アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(224)武田泰淳「政治家の文章」(その2 浜口雄幸)

岩波新書の青、武田泰淳「政治家の文章」(1960年)に関し、今回は本書で取り上げられている浜口雄幸について書いてみる。

「浜口雄幸(1870─1931年)。立憲民政党総裁。大蔵省から政界に入り蔵相・内相を経て、1929年に首相。『ライオン宰相』といわれ、庶民の人気が高かった。1930年、右翼の襲撃を受けて負傷し、翌年死去した」

浜口雄幸は元は大蔵省の官僚で各地の税務署長を歴任しキャリアを重ねていたが、同じく大蔵省官僚で先に政治家になっていた同僚の若槻礼次郎の勧めもあり、後に政界に入る。加藤高明内閣で大蔵大臣、第1次若槻内閣で内務大臣を経て、立憲民政党総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任。口から水をだず噴水彫刻のライオンに風貌が似ていたことから、浜口は「ライオン宰相」と呼ばれた。この人は浜口雄幸の名前だが、本当は浜口幸雄のはずで、父親が浜口の出生届けを役所に出す際に酒を飲んで酩酊し「幸雄」を「雄幸」と間違えて記載提出して、そのまま浜口雄幸となったらしい(笑)。昔の人は案外いい加減である。

浜口が首相となった昭和初期、帝国議会は二大政党制であった。立憲政友会と立憲民政党の二大政党が議会内で対立し相互に組閣していた。浜口雄幸の立憲民政党は、大正テモクラシーの護憲三派、憲政会の加藤高明内閣の流れを組み、浜口内閣は緊縮財政・産業合理化・金解禁の経済政策と協調外交(武力衝突よりも外交による諸外国との協調を重視する姿勢。いわゆる「穏健な帝国主義」)の立場をとった。他方もう一つの勢力は立憲政友会であり、これは浜口雄幸内閣の一つ前の田中義一内閣が政友会内閣の典型で、田中内閣は積極財政・治安維持法改正と強硬外交(大陸利権獲得のためには諸外国との武力衝突たる戦争も辞さない立場)をやった。田中内閣の強硬外交として山東出兵と張作霖爆殺事件(満州某重大事件)は有名である。爆殺事件の際の現地の軍責任者を軽い処分で済ませたため昭和天皇が激怒し、天皇の信任を失った立憲政友会の田中内閣は退陣、その後に政友会と対立する、田中内閣とは正反対の政策立場にあった立憲民政党の浜口内閣組閣の流れである。

田中義一の背後には、国粋主義で大陸での強硬外交の積極的な帝国主義政策を進めたい、協調外交(幣原外交)であった第1次若槻内閣を台湾銀行救済の事案で総辞職に追い込んだ、かつての帝国憲法起草の大物、伊東巳代治の枢密院が控え支持していた。枢密院は元は憲法草案審議のために設置されたものだが、帝国憲法制定後も天皇の最高諮問機関として存続し、重要な国事を審議して時の内閣の施策を左右する影響力を持った。戦前昭和の枢密院は、民間右翼とともに軍部の強硬外交を支持して煽(あお)る役割を果たしていた。田中義一ら立憲政友会や伊東巳代治の枢密院の強硬外交の立場からして、若槻礼次郎と浜口雄幸の立憲民政党内閣の協調外交はいかにも弱腰の軟弱外交に見えたのである。昭和初期の第1次若槻内閣、浜口内閣ともに外相は幣原喜重郎であり、協調外交を推進する幣原の手腕は「幣原外交」と呼ばれていた。

ところで、戦前の大日本帝国は必ずしも一枚岩の一致団結ではなかった。天皇と元老ら宮中グループ、帝国議会を運営の政党政治家、外交官ら官僚、陸軍と海軍の軍部、枢密院の各勢力があり、それぞれが互いに自分らの主導権を取りたがる派閥権力争いの熾烈(しれつ)な分権主義(セクショナリズム)による縄張り争いの政局様相であった。ゆえに、ある勢力が国家全体の行く末や国民生活のことは何ら考慮せず、中央権力内部での自分たちの勢力伸長だけを目して暴走したりするため、自分らの力誇示や他グループへの当て付けから時に常識では信じられない非合理で非現実的な政治決定がなされ、当然の如くそれが失敗し、しかし各勢力派閥に割れている国家中枢の権力者の誰も責任を取らず事態はそのままズルズルベッタリに推移し、さらに悪化していくので、戦前日本のこの異常なセクショナリズムの縄張り争いの権力政治をして「無責任の体系」と時に呼んだりする。

昭和初期の帝国議会内での二大政党制もまさにそれであり、立憲政友会が与党の田中内閣時には、「人民ノ名ニ於イテ」の文言がある不戦条約に内閣が調印したことが天皇大権を犯す憲法違反に当たるとして野党の立憲民政党が突き上げ、田中首相と与党を痛烈に攻撃する。すると後に立憲民政党が与党の浜口内閣時にロンドン海軍軍縮条約に調印した際には、軍縮条約への内閣の調印が海軍の統帥権干犯の憲法違反に当たるとして、今度は逆に野党の立憲政友会が浜口首相と与党を突き上げ痛烈に批判して、政友会が民政党へ仕返しの体(てい)である。結局のところ、議会内での二大政党の与党と野党の論戦のやり取りは、互いに目下の自身の勢力を伸長したいがための権力争いの攻撃批判の応酬でしかなく、国政全体のことを当時の政党政治家は何ら考えていなかった。

不戦条約は第一次世界大戦後の戦間期の欧米の軍縮世論によるもので、ロンドン海軍軍縮条約も同様だ。これらが天皇や軍の統帥権干犯に当たるか否かの批判よりも、当時の軍事費拡大の税負担に苦しむ国民大衆のことを考えれば、不戦条約と海軍軍縮条約ともに理のある政策であった。だが、衆議院を持ち一応は選挙により国民から国政の信託を受けていた当時の議会の政党政治家は、そうした大局見地から「不戦」や「軍縮」について何も考えていなかった。結果、議会内での与野党の批判の応酬の足の引っぱり合いで議会政治は何ら実りなく実質は自滅で自然崩壊し、一番の勢力拡大の「漁夫の利」を得たのは政党政治の議会外にあった当時の軍部と枢密院であった。

そうして後に首相の浜口雄幸は、内閣の基調たる協調外交政策とロンドン海軍軍縮条約調印の統帥権干犯問題から、東京駅にて右翼の青年、佐郷屋留雄に近距離より狙撃され、その後、怪我を押して議会に登壇するも病身のため内閣退陣。浜口は負傷の回復が芳(かんば)しくなく翌年に亡くなってしまう。佐郷屋留雄は民間右翼の愛国社に指示された、現代で言うところのいわば「ヤクザのヒットマン」のような役回りで、銃撃直後に周囲の手で取り押さえられ現行犯逮捕された佐郷屋は背後の右翼団体の名は表には出さず、「浜口は社会を不安におとしめ陛下の統帥権を犯した、だからやった。何が悪い」と供述した。だが「統帥権干犯とは何か」という質問に当の佐郷屋は明確に答えられなかったという。彼は「統帥権干犯」の内容も何も分かっていなかったのである。

首相の浜口雄幸は右翼の青年、佐郷屋留雄に襲撃されて、その負傷が元で翌年の1931年に亡くなった。不幸にも以前の大正デモクラシーの最中(さなか)に首相の原敬も、東京駅で国鉄職員の青年、中岡艮一に刺殺され内閣退陣に至っている。そうして浜口を狙撃した佐郷屋は、浜口が即死でなかったため殺人罪ではなく殺人未遂罪で無期懲役刑となり、後に恩赦で減刑され出所。出所後は浜口暗殺を指示した民間右翼の愛国社社長の娘婿となり、後を継いで右翼活動を続け戦後も生き延びて1972年に亡くなっている。人間の命に軽重はないはずだが、一国の首相たる襲撃事件の被害者が早々に亡くなり、訳もわからず跳(は)ねた殺人テロの実行者が後々まで長く生き残るとは何という人間社会の不条理の理不尽のやるせなさ。浜口雄幸の襲撃事件を考える度に、私には戦前昭和の近代日本政治史の暗部を確かに覗(のぞ)いた誠にやりきれない思いが残る。

岩波新書「政治家の文章」にて、浜口雄幸に関する章は第二章の「思いがけぬユウモア」である。以下、本書に掲載されてある浜口「随感録」からの「政治家の文章」と、それに対する武田の評論をそれぞれ引こう。

「第一に余は生来極めて平凡な人間である。唯幸にして余は余自身の誠に平凡な人間であることをよく承知して居った。平凡な人間が平凡なことをして居ったのでは此の世に於て平凡以下の事しか為し得ぬこと極めて明瞭である。修養と努力とは、自覚したる平凡人の全生活であらねばならぬ」

「語るに足るゆたかな体験と、つみかさねた学識が充分にありながら、きわめてひかえ目に、少しの言葉しかもらさないのは、奥ゆかしい態度である。浜口はたしかに、石橋をたたいて渡るように、用心ぶかく、まちがいないことを、まちがいなく書き記そうと心がけている」

岩波新書「政治家の文章」に取り上げられている主な九人の政治家のうち、浜口雄幸に対してだけ例外的に著者の武田泰淳は穏(おだ)やかであり、浜口について武田は高評価である。「浜口の文章は好意をもって読むことがてきる。彼の政治論には同感できる点が多い」旨を本文にて武田は述べている。それは浜口雄幸の「政治家の文章」から読み取れるように、浜口が本当は豊かな経験と卓越した能力があるにもかかわらず、それでも慎重・謙虚に異常に用心深く「自分は平凡であること」を自覚し、自身を戒(いまし)め工夫と努力を重ねた人だからであった。

普段から陽気で軽薄な人が人前で冗談や軽口を叩いても少しも面白くない。だが、いつもは堅実で真面目な人物が時折人前で冗談を言うと「思いがけぬユウモア」で面白いのだ。以下は、浜口雄幸の娘の回想、北田悌子「父・浜口雄幸」にある文章である。

「父は『笑わぬ人』として有名であった。…しかし、時々、父は自分から面白い話をすることもあった。…父が笑話を語る時は、言葉使いは真面目であって、決して笑いながらは喋(しゃべ)らない。自分が笑うのは後からであった。稀(まれ)にまた父は、普通のことを、如何にも特別の意味があるように面白く語り出し、人は暫(しばら)く呆気(あっけ)に取られるが、後から笑談であることに気が付いて大笑いするようなこともあった」

岩波新書の青、武田泰淳「政治家の文章」は、第一章に「『政党政派を超越したる偉人』の文章」として誇大妄想的な自意識過剰の根拠なき自信にみなぎる軍人政治家・宇垣一成の日記文章を置き、続く第二章に「思いがけぬユウモア」として、今度は全く正反対の異常に用心深く慎重で謙虚な宰相・浜口雄幸の随想文章を置く。それら最初の二つの章の対比(コントラスト)の内容構成が事前によく考えられており非常に優れている。岩波新書「政治家の文章」は、武田泰淳の文筆手腕の見事さを読み始めから存分に味わえる名著だといえる。