アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(229)東野治之「聖徳太子」

岩波ジュニア新書は、10代の中高生向けに書かれた岩波新書のジュヴナイル(少年少女向け読み物)である。岩波ジュニア新書の東野治之(とうの・はるゆき)「聖徳太子」(2017年)を手にして読み進めながら、私は日本古代史研究の専門家ではないが、「もし10代の若い人達の前で聖徳太子について語ったり書いたりするとして、私ならどのような切り口でやるか」考えながら、岩波ジュニア新書「聖徳太子」の著者、東野治之の手並みを拝見する心持ちであった。当然、10代の中高生に聖徳太子を語るとして専門研究の難しい、大人が読むような研究成果発表や古代史試論の提示はナンセンスだし、だからといって中高生の学校教科書にあるような基本の通り一辺倒な聖徳太子解説では退屈で面白くないからだ。

冒頭の「はじめに・この本を読む人へ」にて、本書での聖徳太子に対する切り込み方を示唆する非常に象徴的な文章がある。

「よく経験することですが、人物を描くのに都合のいい材料がうまく残るとも限りません。ある大新聞に『私の履歴書』という欄があり、有名人が自分の生涯を振り返る連載で人気がありますが、これは本人が書いた伝記ですから、これほど頼りになるものはないはずです。しかしそれを読んでも、本人に都合が悪いからでしょうか、肝心なことがほんの少ししかふれてなかったり、まったく素通りしてあったりすることが珍しくないように思います。たとえば後世、伝記をまとめるとして、参考にはなっても、これですべて解決とはとてもいかないでしょう。現在生きている人の伝記でもこうですから、時代が古くなれば、難しさはさらに増加します」(ivページ)

本書は「聖徳太子」を語るに当たり、歴史学における史料批判の手続きを中心としている。「史料批判」とは、歴史学にての史料吟味の基本の手続きで文献史料(歴史書、公文書、自伝、回想談話、日記、手紙)や遺構・遺物・遺跡(建築物、石碑、仏像、工芸品、壁画・絵画)の正統性・妥当性を一度は疑ってかかる歴史家の操作を指す。文献史料でもその史料そのものが果たして当時記録され後まで保管されたものであるか、後世に制作の改作ないしは贋作(がんさく)ではないか疑う外在的批判に加えて、史料記載の内容が正しいかどうか、虚偽や誇張や削除の記述がないかを疑う内在的史料批判の手続きは必須である。

先の引用にて「ある大新聞に『私の履歴書』という欄が」とあるが、あれは日本経済新聞の名物連載「私の履歴書」のことであって、私も日経新聞の「私の履歴書」のファンで政界、経済界の有名人から文化人、スポーツ選手や芸能人まで様々な人が自身の「履歴」を語るのが興味深く面白くて昔から愛読していた。確かに「私の履歴書」に関し、著者が指摘するように「本人に都合が悪いこと、肝心なことがほんの少ししかふれてなかったり、まったく素通りしている」という不服の不信の思いは私にもあった。たまたまその人のことを他誌のインタビューや評伝で詳しく知っている場合、日経の「私の履歴書」での当人の自分語りにて「明らかに、この人は自身に都合のいいように語っている。現在の自分に不利になるような話をわざと省略している」と見切れしまうことがあった。

歴史の史料にても同様に、そのように当人(たち)の都合のいいように時に改変したり捏造して語られてしまうものなのだ。国書の歴史書は国の威光が高められるよう手心を加えて執筆され、個人の回想伝記は過去の自分は美化して描写され、遺構や遺物は立て替えや作り替えなく、あたかも昔からそのまま現存しているかのように伝えられてしまう。ゆえに後世の歴史家による史料批判の手続きが欠かせない。

岩波ジュニア新書「聖徳太子」は、そうした史料批判の内容が主である。もちろん、全ての論述が聖徳太子研究を介しての史料批判について述べているわけではないが、本新書の大部分は史料批判に関する事柄説明で埋められている。例えば「日本書紀」における聖徳太子記述にての太子を超人的に記録する聖徳太子信仰批判や「異本上宮太子伝」(別名「七代記」)「聖徳太子伝暦」「上宮聖徳法王帝説」の各種伝記に対する批判的読み、史料批判の操作を通して文献史料に記録されてある法隆寺や金堂釈迦三尊像や天寿国繍帳ら、各種の遺構・遺物の正確な建築・制作時期の特定と再建の有無をめぐる論争である。

本書に史料引用を通して詳細に紹介されている「日本書紀」推古紀に当時の仏教興隆のあり様を記した記述があるのだが、天皇中心の編纂(へんさん)国書である「日本書紀」は倭国古来の神祇祭祀の施策を中心に記録したいため、推古朝は仏教興隆が唱えられた一方、神祇の崇拝もおろそかにされてはいなかったことに力点を置く書き方にあえてなっている。ということは「書紀」にもともとある推古紀の数多い崇仏や仏像や寺院や僧尼に関する記事は、今あるだけでも質量ともに多様であるが、仏教関連の記事はさらに誇張して水増しした可能性がないのは明白である。むしろ、天皇中心の倭国古来の神祇祭祀の施策を中心に記載したいため神祇崇拝もおろそかにされてはいないとする書き方方針の「日本書紀」記述から逆算して、記事にある推古朝の仏教興隆の様子は神祇礼拝を凌(しの)いで「書紀」記事以上に当時は盛んであった(だが記述者が手心を加え、わざと仏教隆盛に関する記載を抑えた)とも推論できる(42─45ページ)。こうした史料批判の操作を通して「日本書紀」を主体的に読み解く手際(てぎわ)は本書にての著者の真骨頂であり、私は読んで胸がすく思いがする。

「もし10代の若い人達の前で聖徳太子について語ったり書いたりするとして、私ならどのような切り口でやるか」。私ならば、例えば「なぜ聖徳太子が以前の一万円札の肖像に採用されたのか。それは紙幣は国が『公的』と称して刷(す)る国家威信財であり、国に貢献した人や国家の威信を高めるような歴史的人物を肖像として採用するのが常であって、遣隋使を介して隋との対等外交を主張し隋の皇帝・煬帝を激怒させ、従来の日本と中国との冊封体制から脱しようとした聖徳太子は、日本のナショナリストの元祖だから後の国家威信財たる紙幣の肖像に採用されたのだ」とか。

また「聖徳太子の十七条憲法は仏教や儒教や道教の思想影響を受けて、やたら役人の精神面の心得を説いて戒(いまし)める個人主義的な内容になっているけれど、あれは従前の大和王権の有力豪族による『氏姓(うじかばね)』の家産政治による持ち回りの私的な一族による特権政治の痛烈な否定である。聖徳太子は、従来豪族の家産特権政治を排除して、天皇中心の律令管制に基づく個人の力量による厳格な官僚政治の日本古代の律令国家を構築したかったのだけれど、太子没後の大化改新にて後の藤原氏となる中臣氏の助けを借りて事変を断行したため、天皇は律令国家建設にあたり以前と同様、豪族(貴族)の私的家産政治の特権を認めざるを得ず、日本型の古代律令国家は、中国のそれと比べて科挙の厳密な個人的官僚選抜制度もなく、大化改新にての功労の重臣たる藤原氏(元は中臣氏)を始めとした貴族は以前と変わらず身分的かつ経済的特権を保持し、天皇は政治執行権力を貴族に奪われて、日本型『律令』国家は非常に矮小化したものになってしまった」だとか。

そうした後に国家の紙幣肖像に採用される程の対外関係での聖徳太子の「元祖ナショナリスト」の面目だとか、聖徳太子の十七条憲法の公的理念とは程遠い、貴族による私的一族の家産政治に時に天皇が圧倒される日本古代の日本型「律令」国家の矮小さの現実を私なら若い中高生の前で語り執筆するだろう。

確かに、聖徳太子を通して歴史学の史料批判の話にあえて焦点を合わせ集中して語るのも10代の若い中高生読者向けの一つの手ではある。なるほど、岩波ジュニア新書「聖徳太子」のサブタイトルは「ほんとうの姿を求めて」となっている。ここでの「ほんとうの姿を求める」とは歴史学の史料批判の手続きを通して、史実に近い本当の聖徳太子像の太子理解に後の時代の私達がたどり着くことなのであった。

だがしかし、大人の読者には聖徳太子を読む際、史料批判のトピックだけでは物足りない。少なくとも私の場合はそうだ。本書以外にも聖徳太子に関する本格の研究書籍や日本古代史の歴史概説の著作を早急に読み返したくなる。そうした岩波ジュニア新書、東野治之「聖徳太子」読後の私の感想である。