府・議会の意向や世論の風潮にも配慮し協調路線でやっていくべきことを知っていた。大正テモクラシー期の倒閣運動を目の当たりにした宇垣は、民衆世論を全く無視して国政をできないことを身をもって経験的に痛感していたのである。

だから後の「昭和陸軍」、つまりは軍部が発言権を持って政治家や官僚や宮中を時に恫喝(どうかつ)し強引に牽引(けんいん)していくべきとする、軍隊の政治組織化を強く主張する永田鉄山や石原莞爾ら昭和の若い次世代に、内閣・議会との協調路線で宇垣軍縮までやった宇垣一成は評判が良くなかった。彼らには宇垣は弱腰に見えて半(なか)ば恨まれていた。大正テモクラシー下の加藤高明内閣の下で宇垣は世論の軍縮意向を汲(く)んで宇垣軍縮を断行し、その手腕を高く評価していた元老の西園寺公望が、現場の戦闘実務だけでなく果ては政治にまで介入して暴走する軍部を抑えられる人物として宇垣に期待し、広田弘毅内閣後に宇垣内閣の組閣を命じたけれども、宇垣を通して軍が内閣に封じ込められることを危惧した石原莞爾らの反対で陸軍は大臣を出さず軍部大臣現役武官制により、組閣は失敗した(宇垣流産内閣、1937年)。

ところが、そうした軍内部の石原莞爾らの反発がありつつ、かつて三月事件(1931年、政党内閣を倒し宇垣の軍部内閣の樹立構想のクーデター計画)が未遂に終わり、他方で非合法な実力行使による組閣も目論んでいた宇垣一成は、元老の西園寺はともかく、その他の議会政治家や官僚や宮中グループ、何よりも昭和天皇から酷評の不信を買っていた。

結局のところ、宇垣一成は大正の早い時代から昭和にかけての過渡期に活躍した軍人政治家であり、後の昭和陸軍の主流派(永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一ら)よりも前の世代の人であったため、大正時代を引きずった議会尊重、内閣協力、宇垣軍縮により後の昭和陸軍の若い世代から不評の恨みを買い、かつ大正の協調外交路線から昭和の軍部が進める強硬外交路線への転回を忌避していた昭和天皇や議会勢力や宮中グループからも一部で軍の実力者・宇垣は不信を買い、どっち付かずで双方から不評を被(こうむ)る形となった。そうした中途半端な立ち位置が、「宇垣一成という人は首相になりたくてなりたくて仕方のない、大正から昭和初期にかけて『宇垣閥』と称される一大勢力を形成し陸軍の実権を握った人であったが、この人は遂に首相になれず内閣を組閣できなかった」ことの実際であったと私には思える。宇垣流産内閣以降も、この人は何度となく首相後継の有力候補になったり陸軍の反主流派から首相候補に担ぎ出されたりするのだけれど、とうとう首相にはなれなかった。この意味で、まさに宇垣一成は生まれて軍人政治家として世にでる時宜(タイミング)を惜しくも逸した誠に不運な人であった感が強い。

このように、概観すると不運で不憫(ふびん)な思いもする宇垣一成である。しかし、岩波新書「政治家の文章」にて、そうした宇垣に対し著者の武田泰淳は容赦ない。本新書にて宇垣一成に関する章は第一章の「『政党政派を超越したる偉人』の文章」である。以下、本書に掲載されてある宇垣の日記からの「政治家の文章」と、それに対する武田の評論をそれぞれ引こう。

「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰は繋(かか)りて吾一人にある。親愛する七千万同胞の栄誉興亡は預りて吾一身にある。余は此の森厳なる責任感と崇高なる真面目とを以て勇往する。余は進取、積極、放胆、偉大の精神意気を以て驀進(ばくしん)する。世態人情の趣向は余に此の決意を一層牽固(けんこ)ならしめたり」

「これは陸軍次官、宇垣一成が大正十三年、一月一日、年頭の決意として日記に書きしるした文章である。おそらく、鴎外も漱石も荷風も龍之介も、このような文章は書けなかったであろう。ぼくらの先輩の文学者には、この種の自信はなかった。…この自信まんまんの文章が生み出される根拠は、どこにあったか」

武田泰淳が指摘し苦笑して辟易(へきえき)するように、宇垣一成の「政治家の文章」は恐ろしい程までに根拠なき自信に満ちあふれている。何しろ「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰は繋(かか)りて吾一人にある。親愛する七千万同胞の栄誉興亡は預りて吾一身にある」とする(笑)。ここまで言い切る自己への全能感の自信が恐ろしい。しかも武田がすかさず合いの手を入れるように、この「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰は繋りて吾一人にある」云々の宇垣の根拠なき誇大妄想な自信に満ちあふれた文章は、「公開の文書とはちがう…他人の眼を警戒して体裁をつくろう必要はない」私的な日記に年頭の決意として密(ひそ)かに記載されてあるのであった。

本書にて武田が紹介するように、さらに宇垣の非公開の私的な日記には「余に対する内外の期待はかなり大である」の誇大妄想な自意識過剰の文章が続く。その他、中国人への毀損中傷や田中義一を始めとする同時代の軍人・政治家に対する不満と反感が惜しげもなく書き込まれてあった。自分に関し「余に対する内外の期待はかなり大である」とか「帝国の運命盛衰は吾一人にある」とする自己評価の甘い自信過剰な男は、その分周りの他者には驚くほど無関心で冷淡か、時に痛烈批判の攻撃に手加減がない。この意味で宇垣一成は「井の中の蛙(かわず)」ないしは「お山の大将」の、「俺が俺が」の「俺こそが」の未成熟な困った大人の実情が残念ながら彼の「政治家の文章」から読み取れる。

武田泰淳が宇垣一成の文章を以て「『政党政派を超越したる偉人』の文章」としたのは、もちろん武田の皮肉である。宇垣は決して「偉人」ではない。しかしながら宇垣本人は、どこまでも「政党政派を超越した偉人」のつもりでいる。事実、そのように日記に書いている。何しろ宇垣一成において、「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰は繋りて吾一人にある」のだから(笑)。岩波新書の青、武田泰淳「政治家の文章」は軍人政治家・宇垣一成の読み方に際し、そうした宇垣の誇大妄想に近い自意識過剰な根拠なき自信の満ちあふれに半ば苦笑しながら軽く半畳を入れて、いなす武田の読み方が優れている。