アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(446)田中克彦「ことばと国家」

岩波新書の黄、田中克彦「ことばと国家」(1981年)は、歴代の岩波新書の中での名著としてよく推薦され、学生が読むべき必須の課題図書に定番で指定されるような昔から有名な書籍である。本書の概要は以下だ。

「だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない。その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし、ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す」(表紙カバー裏解説)

本書には言語学に関する原理的考察や言語の生成発展に関する概説などなく、「ことばと国家」という言語の時代的あり様と国家の政治権力との関係を比較的独立したいくつかのエッセイ的文章にて記し、それらを各章にして一冊の新書にまとめている。よって、文献資料(史料)や言語理論に基づく厳密な学術考証は本新書にはない。まさに「ことばと国家」の関係に関するエッセイとして、いくぶん楽に、しかし「ことばと国家」の問題の本質論点を押さえながら読み進めることが出来る。そこが本書の良さだと思える。

岩波新書「ことばと国家」には一つの太い幹(みき)となる基調の読み味がある。

近代の国民国家の国内での成立と、続く海外覇権の帝国主義支配の植民地化に当たり、中央集権的な公的国家がそれまで各地域の地方にそれぞれに多様にあった言語(違った言語、同じ言語であっても方言の相違、話し言葉と書き言葉との言文のズレ、各種様々な記述言葉の文字・凡例の表記表現など)を排斥し、一つの公的言語(国語、母国語、公用語、標準語、常用文字などとして)を掲げて強引に単一化してしまう文化統制的暴力とでもいうものに対する著者の強い批判意識である。著者により一貫してなされる「ことばと国家」に関するこの問題指摘は、先の表紙カバー裏解説の文章でいえば「その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかに(する)」の部分に当たる。この点は岩波新書「ことばと国家」の全編を貫く強い論調として決して読み逃していけない、本書の基調をなす中心の読み味だ。

近代世界以降の海外覇権にて、帝国主義支配の植民地化や民俗浄化の強国の抑圧により、支配地域の人々が制圧され「文化保護政策」の名のもとに従来使ってきた伝統的な言語を禁止され剥奪(はくだつ)されて、代わりに別の特定言語の使用を強要されてしまう「ことばと国家」の問題が昔からあった。

また近代の市民革命を経ての国民国家成立は旧来の絶対王政の封建的支配体制を打破する革命であり、一般に市民革命は近代化の指標として安易に賞賛されがちである。確かに、ある種の市民革命を経た近代の国民国家は多くの封建的特権の身分制度を「前近代なもの」として否定し、おおよそ排除して人民の権利の不平等を改善するけれども、他方で公的政府の中央集権化とその強権政府による国民の平準化にて、国内の人民は等しく一律に支配され、国民国家における均一な「国民」創出に伴い、かつて前近代の封建的割拠下で各地域に様々に多様に存在し継承されてきた言語文化が、近代国家の中央政府により規制され中絶破棄されて、代わりに「母国語」や「国語」や「標準語」が押し付けられ正統な「国民文化」として統一的に不自然なまでに強引に鋳直(いなお)されてしまうことはよくある。そうして、この正統な「国民文化」とは異なる、これまであった多様な言語文化は国家により後々まで抑圧や差別の危害を被(こうむ)り続ける。

前述のように、本新書は「ことばと国家」という言語の時代的あり様と国家の政治権力との関係を、比較的独立したいくつかのエッセイ的文章にて記し、それらを各章にして一冊の新書にまとめている。よって文献資料(史料)や言語理論に基づく厳密な学術考証は本書にはないけれど、これら近代の国民国家の成立に当たり、中央集権的な公的国家がそれまで各地域の地方にそれぞれに多様にあった言語を排斥し、一つの公的言語を掲げて強引に単一化してしまう文化統制的暴力について、本書では第4章に当たる「四・フランス革命と言語」と第5章に当たる「五・母語から国家語へ」の章にて、フランス革命に象徴される近代ヨーロッパでの公的国民国家形成に伴う事例と、近代日本における明治維新を経ての明治政府による事例とで「ことばと国家」をめぐる文化的統制暴力の概要を大まかではあるが素描している。本新書は全八つの章よりなるが、特に注目の読み所は「四・フランス革命と言語」と「五・母語から国家語へ」の二つの章だと私には思えた。これら二つの章は、言語文化のあり方の問題を介しての広い意味での近代批判(ポストモダン論議)にも実はなっているのだ。それほどの広い問題射程を有する本質議論の問題提起である。

本書の奥付(おくづけ)を見ると、著者の田中克彦は「1963年・一橋大学大学院社会学研究科修了、専攻・言語学、モンゴル学、現在・一橋大学教授」とある。著者は一橋大学社会学部出身であり、本新書執筆時には一橋大学教授の役職にある人であった。なるほど、一橋大学社会学部は、戦時のファシズム下で治安維持法で検挙されて当時の日本の国家に弾圧され、大学追放された経済学者の大塚金之助、そしてその大塚の弟子に当たる経済学者の高島善哉が戦後に尽力し創設設置した学部であった。ゆえに本学部出身者には「一橋社会学派」として、政治権力(国家)の介入統制を危険視して問題視する反権力で反国家主義を信条とする学問姿勢が昔から伝統的にあった。そのため政治権力たる国家が各地域に多様にあった言語を排斥し、一つの公的言語に強引に単一化してしまう文化抑圧統制という「ことばと国家」の問題について、「一橋社会学派」に属する著者の田中克彦が本新書のような書籍を上梓するのに私は非常に納得の思いがする。

また本書を読んで「ことばと国家」をめぐる政治権力による言語文化統制の暴力に対して、著者同様に相当に強い危機感を私は持つのである。