アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(234)北村暁夫「イタリア史10講」

近年、岩波新書から「××史10講」というタイトルで古代から近現代までの各国通史を新書の一冊で、それぞれ書き抜くという非常に大胆で面白い試みのシリーズが出ている。そのイタリア版に当たるのが岩波新書の赤、北村暁夫「イタリア史10講」(2019年)である。新書ゆえ最大でもせいぜい300ページの紙数制約の中で、一国史の古代から近現代まで全時代を概説するというのはなかなか難しい仕事だ。長い現代までの各国通史を新書一冊にまとめるのが、そもそも強引で冒険な企画だと思われる。

「新書一冊の少ない枚数で一国史すべてを概説するなど、そんなこと出来るわけないだろう」といった各国史執筆担当者のボヤキが聞こえてきそうである。そこで各人なりに「無謀企画のかわし方、切り抜け方」というものがある。例えば「あえて詳細な親切な解説は断念回避して先行研究や参考文献を多彩に雑多に引用して済ませる」(「イギリス史10講」)や、「限られた紙面だが、しかし一国史の国民国家のシステム批判など自身が言いたい最新研究の成果を踏まえた歴史の原理的なことを果敢(かかん)に書き入れる」(「フランス史10講」)や、「解説記述の歴史事項を極度に削り内容を易化させて何とかまとめる」(「ドイツ史10講」)の方針選択である。そうした各国史担当の著者らの無謀企画への処し方、切り抜け方が各人各様であり、そこが岩波新書の赤「××史10講」シリーズ企画の当たり具合の面白さだといえる。

岩波新書「イタリア史10講」を一読しての私の感想は、「無難すぎる。ちょうど高校生向けの標準的な世界史教科書、山川出版社『詳説世界史』のイタリア史の記述部分だけを選(よ)り抜いて集め新書一冊に合本したような」読み心地だ。こうした無難な少し残念な読み心地に落ち着いてしまうのは「イタリア史10講」を講義の著者の性格資質や本書の執筆方針に由来するものと考えられる。そうした著者の性格資質や本書の記述方針は、本新書にての著者による「あとがき」に集約されていると思うので、以下「あとがき」の内容をまとめてみる。

(1)本書は、坂井榮八郎「ドイツ史10講」(2003年)、柴田三千雄「フランス史10講」(2006年)、近藤和彦「イギリス史10講」(2013年)に次ぐ「10講」シリーズの一冊として企画されたものであるが、成立の経緯は前者三著と異なる。先行する三著は三人の著者の方々が自ら企画を立ち上げられ、綿密な討論を重ねた上に編(あ)まれた著作である。これに対して、本書は岩波新書編集部の発案により、この「10講」シリーズの続編執筆依頼に著者が応じたものであった。そのため編集部から執筆の打診を受けた時にはお引き受けするのに躊躇(ちゅうちょ)した。

(2)特に「フランス史10講」の著者である柴田三千雄先生は大学院時代の恩師であり、恩師と同じシリーズに執筆者として名を連ねることができるのはとても名誉なことであるが、他方で下手なものを書けば今は亡き恩師の名を汚すことになるだろう。いくら恩知らずの私とはいえ、そのくらいのプレッシャーは感じたのである。

(3)もう一つ大きな逡巡(しゅんじゅん)の原因となったのが、イタリアという地域が歩んだ複雑な歴史を的確に叙述する能力が自分にあるだろうかという不安である。私は近現代史の研究者であり、主に一九世紀から二〇世紀前半を研究対象にしている。しかも、もっぱら関心を寄せてきたテーマは移民や政治亡命といった人間の空間的移動である。そのようなタイプの研究者にとって古代から現代までの一地域の歴史を通観するというのは、とてつもないチャレンジである。

(4)それでも二年あまり時間をかけて、こうして何とか原稿を書き上げることができた。書いたものを読み返してみると本書には二つの特色、あるいは偏(かたよ)りとも言うべきものがあることに気づく。一つは近現代史を専門とする人間が書いたものゆえ、十九世紀以降の占める比重がかなり大きいことである。二つめはローマや南イタリアに関する記述が多く、北イタリアに関する記述が相対的に少ないという点である。

岩波新書「イタリア史10講」の著者・北村暁夫は真面目すぎると思う(笑)。常識的に考えて、たかだか200ページ程度の新書一冊で古代から近現代に至るまでのイタリアの一国史を全部均等に偏向なく詳細記述できるわけがないのだから、最初から各時代と各地域のイタリア史を均等・詳細に解説講義することは断念して、もっと自由に気軽に書いてよいのではないか。事実、冒頭で述べたように「新書一冊の少ない枚数で一国史すべてを概説するなど、そんなこと出来るわけないだろう」といった各国史執筆担当者のボヤキが前提で、各国史担当の著者らの無謀企画への処し方、切り抜け方が各人各様であり、そこが岩波新書の赤「××史10講」シリーズ企画の当たり具合の面白さだといえた。少なくとも私は毎回、そうした無理難題の無茶を著者に強いて、それへのごまかしぶりの対応のあり様を面白がっていたのだった。著者の北村暁夫には申し訳ないが、おそらく、どのような優秀なイタリア史専攻の研究者であっても偏りのない厳密な解説講義は、限られた些少の紙数の岩波新書「××史10講」シリーズでは誰もできないはずである。

北村「イタリア史10講」を通読した者は分かるが、古代ローマから近現代のイタリア共和国までの歴史を全10講で書き抜くにあたって、著者は各一講義分のページ配分を20から30ページに均等配分し字数を最初に決めて、その上で各講の時代歴史を書き出している。もう少し肩の力を抜いて著者が専攻のイタリア近現代史、例えば「この歴史事象がイタリア全史を象徴すると思える事柄」に偏向し集中的に論述講義してもよいはずだ。もし私なら各時代講義の均等配分を最初から考えずに、自分の好みの時代を勝手に掘り下げてわざと長く集中講義するだろう(爆笑)。しかも岩波新書の赤「イタリア史10講」の著者・北村暁夫は、「10講」シリーズ企画立案の先行する三著の方々に向けての続編執筆を引き受けた企画後乗りの後続者の責任と、直の師である柴田三千雄に対し、「下手なものを書けば今は亡き恩師の名を汚すことになる」と痛切にプレッシャーを感じてしまうほど誠に真面目で律儀(りちぎ)な義理堅い人なのであった。

次回、岩波新書「××史10講」シリーズが出るとしたら、アメリカ史かロシア史になろうか。今度の新著には「そもそも新書一冊の少ない枚数で古代から近現代までの一国史すべてを概説するなど、そんなこと出来るわけないだろう」といった執筆担当者のボヤキと共に、その人なりの開き直った痛快傑作な機知に富んだ「無謀企画のかわし方、切り抜け方」の一国史講義執筆をぜひとも期待したい。