アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(256)川北稔「砂糖の世界史」

岩波ジュニア新書、川北稔「砂糖の世界史」(1996年)は、私の住んでいる町の古書店ではいつも在庫過剰で有名な新書である。私がよく行く古書店にて、川北「砂糖の世界史」はだいたい複数冊山積みで、ゆえに値崩れして常に安価である(笑)。

というのは、近所にある国立大学にて毎年、岩波ジュニア新書「砂糖の世界史」を課題図書にしてレポート提出を求める講義(おそらく経済学部に設置の講座と思われる)があるらしく、多くの大学生が「砂糖の世界史」を大学生協の書籍部で購入し、レポート提出の課題が終われば本新書を町の古書店に売りに行く。だから、私がよくいく古書店にて川北「砂糖の世界史」は常に在庫過剰でだいたい複数冊山積みであり、値崩れしていつも安価だ。

以前に私は学校を卒業した後でも、遊びで大学入試問題を解いていたことがあった。大学受験の世界史論述にて、「ヒト・モノ・カネの移動」のテーマ史が好まれ頻出の時期があった。三角貿易、奴隷貿易、強制栽培制度、帝国主義、プランテーション、出稼ぎ労働者、移民と難民など、一国史に終始しない世界の各地域の関係性に着目させて世界史的事柄について書かせる論述である。まさに岩波ジュニア新書の川北稔「砂糖の世界史」のような内容だ。それは、ちょうど現代世界のグローバル化や貿易自由化の今日の国際時事に見事に対応していた。

そして、大学受験の世界史論述の過去問を解いていると分かるのだが、大学入試はあくまでも受験生に「世界史の知識」を問うものであって、学生個人の「思想や世界認識」を聞くものではないので、世界史論述の際にも、例えば「ヒト・モノ・カネの移動」を問う場合、奴隷貿易の奴隷制度への人道的見地からの倫理的非難や、強制栽培制度とプランテーションにおけるヨーロッパ諸国や世界資本のよる、ラテンアメリカ・アジア・アフリカ支配の非情さに対する批判を受験生に論述答案に書かせないよう問題構成や設問リード文の問いかけ誘導にて工夫している。大学入試の世界史論述で世界史の知識のみならず、ヨーロッパ諸国の帝国主義に対する批判など個人的見解の思想的な事柄まで書き入れると確実にマイナス点になる。

岩波ジュニア新書の川北稔「砂糖の世界史」は、高校生の世界史学習の副読本の位置付けで、著者の川北稔も編集の岩波ジュニア新書編集部も執筆・編集しているフシは本書を読んでいて一貫して感じられる。しかし「砂糖の世界史」が特に優れているのは、「世界商品」たる砂糖が南米(カリブ海諸島、ブラジル)の植民地制度下における砂糖きびの強制栽培制度にてヨーロッパ諸国(スペイン、オランダ、イギリス、フランス)からモノカルチャーの商品作物生産を強いられ、生産地での過酷な労働環境や不均衡な利益配分の問題を三角貿易や奴隷貿易や帝国主義の基礎的な「世界史知識」から解説するだけでなく、それらに対する人間疎外の問題や今日の南北(格差)問題に通ずる倫理的糾弾の思想的なものまで、本書には書き入れられ展開されている点だ。この意味で、本新書の「第6章・『砂糖のあるところに、奴隷あり』」と「第8章・奴隷と砂糖をめぐる政治」の二つの章は特に読み所であるといえる。

しかも、そうして奴隷制や強制栽培制度を背後に持つ、生産地にての多くの抑圧され、多くの人々のいわば「血と汗と涙で」生産された世界商品の砂糖は、最初はそれを消費する当時のヨーロッパの人々にとっては、生存の必要や毎日の生活に欠かせない生活必需品では全くなく、せいぜいの所、奢侈(しゃし・「ぜいたく」の意味)の嗜好品、ないしは高価な砂糖を紅茶やコーヒーに入れて口にできる人は当時のヨーロッパ社会にて上流階級に属する人達のみであったことから、「砂糖は上流階級のステイタス・シンボル」の意味で捉えられヨーロッパ本国にて流通・消費されていたのだった。

後に産業革命が起こり、工場勤めの賃金労働者が多くなると、労働者にとって簡単にカロリーが取れる砂糖入りの紅茶が主流な朝食になっていき、砂糖は「上流階級のステイタス・シンボル」ではなくなる、一時的なものであるのだが。

このことは砂糖のみならず、紅茶の茶葉やコーヒー豆やチョコレートのカカオにても同様である。それらは南米・アジア・アフリカの生産地の過酷な収奪によるモノカルチャーの世界商品生産と世界流通にて現地の人々に多大な犠牲を強いる割りには、消費のヨーロッパにて奢侈の嗜好品や身分象徴の「ステイタス・シンボル」として案外ぞんざいに、いい加減に消費されていたのであった。砂糖と同様に、お茶やコーヒーもそれ自体が生活必需品の消費のされ方ではなく、「コーヒー・ハウス」にて、むしろ紅茶やコーヒーを介してヨーロッパ人が談話し情報交換する社交サロンでの「添え物」のような消費のされ様であった。この意味で本新書の「第4章・コーヒー・ハウスが育んだ近代文化」と「第5章・茶・コーヒー・チョコレート」の二つの章も読み所といえる。

他方で抑圧支配された人達により一生懸命に多大な犠牲を強いて生産されているのに、もう片方で抑圧支配している人達は、そうした人々の過酷さの苦労も知らず案外、気軽に消費する。今日にて砂糖も紅茶もコーヒーもチョコレートもバナナも。この現実世界(リアル・ワールド)の残酷さ、非道さ。率直に言って現実の人間世界の馬鹿らしさが伝わるだろうか。

現実に私達が生きている世界の歴史の世界史は誠に残酷で時に馬鹿らしくもあり、本書のような「砂糖の世界史」の書籍は品目を変えて「××の世界史」タイトルで、世界商品のモノカルチャー強制栽培と世界流通に伴う、先進国のヨーロッパ諸国による発展途上国の南米・アジア・アフリカからの過酷収奪の問題告発として実はいくらでも書ける。砂糖以外でも、香辛料とか茶葉とかコーヒー豆とかカカオとかバナナとか養殖エビなど。この意味で本書「砂糖の世界史」に関し、「今あるグローバル化された世界はヨーロッパが作った。その最大の原動力は砂糖だった」とか、「ごく当たり前に存在する、人々が日々、口にしている砂糖が世界を変え歴史を作った」などと感想書評にて書く人がよくいるけれど、それは正確ではない。特に「砂糖」に限定しなくてもよい。「××の世界史」の世界商品の生産と流通に伴う世界のグローバル化に対する問題告発の書籍は、砂糖以外に関しても実際にいくらでも書けるのだ。

以上の話を踏まえて川北稔「砂糖の世界史」の感想書評やレポートの提出を求められた時、どういったことを書いたらよいのか、どのようなことをまとめたら「とりあえず川北の『砂糖の世界史』は読み切れた」ことになるのだろうか。私が考える岩波ジュニア新書、川北稔「砂糖の世界史」の感想書評に関する採点基準は以下だ。この5つの項目を全て書き入れていれば満点だと私には思える。

(1)「砂糖の世界史」について直接に述べる以前に、それを成立させた前提要件、グローバル化の近代世界システム成立の過程と仕組みを「大航海時代」の南米航路開通やヨーロッパ人による現地支配の「植民地」制度、ヨーロッパ本国と他の二つの地域を媒介とする「三角貿易」(なぜ三角貿易なのか。片貿易や双貿易ではなぜ駄目なのか)、安価な労働力の必要性からくる「奴隷貿易」、それに伴う経済的収奪の「強制栽培制度」や「プランンテーション」、さらにはグローバル経済の進展に拍車をかける「産業革命」と「帝国主義」、それら世界史の基礎用語を用いて丁寧に説明できている。

(2)「砂糖の世界史」における砂糖が「世界商品」であることを押さえ、「世界商品とは何か」明確に定義し説明されている。

(3)本書の「第6章・『砂糖のあるところに、奴隷あり』」と「第8章・奴隷と砂糖をめぐる政治」を参照して、ヨーロッパ先進国による発展途上国の南米の生産地にて過酷な労働環境や不均衡な利益配分の問題について、人間疎外や今日の南北(格差)問題に通ずる人道上の倫理的問題として認識理解し、そのことを問題視できている。

(4)「砂糖の世界史」にてテーマになっている世界商品の砂糖そのものの商品特性を掘り下げて理解し、砂糖は南米現地の生産者に強いる生産・流通に伴う過酷さの割りには、当初は消費のヨーロッパ本国では奢侈の嗜好品であったり、「上流階級のステイタス・シンボル」として消費されていた「砂糖の世界史(の皮肉)」に言及できている。同様に、お茶やコーヒーもそれ自体が生活必需品の消費のされ方ではなく、「コーヒー・ハウス」にて、むしろ紅茶やコーヒーを介してヨーロッパ人が談話し情報交換する社交サロンでの「添え物」のような消費のされ様であったことにも触れる記述がある。

(5)他方で「砂糖の世界史」のテーマである砂糖そのものを相対化できており、実は砂糖に限らず、同様な世界商品は多くあって(香辛料や茶葉やコーヒー豆やカカオやバナナなど)、それら多品目の世界商品により、グローバル経済が成立・発展してきたことを理解できている。殊更に「今あるグローバル化された世界を作った最大の原動力は砂糖だった」などと砂糖に限定した視野狭窄(しやきょうさく)な近代世界のグローバル化の議論になっていない。