アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(247)沢田允茂「現代論理学入門」

昨今、「論理的であること」が異常に持てはやされ論理的思考(ロジカルシンキング)流行りである。「論理的」でありさえすれば自身の中で理路整然とした思考ができて聡明になり、他者に対しても有利に説得交渉できるとするような「論理」に関する異常なほどの期待の見積もりが見られるが、少なくとも私が知る限り「論理的であること」は、そこまで超絶万能なものではない。

ここでは基本の原初に立ち返って、岩波新書の青、沢田允茂(さわだ・のぶしげ)「現代論理学入門」(1962年)に依拠するかたちで「論理的な思考とは何か」まとめてみる。本新書の沢田允茂によれば、「論理的な思考とは何か」に関し「論理のする仕事」とは以下の2つであるという。

(1)情報の処理(情報の記録保有をスムーズに行う。言語と記号による情報の分類)、(2)推論(二つ以上の既知の情報から自身の手で新たな確実な情報を導き出すこと)

人間による情報の処理は通常、主として言語により行われている。一つの言語体系は情報処理かつ推論のために使用される。ところで言語も実は記号のうちの一つである。ゆえに、その基本条件として言語は少なくとも論理の基本規則に従っていなければならない。かつ言語は存在する必要な差異(多様性)を、その物が実際に眼前にあって言葉と物とをいちいち対応させなくても、その都度、的確に表現する役割機制を持つ。しかも言語の体系は断片的であったり、パラドキシカル(矛盾を含むもの)なものであってはならない。逆に言語を論理的な記号にも変換しうる。だから「記号の働きとはどのようなものか」について沢田允茂は次のようにいう、

「記号の特徴は、…多種多様な事物の状態やその複雑な変化を、比較的単純な他のある物理的変化のヴァラィエティーに対応させることによって、直接に事物の状態や変化そのものによらないでも間接にそれらについての情報を与える、ということである」

沢田允茂「現代論理学入門」において、「論理的な思考」とは「分類すること(情報処理)」と「推論すること」である。しかも、そうした論理の仕事は「言語と記号」によってなされる。それら言語と記号は各論理に公理化され、ある程度の無矛盾性と完結性に支えられ体系化されている。ゆえに「現代論理学入門」にて論理的な思考を獲得するためには、「文(言語)の論理とその構造」と「記号(数学理論を主とする)の独特の意味と運用方式」を学んで知ればよいことになる。すなわち「論理とは言語であり記号である」。

なるほど、このことについて私は痛く共感できる。「論理とは言語であり記号である」とされるとき、前者の「論理とは言語」について伝統的な西洋哲学の論理学にて、古代ギリシア哲学のアリストテレスから近代ドイツ観念哲学のカントに至るまで形而上学的な存在論に関し、いつの時代でも先人たちは、主語と述語の一文構造(「S─P」関係)の思考形式に依拠する形で一貫して考えてきたのであった。同様に後者の「論理とは記号」についても私達は「現代論理学」の書籍を手にすると、論理変換の記号解説と数学の集合理論とにいつも圧倒される。

確かに、岩波新書「現代論理学入門」を始めとする沢田允茂の一連の著作を読むと、最初は文と文との結び付きの形式を明らかにする「命題論理学」の解説から始まって、次に主語と述語の一文の中で命題間の包括関係や真偽・矛盾判定の価値判断をより厳密に考える「述語論理学」への解説に連なり、そうした「関係の論理」は次第に積み重なって、どんどん複雑になっていく。

沢田允茂や野矢茂樹らの「現代論理学」の著作を私が読む限り、論理的思考とは淀みなく理路整然と聡明に思考できたり、たちどころに相手を説得論破できるような超絶万能なものでは決してない。むしろ論理学は、ある意味、非常に地味で泥臭い地道な学問であって、沢田允茂がいうように、「現代論理学」がせいぜい出来ることは断片知識や知見を相互に関係づけ整序し体系化して示す「情報処理」か、論理的に飛躍していない極めて妥当で当たり前のことを見通しと可能性の予測を立てて堅実に指し示す「推論」くらいしかない。

岩波新書の沢田允茂「現代論理学入門」は200ページほどの新書であるが、「現代論理学」について大変読みごたえのある「入門」の良書といえる。本書が難しいと感じる方には、同じ沢田允茂による執筆のジュヴナイル(少年少女向け読み物)である「少年少女のための論理学」(1958年。後に「考え方の論理」1976年のタイトルで復刊)が、難しい「論理学」の内容を比較的わかりやすく親切丁寧に噛み砕いて解説しており、お薦めである。

以前に私は大学進学して大学受験が終わった後も、また学校を卒業してからも大学入試の過去問を遊びで解いていたことがあった。難関国立大学の東京大学と京都大学は文系受験生にも二次試験にて「文系数学」を必修で課し、また「現代文」と「英語」の二次試験では相当に精密複雑な思考作業を要求する難問を出題する。東大と京大には、その必修受験科目からして論理的思考ができる学生(言語構造と数学記号を理解し扱えて論理的思考への素養がある学生)に合格を出して自分達の大学に入学させたい明確な意図が読み取れる。

このことからも「論理とは言語であり記号であること」がよく理解できる。現代論理学には言語の構造的理解と現代数学の運用技術が必須である。本物の論理的思考(ロジカルシンキング)を身に付けたい人は、とりあえずじっくり一年間くらいかけて大学受験の現代文と英語、そして(文系)数学を受験生でなくても勉強し直すとよいのではないか。