アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(242)土屋喬雄「日本資本主義史上の指導者たち」

戦前昭和に出版された岩波新書の赤、土屋喬雄(つちや・たかお)「日本資本主義史上の指導者たち」(1939年)は、一読して正直「あまり面白くない」。

本書は「日本資本主義史上の指導者たち」として、近代日本の資本主義的発展に貢献した人々を各章ごとに挙げて紹介している。大久保利通、松方正義、高橋是清、渋沢栄一、五代友厚、福沢諭吉らである。「日本資本主義史上の指導者たち」各人物の詳細記述は読んで、それなりに「面白い」けれど、やはり読後に「あまり面白くない」の徒労を(少なくとも私は)感じてしまうのは、本書にての著者・土屋喬雄の「歴史の語り方」に由来している。

本新書の書き出しはこうだ。

「今次事変以来軍事が我が国家・国民の中心問題であり、事変が統制を要請していることは、云うまでもない。それ故に、今日において軍事と政治とが経済に対し優位を占めることも、必然である。だが、およそ有りとし有るもの、その限度をもたないものはない。軍事及び政治の経済に対する優位も、おのづからその限度がなければならぬことは、明白である。そして、私が序説において我々の優れたる指導者たちの言をかりて述べたように、『経済が国力の根本』であることも亦、明らかである」

岩波新書の土屋喬雄「日本資本主義史上の指導者たち」は戦時の1939年出版である。ここにあるのは、明治維新から満州事変(いわゆる「今次事変」)を経て1930年代末の現在に至るまでの近代日本の資本主義的発展を自明の肯定的事柄にし、その現状肯定の上に「(軍事や政治よりも実は)経済(こそ)が国力の根本」であるとして、時代をさかのぼり歴代の「日本資本主義史上の指導者たち」の業績を著者の土屋喬雄が褒(ほ)め称(たた)える基調の解説文の連続である。

本書が発行の1939年といえば、日本軍がソ連の機械化部隊に大敗したノモンハン事件があり、前年の1938年に国家総動員法が成立し、翌年の1940年には大政翼賛会の成立、特に経済に関しては統制経済の強化がはかられ、戦時下での国民総動員体制が整いつつあった。本書にての土屋喬雄による「経済が国力の根本」という主旨の言説は、そうした国民総動員体制の国家の要請に見合う見事に時局に一致し、誠に時勢に沿うものであったのだ。

そういった戦時の国民総動員体制下での「国力の根本たる経済」の認識にて、その成立発展由来をさかのぼる形で「日本資本主義史上の指導者たち」への土屋喬雄による、基本は褒め称えの解説記述である。「歴史の語り方」として、資本主義発展の現体制を翼賛強化するために現時点にまで至る歴史を肯定的に述べる「歴史の語り」が、読んで「あまり面白くない」の徒労を(少なくとも私には)感じさせる。「歴史」が現状肯定のためだけではなく、現状批判の問題改善のための「問題史」としてあることや、「経済」が戦時の総力戦体制下での国力増強の根本ではなくて、反戦平和や、国家のためではない人民のために発展する資本主義があることを実は私達は知っている。だから「日本資本主義史上の指導者たち」における土屋の日本経済史の語りは、結局のところ面白くないのだ。

「日本資本主義史上の指導者たち」の著者である土屋喬雄はマルクス主義の経済学者であり、土屋の主要な経済史の仕事にて幕末・明治期の日本の資本主義分析のそれは外せない。土屋喬雄は日本資本主義論争で「労農派」に属する経済史家であった。本新書で取り上げられている多くの「指導者たち」のうち、土屋が自伝編集の仕事をやっていた渋沢栄一に関しては他の人物記述と比較して「さすがに書き慣れている」感がある。そのため岩波新書の赤、土屋喬雄「日本資本主義史上の指導者たち」の中でも渋沢栄一の章は確かに一つの読み所であるとはいえる。