ある人の生涯最後の上梓や絶筆は、それがどのような内容の出来であっても無心に読まれるべきものがある。たとえ、それが著者の全盛を過ぎて、かつての自作の焼き直し再構成の凡庸なものであったり、著者が死の間際の病床にあって体調が優れず、聞き書き談話のような不十分な体裁の書籍であったとしても。その書物には著者の生の存在の全てが、最期に渾身(こんしん)の力の重みをもって賭けられているような気がするからだ。
岩波新書の赤、高木仁三郎「原発事故はなぜくりかえすのか」(2000年)は「市民科学者」として生きて生を全うした著者の最期の書籍であり、死の去り際のメッセージである。高木仁三郎(1938─2000年)は反原発の「市民科学者」として、その生涯を貫徹した。岩波新書の本書「原発事故はなぜくりかえすのか」と同岩波新書の「市民科学者として生きる」(1999年)は、高木仁三郎の絶筆であり最期のメッセージであるといってよい。「原発事故はなぜくりかえすのか」の巻末に、「あとがきにかえて」として岩波新書編集部による以下のような文章が掲載されている。
「一九九八年夏、大腸がんがみつかり、高木仁三郎さんの闘病がはじまりました。抗がん剤治療で苦しみながらの病床で、『最後に残しておきたい』と岩波新書『市民科学者として生きる』(一九九九年)を上梓されました。ところが、一九九九年九月にJCOでの臨界事故が起こったことで、高木さんはさらに、『書き残しておきたい』ことが出てきました。そして二000年の夏に、死期を意識しつつ最後の力をふりしぼって録音テープを残されました。テープ起こしの原稿に一度手を入れ、『初校ゲラは見たい』と話しておられましたが、『あとは、山口幸夫さん(註─原子力資料情報室・共同代表)と編集部におまかせします』と言い残して亡くなりました。本書はこのような経緯があってできあがりました」(「あとがきにかえて」)
高木仁三郎が生前に述べていた「市民科学者として生きる」の「市民科学者」とは何か。近年の同じ岩波新書に山本義隆「近代日本一五0年・科学技術総力戦体制の破綻」(2018年)があった。山本義隆によれば「科学技術総力戦体制」とは、近代日本において一貫してあった国家主導の科学技術振興、つまりは官(中央官庁)・産(産業界)・軍(軍隊)・学(大学)の構造化された協働関係の仕組みと、それによって経済の成長・拡大と国力増進を第一とする「列強主義ナショナリズムに支えられた成長イデオロギー」に依拠した体制なのであった。高木仁三郎が標榜する「市民科学者」は、そうした国力増強や金儲けの論理とは一線を画し「科学技術総力戦体制」を批判しそれに対抗する、官・産・軍・学の総力戦体制の外部に位置する「市民」的立場を表する「科学者」であると私は理解したい。
一般に「××はなぜか」という問いかけタイトルの書籍は、著者による「なぜ××なのか」の回答を把握できれば、その書物はひとまず読み切れたといえる。「原発事故はなぜくりかえすのか」についての著者・高木仁三郎の回答は、本書の章立て目次を一瞥(いちべつ)すれば、その概要はおおよそ理解できる。すなわち、
「1・議論なし、批判なし、思想なし。2・押しつけられた運命共同体。3・放射能を知らない原子力屋さん。4・個人の中に見る『公』のなさ。5・自己検証のなさ。6・隠蔽から改ざんへ。7・技術者像の変貌。8・技術の向かうべきところ」
これら8つの主な項目が「原発事故はなぜくりかえすのか」についての著者・高木仁三郎なりの回答なのであった。原子力発電に関し、人的操作のケアレスミスやブラックアウトの原因不明の想定外の事態など、日常的に安全技術に問題があって、長期稼働や廃炉時に費用もかさみ、万一の過酷事故の際には近隣住民の人体健康被害や周辺環境の放射能汚染被害の損失は計り知れない、いわゆる「リスクとコスト」の両面にて到底原子力発電が理にも割りにも合わないものであるにもかかわらず、なぜ原子力発電を官・産・軍・学の「科学技術総力戦体制」で現在の日本は無理矢理に推し進めるのか。「原発事故はなぜくりかえすのか」の問いは「リスクとコストの原則に見合わないにもかかわらず、なぜ何がなんでも原発推進であるのか」の問題と実のところ見事に重なっている。
岩波新書「原発事故はなぜくりかえすのか」では、特に最終章「8・技術の向かうべきところ」における1995年の高速増殖炉「もんじゅ」事故での一連の情報隠蔽を受けての、1995年度版「原子力白書」から顕著になる政府主導の「安全と安心」の分離立論の問題(168─173ページ)は、2011年の福島第一原発放射能漏(も)れ事故を受けての今日の私達にとって今後とも重大な論点になりうる、と私は考える。
いうまでもなく「安全」とは、人間や環境への実質被害を測る明確な科学的根拠を持った確固たる規範であり指標である。かたや「安心」とは、科学的根拠のない極めて曖昧(あいまい)で漠然とした人間への心理的影響をさすものだ。岩波新書「原発事故はなぜくりかえすのか」にて高木仁三郎によると、1995年の高速増殖炉「もんじゅ」の事故隠蔽の事案から政府は「安全から安心へ」の世論誘導に意図的に転換(シフト)してきているという(173ページ)。「今回の原発事故は安全の技術的に大したことではないけれども、多くの国民を不安に陥れる結果を生じさせてしまった」と「反省」するような言い方の切り抜け方を国はする。
科学的根拠のある「安全」ではなくて、人々の心理的影響に配慮する「安心」へ、原発事故問題の論点をズラす90年代以降の政府の意図的論調は、厳密な実害公表や科学的議論を回避し、ないがしろにして、ただただ国民の心理的不安の除去に努めるイデオロギー的操作の表面的策術に堕(だ)する危険性が大いにある。最悪、「実質的被害の科学的根拠の安全の点で相当に深刻な問題があるのに、その安全検証議論を忌避して、ひたすら人々に心理的安心をアピールし、深刻状況を誤魔化し事態を取り繕(つくろ)っていく」ような。明白に「安全」ではない、どのような科学的に危険な状況下にあっても、巧妙な心理的誘導の操作をほどこせば人々は心の中で「安心」を確保できる。こうした原子力政策推進の国による「安全から安心へ」の議論のすり替え策術は、福島原発事故以後の2010年代の日本の原発是非議論にてますます顕著に露骨になってきているのではないか。そういった警戒を私は近年、特に持たざるを得ない。
例えば、福島第一原発の事故処理問題で日々、汚染水は無尽蔵にタンクにたまり続け、各所での放射能集積地(ホットスポット)の周辺環境へ被曝の懸念の「安全」問題への対応が不完全であるにもかかわらず、日本にオリンピックを誘致したいがために「アンダー・コントロール」と軽薄・無責任に言い張って「安全」問題を忌避し、とりあえずは国際世論への「安心」アピールに走る日本国首相の事例のような。
そして、この「安全から安心へ」の議論誘導の欺瞞を見切り、最終章にて明確に指摘している岩波新書の赤、高木仁三郎「原発事故はなぜくりかえすのか」は、数ある原発関連書籍の中で、これからも読み継がれるべき良著であるといえる。加えて著者が死の間際の病床にあって、この新書に自身の生の存在の全てが最期に渾身の力の重みをもって賭けられており、本書から感受せられる読後の感触はどこまでも重い。