アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(230)梯久美子「原民喜」

文学者の原民喜については、

「原民喜(1905─51年)。日本の詩人、小説家。広島で被爆する。そのときの体験を元にした詩『原爆小景』や小説『夏の花』の作品で知られる。のちに鉄道自殺により死去。享年45」

岩波新書の赤、梯久美子(かけはし・くみこ)「原民喜」(2018年)は文学者、原民喜の評伝である。本新書は「死の章」と「愛の章」と「孤独の章」の三つよりなる。原民喜は広島の生まれで、1945年8月に爆心地から1・2キロの生家にて原子爆弾に被災した。原はほぼ無傷で助かった。彼が四十歳のときであった。

以前に原は横浜の飲み屋の女性を相応の金を払って「身請け」し同棲しようとしたが、その女性に逃げられ自殺未遂をしている。原は女性に対し相当にロマンチックな人であった。後に原民喜は見合い結婚で妻・貞恵と一緒になった。原は文学をやりながらも、左翼の政治運動に関与し検挙されたり、仕事が安定せず昼夜逆転で生活が乱れたり、原民喜には元々学生時代から孤立し自閉した所もあった。そうした原の乱脈な生活を心配しての実家からの縁談話だった。しかし、妻の貞恵は肺結核を発症し1944年に亡くなった、享年33。11年間の結婚生活であった。その後、原民喜は広島の生家で被爆している。これらの事柄が、その時々に創作した原の美しい詩とともに本書では「愛の章」と「孤独の章」にて紹介されている。

梯久美子「原民喜」の副題は「死と愛と孤独の肖像」である。原民喜の生涯には「死と愛と孤独」の三つが少なくともあった。その「死と愛と孤独」の中でも原民喜の最期、鉄道自殺にて原が轢死(れきし)の以下の目撃談記述は、本書において読む者に強い緊張を強いる。1951年3月13日、午後11時31分に線路に身を横たえ自殺。原民喜、享年45である。事前に遺品の整理は行われており、前々から計画された周到な死、衝動自殺ではないことがうかがわれる。下宿の机には親族や友人らにあてた17通の遺書があったという。

「あとになってわかったことだが、原の自死には目撃者がいた。二十歳すぎの女性が二人、友人の家に行くために、線路わきの低い道を西荻窪から吉祥寺方向に歩いていた。すると向こうから、ひとりの男が前かがみの格好でふらふらと歩いてきた。すれ違ったあと、なんとなく気になって振り返ると、男も振り向いて彼女たちを見たが、すぐにまた前を向いて歩き出した。そして、土手をのぼって線路に横たわった。その意味に気づいた二人がおそろしさに足をすくませていると、西荻窪方面から電車がやってきた。男の身体は一瞬、車輪の向こうに見えなくなり、ああ助かったと二人は思った。レールの間に入ったように見えたのだ。だが次の瞬間、くしゃくしゃになった身体が現われ、車輪に引きずられるのが見えた」(「序章」)

最近は出版状況が誠によく、以前に絶版になった入手困難な書籍や、なかなか読む機会がなかった過去作品も復刊・復刻や新編集の新装版にて容易に読むことができる。原民喜についても講談社文芸文庫から「原民喜戦後全小説」(2015年)という文庫本一冊で戦後の原の作品が全て読めてしまう大変に便利な書籍が出た。私は原の「夏の花」(1949年)は昔に読み前から知っていたが今回、岩波新書「原民喜」を読んで驚いたのは、「(原の)生前に刊行されたのは、戦前に自費出版した『焔(ほのお)』および一九四九年刊行の『夏の花』の二冊のみ」であったということだ。この人は同人雑誌以外に、生前から詩や小説を商業誌や刊行本として公的に頻繁に発表していると私は思っていた。確かに本書ないしは原民喜の回想を書いた各人の文章を読むにつけ、原は文筆活動を続ける一方で、いつの時代でもよく転職し委託の非常勤の仕事を受けて衣食住ともに決して経済的に裕福な暮らしぶりとは言えなかった。

そうした印象は原民喜と交流があった「近代文学」同人の埴谷雄高や大学の後輩である遠藤周作ら、原についての文章から今にして思えばそれとなく知ることはできる。原民喜についての文章を読んでいると、「原が知り合いから食事をおごってもらう」とか、「原の着ている服が破れたままになっていた」とか、「原の下宿に行ったら部屋に物がなかった」といった内容のものはよく目にする。

原民喜「夏の花」の原題は「原子爆弾」だった。しかし、敗戦後の日本を占領統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の検閲による発禁処分を恐れて、題名は一見戦争とは関連性が薄い「夏の花」に改められた。「夏の花」とは、何とはなしに締(し)まらない凡タイトルではある。同じく広島の原爆被災を描いた井伏鱒二「黒い雨」(1966年)の題名と比べて確実に劣ると私は思う。肝心の小説の中身も八月六日の朝、原爆投下直後の場面から始まるが、形式や伏線が事前に綿密にしっかり考えられ執筆された小説というよりは、原爆被災の当日の様子をそのまま原民喜が体験した通りに記録した手記のようだ。

だが、被災経験をした当人達にしか知り得ない当日の現場の被災直後の状況が生々しく記されており、原民喜「夏の花」は日本の戦後文学、特に戦争文学の系譜において絶対に欠かすことのできない重要な作品であることに相違ない。本作にて衝撃的なのは、主人公である「私」こと原民喜が被災直後から家人に発したり、家人や近所の人達から主人公の「私」にかけられる声、「私」が耳にした避難所など行く先々で被爆した広島の町中の人々が交わす会話であり、これらは当然、小説内の創作ではなくて現実に作者の原民喜が自ら発し自分が聞いた会話をそのまま書き留めているはずであるから小説「夏の花」を読んで私は戦慄(せんりつ)せずにいられない。「夏の花」の書き出しから作中人物の会話だけ、そのまま抜き出してみると以下の通りだ。これら発言会話は(おそらく)当日、原爆炸裂後に実際に人々の間で交わされたものなのである。

「やられなかった、やられなかったの、大丈夫」「眼から血が出ている、早く洗いなさい」「あなたは無事でよかったですな」「電話、電話、電話をかけなきゃ」「ああ、やられた、助けてえ」「何処をやられたのです」「膝じゃ」「あ、煙が出だした、逃げよう、連れて逃げてくれ」「ここで、頑張ろうか、水槽もあるし」「いや、川へ行きましょう」「川?川はどちらへ行ったら出られるのだったかしら」「おじさん」「助けてえ」「家が焼ける、家が焼ける」「元気な人はバケツで火を消せ」

「原は無口で文壇づきあいもほとんどしなかった」という。だが文学者、原民喜を語る上で絶対に外せない交流の人物は少なくとも二人いたと私は思う。原民喜と「近代文学」同人だった埴谷雄高と、原の大学(慶應義塾大学文学部)の後輩で「三田文学」同人だった遠藤周作である。

前者の埴谷雄高は、原民喜「夏の花」を高く評価し作品の公刊に尽力した「近代文学」同人だ。原も戦後は「近代文学」グループに属していた。岩波新書「原民喜」でもよく引用されているが、原の没後に埴谷が書いた「原民喜の回想」(埴谷「幻視の詩学」2005年などに収録)の文章が非常に優れている。形而上学的難解な存在哲学を絡(から)めた日本文学史上希(まれ)にみる長編小説「死霊」(1946年)を長年にわたって書き継ぎ「近代文学」創設メンバーの一人であった埴谷雄高は、長く生きたため晩年は文学仲間の葬儀委員長を繰り返しやり追悼文をよく書いていたけれど、この人の人間観察の力量というか、決して他者の人格を毀損(きそん)することなく、どこまでも尊厳をもって肯定する埴谷雄高の人物評の書きぶりには実に毎回、頭が下がる。埴谷「原民喜の回想」は、生前の原民喜の飾らない素朴な人となりの良さが読み手に如実に伝わる良文だ。

後者の遠藤周作については、岩波新書「原民喜」によると原と遠藤が初めて出会ったのは1948年6月、二人とも同じ慶應義塾大学文学部卒業で「三田文学」同人であった。妻と死別し広島で被災した後の上京で原民喜は当時43歳であった。かたや遠藤周作は大学を卒業したばかりの評論家の駆け出しで25歳だった。20歳程の相当な年齢差のある原民喜と遠藤周作の交友、共に心を許して付き合える二人の友情が微笑(ほほえ)ましい。

1949年当時、原と遠藤ともに心を惹(ひ)かれる一人の女性がいた。その時、彼女は21歳で「タイピストのお嬢さん」であった。原も遠藤もそれぞれ彼女を個別にデートに誘いそれなりにアプローチしているが、肝心の「タイピストのお嬢さん」は二人の男性に対し共に異性として意識する恋愛感情なく、よって醜悪な男女の恋愛三角関係にもならずに原民喜も遠藤周作も気持ちよく(?)彼女に玉砕(ぎょくさい)している。敗戦後の東京にて三人でよく出掛けたという。1949年の夏に出会い、翌年の6月には遠藤周作はフランスに留学、そしてその翌年に原民喜が自殺している。三人が一緒にいたのは一年足らずであった。

岩波新書「原民喜」では、その「タイピストのお嬢さん」を探し出し、著者が直接に会って当時の原民喜と遠藤周作との三人仲間の交流のことを聞いている(219─246ページ)。2017年6月のことである。「タイピストのお嬢さん」は89歳になっていた。彼女は後に結婚し名字が変わっていた。原が彼女に宛てた遺書の話や原民喜の鉄道自殺について、聞きづらいことも著者はあえて聞いている。彼女は原民喜と遠藤周作と三人で過ごした昔のことを答えている。その時の受け答えの様子が本書に書いてある。この部分は、岩波新書「原民喜」の評伝にての一つの目玉の読み所であると私は思う。というのも、原民喜の生涯を逆算して彼女との交友の結果は非常に重い。もし原が彼女との恋愛を成就できていれば、原民喜は間違いなく自殺せずに彼女と共に後々まで長く生きたと思えるからだ。そして本書でのインタビューを読むと当の彼女も、そのことに暗に気付いている。「もし自分があの時、原の好意を受け入れたならば、原民喜は自殺しなかったであろうこと」に。かつての「タイピストのお嬢さん」を探し会って、彼女を警戒させずに話を聞き出す著者・梯久美子の評伝作家としての力量が優れている。

岩波新書の赤、梯久美子「原民喜」に引用されているが、原民喜の「死と愛と孤独の肖像」の生涯については、原の死の知らせを留学先のフランスで聞き、その日の日記にそっと書き記した親友・遠藤周作の以下の文章がすべてであるような気もする。

「原さん。さようなら。ぼくは生きます。しかし貴方の死は何てきれいなんだ。貴方の生は何てきれいなんだ」(一九五一年三月二十六日付、遠藤周作の日記)