アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(249)兵藤裕己「後醍醐天皇」

岩波新書の赤、兵藤裕己「後醍醐天皇」(2018年)にて論じられている後醍醐天皇その人の概要をまず確認しておくと、

「後醍醐天皇(1288─1339年)。在位は1318─39年。名は尊治(たかはる)。大覚寺統。即位ののち父・後宇多上皇の院政を廃止し、記録所を再興するなど天皇親政を目指した。鎌倉幕府打倒を計画した正中・元弘の変で隠岐に配流。足利尊氏、新田義貞らの協力により幕府を倒した。復古的天皇親政を理想とする建武の新政を実施したが、武士層の不満をかい、不満の先頭に立つ尊氏と対立して吉野に皇居を移して南北朝併立時代を招き、南朝側不振の中に病没した。後醍醐天皇は、延喜・天暦の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐・村上天皇の治世を理想としていた。そのため、天皇の諡号(しごう)や追号は通常死後におくられるものであるが、生前に自ら醍醐天皇にあやかって後醍醐の号を定めた」

そうして著者は、岩波新書「後醍醐天皇」の「本書の目的」について以下のようにいう。

「後醍醐天皇の『賢才』を『往昔に卓爍(たくらく)たり』とする同時代評価があるいっぽうで、その『賢才』ゆえの政治への過剰な取り組みを『毎度、物狂の沙汰』とする同時代評価がある。双方とも半面の真実を伝えているのだが、相反する毀誉褒貶(きよほうへん)のなかにあって、矛盾と分裂をはらんだ後醍醐天皇像を、できるかぎり統一的に捉えることが本書の目的である」(10ページ)

本書は「後醍醐天皇の誕生」から「天皇親政の始まり」を経て「倒幕計画」や「建武の新政とその難問(アポリア)」の各章を配し、後醍醐天皇の評伝記述と人物評価に沿って全八章にて構成されている。その上で「日本史上の一代転換期となった南北朝の動乱は、もちろん後醍醐という一人の天皇の個人的な資質や性向だけに帰せられる問題ではない。動乱の原因としては、いうまでもなく、一三世紀後半の元寇(蒙古襲来)から鎌倉末期にかけて、日本社会に蓄積されたさまざまな政治的・経済的な諸矛盾があり」(10ページ)と著者が指摘するように、本書は「後醍醐天皇」を扱った新書ではあるが、後醍醐にとどまらず天皇が生きた時代状況、従前の古代・中世的なものの価値規範が崩壊しながら後の新たな時代の近世・近代への胎動が感じられる「新時代のざわめき」のようなもの、さらには後醍醐天皇を取り巻く臣下(武士)らに関する記述もある。そういった意味では「バサラと無礼講の時代」と「楠正成と『草莽(そうもう)の臣』」の章も読み所だ。

後醍醐天皇について私達は網野善彦「異形の王権」(1986年)をすでに知っており、王政復古を願い幕府打倒のために呪詛を行う、網野からして「天皇史上、例を見ない異様さ」とされる「異形の」後醍醐天皇イメージを多くの人が少なからず持っている。そうした後醍醐についての従来イメージに対する疑義、著者による網野「異形の王権」批判もある(89─91、106─108ページ)。私は網野善彦の日本史研究は好きだが、正統に対する異端、中心に対する周縁、定説に対する異論など、正統な日本史学に過度に反発する毎度の逆張りの悪物食い(異色好み)が網野史学の難点であると昔から思っていた。網野史学はいつも先行研究に対する対抗言説の歴史学である。網野善彦の逆張りの過剰な異色力説が「キワモノ」好みで鼻につくと実は前々から感じていた。そういった常日頃からの網野史学に対する私の不信に本新書は後醍醐天皇=「異形の王権」論の読み直しを通して少なからず同伴してくれる。

さらに著者は後醍醐天皇についていう、

「注意したいのは、南朝対北朝、あるいは公家対武家という対立軸とはべつに、後醍醐天皇の親政(王政)が、それまでとは異次元の対立軸を、政治史と思想史の領域にもちこんだことだ。天皇と臣下(公家・武家)という君臣上下の枠組みとはべつに、天皇が臣下を介さずに直接『民』に君臨するという、いわば一君万民的な天皇制の起源は、後醍醐天皇の『新政』の企てに端を発するといってよい」(11ページ)

その上で長い歴史射程を持ち、以下のように述べて「近代日本の天皇制国家における一君万民統治の原型」を日本中世の後醍醐天皇の政治に求めるのであった。

「近世幕末の『志士』たち(明治維新の元勲たち)によって実現された『王政復古』は、建武の『中興』の再現としてイメージされていた。近代の天皇制国家は、後醍醐天皇の王政(天皇親政)を参照枠として成立したのである。その意味では、後醍醐天皇の企てた『新たなる勅裁』の政治は、近世・近代の日本社会を呪縛したのだといえる。南北朝の動乱の主人公である後醍醐天皇は、近世・近代に引き継がれた天皇問題の主人公でもある」(12ページ)

こうした後醍醐の死後もその影響を発揮し、近世江戸の水戸藩にての「大日本史」歴史書編纂の南朝正統史観の巧妙な読み替えから始まる、江戸時代の封建的分権支配たる幕藩体制を廃し、天皇を頂点とする一君万民統治の我が国固有の万古不易の「国体」神話にまで藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖らが内々に昇華させたとする考察の最終章「建武の『中興』と王政復古」は岩波新書「後醍醐天皇」の数ある読み所のなかでも最大の読ませ所であり、本新書の出色といえる。

著者は本書「あとがき」にて次のような旨を書いている。かつて帝国大学国史科の初代教授で日本の近代史学の創始者の一人、久米邦武に「太平記は史学に益なし」(1891年)という有名な論文があった。久米はその実証史学の方法論の立場から「太平記」の「物語」批判をなした。当の久米にとって「太平記」は実証に支えられた厳密な「歴史」ではなく、あくまでもフィクションの「物語文学」であったのだ。しかし、著者は大学院時代の修士論文にて「太平記」以下の日本中世の歴史と文学を扱い、日本史の研究者であるよりは私の専門は日本文学だと自負している、という。つまりは、本書の著者・兵藤佑己は「太平記」に関し、日本史にての「書かれた歴史書そのものに対する実証的観点からの内容真偽の判定」よりも、日本文学史からの「書かれた歴史書が同時代や後の時代の人々にどのように伝わり読まれたか」の方を選択し、明らかにするということだ。著書において前者の「歴史書の実証的な内容真偽の判定」よりも、後者の「歴史書の同時代や後の時代ので中での読まれ方」のほうに一貫して強い興味の力点が置かれていたのである。

岩波新書の赤、兵藤裕己「後醍醐天皇」では、後醍醐その人の歴史の実像がどうであるかに加えて、同時代の中世から後の時代の近世・近代に至るまで後醍醐天皇についての、その語られ方にこそ著者の強い関心があった。そのことはもはや繰り返すまでもなく、著者の兵藤裕己が自身を厳密な実証史学の日本史の研究者であるよりは、物語(フィクション)の読まれ方に強い関心を持つ日本文学の研究者であるとする自己規定に裏打ちされていた。事実、兵藤の著作に「太平記〈よみ〉の可能性」(1995年)といった「よみの可能性」に力点を置いた研究があった。ゆえに「本書は、歴史上の後醍醐天皇とともに、その『新政』の企てによって浮上・顕在化した天皇をめぐるディスクール(制度化された言表)に、考察の一つの軸足を置くことになるだろう」(12ページ)とした「序」での予告記述に対応する、「一君万民の統治理念を有する近代天皇制国家は、後醍醐天皇の王政(天皇親政)を参照枠として成立した」という趣旨の、後の時代の後醍醐天皇の読まれ方言説に着目した最終章「建武の『中興』と王政復古」は、やはり本新書の出色であり、最大の読み所であるといえる。