アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(262)梶村秀樹「朝鮮史」(その1)

(今回は、講談社現代新書の梶村秀樹「朝鮮史」についての書評を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に載せます。念のため、梶村秀樹「朝鮮史」は岩波新書ではありません。)

人にはそれぞれに寿命や天命があるのだから、私は近親の者や知人の死に対し、そこまで落ち込んで悲しんだり感傷的になったりすることはないのだが、朝鮮近現代史研究の梶村秀樹の逝去に関しては、氏と直接の面識なく著書を介して間接的に知っているだけにもかかわらず、心的にこたえ非常に残念な思いがした。50代での梶村の逝去はあまりにも早すぎる。まだまだ氏のやるべき残された仕事はある、と率直に思えたからだ。

梶村秀樹の朝鮮近現代史研究は、戦前から根強くあった日本人から見た朝鮮史観、いわゆる「植民史観」に対する反論・批判であり、朝鮮の人々の立場に立つ、いわゆる「民族史観」に立脚するものであった。梶村が批判する「植民史観」とは、(1)党派性論と(2)他律性論と(3)停滞性論よりなる。こうした「植民史観」の3つの要素から以下のような、戦前以来の日本の朝鮮植民地支配を正当化する朝鮮史像が造作され、日本国民全体がこのイメージを再生産してきた。すなわち、

「朝鮮民族は、党派性が強く不毛な党争ばかり続けてきた。朝鮮の歴史は常に外部の勢力により他律的に動かされ、朝鮮民族は本来的に弱くて自力で発展することができない停滞した民族だから、日本が『併合』して近代文明を扶植し、導いてやらなければ滅びてしまう。だから日本による朝鮮統治は欧米流の植民地支配=侵略ではなくて、恩恵を与えることなのだ」

このような日本人からする根強い朝鮮史観の「植民史観」に、朝鮮の人々の自律性や主体性を強調する、いわゆる「民族史観」を梶村は対置する。「民族史観」は、(1)内在的発展論と(2)資本主義萌芽論と(3)植民地収奪論よりなる。つまりは、

「朝鮮は外部の要因ではなく、朝鮮自身で発展してきたし発展の契機があった。李氏朝鮮後期からの小規模商工業の分析を通して、土着の民族資本の資本主義の萌芽が朝鮮には存在したが、日本の植民地支配により、その芽が摘(つ)まれてしまった。日本による朝鮮統治は朝鮮の近代化を促し恩恵を与えたというよりは、むしろ逆で日本の植民地支配により朝鮮は収奪され、正常な内在的発展を阻害された」

とする。多くの日本人に戦前から、そして今日でさえも(!)広く共有されている、党派性論と他律性論と停滞性論を内実とした「植民史観」は、よくよく考えて日本人からの朝鮮の人々に対する優越意識と、あからさまな蔑視が透けて見える実に問題がある歴史観である。この史観に依拠することで、「日本が『併合』して近代文明を扶植し、他律で遅れた朝鮮を導いてやった恩恵」のタテマエにて、当時の日本の朝鮮への植民地政策が合理化されると同時に、後の将来に渡っても永続的に日本の朝鮮植民地化支配の歴史は正当化され、日本人は朝鮮支配の責任を永遠に都合よく免責されるのであった。なぜなら「朝鮮の歴史は常に外部の勢力により他律的に動かされ、朝鮮民族は本来的に弱くて自力で発展することができない停滞した民族だから、日本が『併合』して近代文明を扶植し、導いてやらなければ滅びてしまう。だから日本による朝鮮統治は欧米流の植民地支配=侵略ではなくて、恩恵を与えることだった」と後々まで強弁できるからだ。

歴史学は単に過去の事柄の史実を明らかにするだけではない。歴史認識は、現状の現在を時に不当に正当化するし、事後の未来に渡っても不当な合理化を貫く虚偽意識(イデオロギー)を形成し続ける。戦前からの日本の朝鮮史研究の基調をなす他律史観と停滞史観とを批判し、日本が朝鮮の近代化を促進したのではなく、実態はむしろ逆で、近代朝鮮が持っていた自立的・内在的な発展の可能性を日本の植民地化がつぶしたとする植民地収奪論を主張した朝鮮史研究の梶村秀樹は、そうした過去の実証だけに止(とど)まらない、現在と未来に渡り作用し続ける歴史観の、いわゆる「歴史の使われ方」にまで射程を有する問題意識を持って朝鮮近代史に取り組んだ。このことは梶村のいずれの著作を読んでも確認できる。梶村は、「歴史学とは過去の事柄を明らかにする学問」とするだけの凡百な歴史家を軽々と越えている。梶村秀樹は誠に優秀な歴史研究者であった。

「梶村秀樹の一冊」といえば、私は梶村「朝鮮史」(1977年)を挙げる。本書は朝鮮史の概説通史である。まず冒頭にて「私にとっての朝鮮史」として、「朝鮮史の勉強が、自分が何者であるかを発見させ、何者とならねばならないかを思い知らせてくれた。…どんな学問でも自分を問い返させる性格をもっているはずだが、日本の現状においては、とりわけ朝鮮史の勉強が最も直接的にそういう意味をもっている」(10ページ)とする。日本人の梶村が隣国の朝鮮史の勉強を通して、日本人の自分とは何者であるか主体的に考える契機となった。「歴史学は自国の歴史を称賛するもの」さもなくば「他国の歴史を肯定して、自国の歴史を批判的に見る歴史は非国民のそれ」とするような狭量(きょうりょう)な「一国史」的歴史研究を梶村は、すでに越えている。

以下、梶村秀樹「朝鮮史」にて特に読み所と思われる箇所を三点あげておく。

まずは「閔妃殺害事件」について。1895年10月、高宗(こうそう)妃の閔妃を公使館守備隊が殺害した事件である。駐朝公使の三浦梧桜が指揮して、三国干渉以後に反日政策をとる閔妃を殺害した。「閔妃殺害事件」に関する梶村の記述を本書から引こう。

「日清戦争後、日本政府は戦勝の余勢をかってつぎつぎに高飛車な要求をつきつけ、…しかし、もともと単なる傀儡(かいらい)ではない金弘集政権の抵抗があって、日本の思うようにはことが運ばなかった。…政権内部には、自主独立を主張する青年官僚のつきあげがあり、さらにその背後に、事態を鋭く見守る民衆の視線があった。…日本にはこのような抵抗の本質がみぬけず、『思いがけぬ抵抗を受けるのは、権力から排除された閔妃の一族がかげで妨害しているためにちがいない』と矮小な邪推をした。かくして、出先官憲は、…現職公使三浦梧桜の直接指揮のもとに、駐留軍人と大陸浪人(自発的にアジア侵略の尖兵とあった民間人)を動員して王宮に押し入った。そして、閔妃を虐殺したすえに石油をかけて焼き払ってしまうという、世界の帝国主義侵略史上に他に例をみない、とんでもない乱暴な事件をひきおこしてしまった。いうまでもなく、当時閔妃は一国の国家元首の正夫人の地位にあったのだから、ことは重大である。一八九一年に一民間人のおこしたロシア皇太子傷害事件(大津事件)が日本の上下を震撼させたことを考えれば、その重大さが理解されよう。王宮侵入、閔妃虐殺の主力が日本人、なかんずく大陸浪人たちであったことは、当時王宮内にいた外国人にも目撃された。また、のちの当事者の自慢話により、具体的な虐殺の経過まで明らかになっている。…国際世論の非難を恐れた日本政府は、三浦らを召喚して形だけは裁判にかけたが、ほとぼりをさましてのち、『証拠不充分』として全員免訴にしてしまった」(127─129ページ)

朝鮮の支配権をめぐる日清両国の衝突である日清戦争にて1895年に日本が勝利し、朝鮮に対する日本の優越を中国に認めさせた直後の1895年の閔妃殺害事件、つまりは1910年の韓国併合にて韓国が廃され日本領朝鮮となる遥か前から、梶村が指摘するがごとく「閔妃虐殺事件でわかるように、もはや国王にとって宮廷といえども安全な場所はなく(高宗王はロシア公使館に入り、そこで国務をみるという変則の事態をとり)外国公館以外に安心して執務できる所がない状態になっていた…このような形で朝鮮の国家主権は、きわめて直接的に制約されるようになっていたのである」(131・132ページ)。

しかも1895年の閔妃殺害事件に直近で類似の事案、1891年の大津事件(訪日中のロシア皇太子が警備巡査に傷つけられた事件。政府は陳謝し外相は辞任。日露関係の悪化を恐れて内閣・元老らは大審院に犯人巡査の即死刑を要請した)を持ってきて、同じ外国王族に対する日本人による殺傷事件なのに、朝鮮とロシアとで当時の日本国の対応の違いを指摘する梶村の論じ方が優れている。多少の日本近代史の知識がある者ならば、閔妃殺害事件と大津事件とを即連想し対照させて、他方は謝罪なしで形式上の裁判を経ての全員免訴、他方は即陳謝の上で外相辞任と大審院に死刑要請の政治圧力までと、あまりにあからさまに露骨に違いすぎる両件での日本国家の事後対応の落差に思い至るはずだ。

当時の明治国家にとってロシアは「格上の」畏怖して屈従すべき欧米列強であり、他方、朝鮮は「格下の」侵略して屈服させるべき近隣アジアであった。

思えば「明治国家の二面外交」にて、欧米列強に対し屈辱の不平等条約を甘んじて受け入れ日本は「屈従」するが、他方で近隣アジアに対しては日本がヨーロッパ諸国からやられた不平等条約を日朝修好条規にて(日本の領事裁判権の承認と無関税特権の獲得)、そのまま朝鮮に押し付けて「侵略」の形で日本国はアジア諸国に高圧的に振る舞うのであった。かつて日本が欧米列強からやられたのと同じ要領で。

強者の欧米諸国から強いられた不平等条約締結の屈辱外交を、今度は日本が弱者の隣国アジアの朝鮮にそのまま強いる。虐(しいた)げられた者が強者に反抗せず、自分の下にいる更なる弱者に向けて同じ虐げを施して満足する、抑圧の圧力が強い上から弱い下へと順次に委譲する(あたかも自分より強い者からいじめられた者が今度はさらに自分よりも弱い者を同様にいじめることで、その鬱憤(うっぷん)を晴らすような)、いじめの心理学的考察にてよく指摘される所の「抑圧委譲の原理」の心性である。ここには不平等条約の苦痛を通してのアジアの日本民族としての覚醒、それと同時に中国や朝鮮と連帯して同じ弱者のアジア諸国の立場から、軍事力と経済力に物を言わせて理不尽な不平等条約締結や植民地化を迫る欧米列強に共に対抗していこうとする「アジアの連帯」の気概など、もともと近代の日本には皆無なのであった。代わりに日本がヨーロッパ諸国にやられた屈辱的外交と侵略を、そのまま近隣アジアに委譲して自国の優越利益のバランス確保に走る卑劣さがあった。

梶村秀樹「朝鮮史」においても、「欧米に対する屈従とアジアに対する侵略」の「明治国家の二面外交」の卑劣さが見事に指摘されている。例えば以下のように。

「当時、日本の明治政府は、欧米の外圧の中で一定の国内政治変革を遂行し、不平等条約や欧米資本主義の圧迫に苦しみつつ、富国強兵・殖産興業政策を上から推進してこれに対応しようとしていた。そういう中でとりうる外交路線は、理論上は、欧米に屈従してそのために生じる矛盾を近隣アジアへの侵略によって埋め合わせる『征韓』路線と、国内改革を徹底させるとともに、アジア諸国と連帯して外圧に対抗する徹底変革路線との二つがあった。しかし明治政府は当初からまったく後者を選ばなかった」(102ページ)

この記事は次回へ続く。