アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(267)原彬久「岸信介」

岩波新書の赤、原彬久(はら・よしひさ)「岸信介」(1995年)は著者の原によれば、「戦後50年」の節目に当たり日本政治の本質を探り、今後の私たち日本人の座標軸を定めるために政治家・岸信介(1896─1987年)を論ずる主旨の新書であるが、本書出版時の1995年の「戦後50年」の日本政治の総括を経た以降も、私たちは岸信介について再考させられる機会に恵まれた。

すなわち、2006年の第1次安倍晋三内閣の成立時である。総理の安倍は祖父の岸信介に心酔し、岸を自らの「政治の師」と仰いで、憲法改正や教育改革の政策にて岸の政治を継承する政治姿勢を明確に打ち出していたからだ。こうして安倍内閣成立時に岸信介は再注目された。当時多く出た岸に関する書籍の中で、今読んでも有用なものとして私は、青土社の月刊誌「現代思想・岸信介・戦後国家主義の原点」(2007年1月号)を推(お)す。あの号に寄稿の各論文は現在読んでも、「岸信介から安倍晋三へ」戦後日本の自民党保守政治を考える上で大変に参考になる。

さて、岩波新書の原彬久「岸信介」の表紙カバー裏解説は次のようになっている。

「戦前、革新官僚として満州国の産業開発を主導、東条内閣の商工大臣を務めた岸信介は、A級戦犯容疑者とされながら政界復帰を果たし、首相の座に就いて安保改定を強行、退陣後も改憲をめざして隠然たる力をふるった。その九0年の生涯と時代との交錯を生前の長時間インタビュー、未公開の巣鴨獄中日記や米側資料を駆使して見事に描く」

正直、私は岸信介という政治家が好きではない。私にとって、近現代日本の歴史上の人物の中でもかなり嫌いな部類に位置する岸である。岸の評伝たる岩波新書「岸信介」を読んでいると、彼が商工省の官僚として世に出る以前の生い立ちから学生時代までを時系列で読んで、私が岸信介が嫌いで軽蔑する理由が自分でも明白に分かるような気がする。岩波新書「岸信介」に出てくる幼少から青年期までに岸に影響を与えた人物といえば、岸と同郷である山口の幕末の長州藩士、吉田松陰。岸の大学時代の指導教授、上杉慎吉。岸が若い時分に傾倒し多大な影響を受けた北一輝と大川周明である。私は一君万民の復古的なナショナリストの吉田松陰よりも洋学者流の開明的なナショナリストの福沢諭吉の方が、同様に天皇主権説の上杉慎吉よりも天皇機関説の美濃部達吉の方が、強硬右派の国家社会主義者の北一輝や大川周明よりも、高踏余裕派の宮中リベラルの西園寺公望の方が断然に好きなのである。岸信介の若い時代の対人嗜好とは悉(ことごと)く逆の反対なのであった。今更ながらに自分が岸信介を嫌悪する理由を、私は明確に納得できる(苦笑)。

著者の原彬久は、本書にて岸信介を「妖怪」や「巨魁(きょかい・「悪の首領(ドン)」の意味)」と安易に呼称してキワモノ扱いすることを、しばしば戒(いまし)めてはいるけれども、私からすれば岸は、彼の経歴からして、やはり相当にキワモノな怪しい人物であって、例えば戦前に商工省の官僚時代に満州に出向し満州国経営に着手していた岸は緊密な関東軍人脈を持ち、現地にて軍関係者と幅広く交誼を結んでいた。すでに満州時代から岸は、商工大臣として後に東条内閣に入閣することになる、当時の関東軍参謀長・東条英機と親密であり、東条と共に満州時代の岸は出所不明な無尽蔵で巨額のカネを政治工作裏資金に流用できるようになっていた。

岸は大陸経営で軍人のみならず、民間右翼の活動家、いわゆる「満州浪人」に至るまで幅広く交際し、岸のそばに来るものには惜しげもなくカネを与えたといわれる。その一人に甘粕正彦がいた。甘粕は憲兵大尉の時、関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者の大杉栄と伊藤野江を扼殺し、軍法会議で懲役10年の判決を受けた後、大陸に渡って満州事変に関わり、後に満州国にて大きな力を振るった人物である。本新書にもあるように「岸と甘粕は満州で終始一貫親密な関係にあった」。岸が甘粕を後に国策会社満映(満州映画協会)の理事長に据えた。
          
以下、岸と甘粕との親密な関係が知れる岩波新書「岸信介」での原彬久の記述を引こう。あらかじめ補足しておくと「古海忠之」とは当時、満州国政府の幹部として総務庁に所属していた人で、満州でのアヘンの密売を彼が「すべて取り仕切っていた」とされる。そして総務庁次長に後になる古海は、以前に総務庁次長の役職にあった岸信介の直属の部下なのであった。

「古海忠之はこう回想する。『たとえばこんな話がある。甘粕正彦の排英工作…、要するに特務だな。この甘粕のために岸さんが一000万円つくってやったことがある』。『一000万円』といえば、少なくともいまのおよそ八五億円にはなるだろう。古海が甘粕のこの資金調達依頼を岸に取り次いだところ、岸は、それくらい大したことはないといって、あっさりその場で引き受けたという」(73ページ)

現在の貨幣価値にして85億というケタ外れな額のカネを、領収書のとれない使途不明でも構わない裏金として自由に捻出できたのは、なぜか。しかも内地から出向の一官僚に過ぎない岸信介が。このことに関し、満州国政府そのものがアヘン密売の当事者であり、岸を始めとして当時の満州国の日本の国策指導者が大陸経営にてアヘン密売による莫大な資金源を持ち、組織的にそれを各種政治工作資金に流用していたことは昔から広く指摘される所である。満州時代の岸信介も、まさにそのアヘン利権の中枢にいたと考えられる。「満州は私が描いた作品だ」と自負した岸が満州を去り内地に戻る前夜、送別の友人らに語ったという岸評伝にて有名な、いわゆる「濾過(ろか)器」論というものがあった。それは今にして思えば内地に帰国前日のうれしさの気の緩(ゆる)みから、つい出てしまった岸信介による貴重な本音暴露の語りであった。

「諸君が選挙に出ようとすれば、資金がいる。如何にして資金を得るかが問題なのだ。当選して政治家になった後も同様である。政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいな金ということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん」(武藤富男「私と満州国」1988年)

以上のような岸信介の語りは、出所がどんなに非合法で「汚いカネ」であっても、それの出所を巧妙に隠して、いわば汚いカネの汚れを「濾過」してキレイにすれば、後に問題追及は「濾過」以前の非合法出自には至らず、それは「合法的な」政治資金として利用しうるとする、満州時代の大陸経営にて岸の経験から得た知恵である。数十億規模の使途自由な政治工作裏資金を捻出して右から左へ動かすことができた、この岸の戦前の大陸経営でのアヘン密売に絡(から)む莫大なカネの流れ、そうして「汚いカネ」を「キレイに濾過」してから政治資金に使用する、岸のいわゆる「濾過器」論。岸信介の評伝や研究にて岸を知れば知るほど明らかになる、この人の果てしなく怪しい胡散臭(うさんくさ)さ。やはり岸信介という人は、彼をして「妖怪」や「巨魁」と称するにふさわしい。

戦前、官僚として満州国経営に関わり、戦時には東条内閣の商工大臣を務めた岸信介は戦後、A級戦犯容疑者とされながら政界復帰を果たし、後に奇跡的に首相の座に就いて安保改定を強行した。そうして退陣後も改憲をめざして政界にて隠然たる力を振るったのだった。私は岸信介は嫌いだが、確かに岸の評伝を読んでいると彼の浮き沈みの激しい波瀾万丈な生涯は面白い。長くなるのでここでは詳しく書けないけれど、戦時に東条内閣の閣僚を務めた岸が敗戦後に戦犯になりながらもそこから復活してゾンビの「妖怪」のように蘇(よみがえ)り、遂には岸内閣を組閣できたのは、岸信介にとって相当な幸運であった。そうして岸は日米安保の改定をやり、しかしその安保改定と引き換えに岸内閣は退陣を強いられる。岸信介は自身の政治信条であった念願の憲法改正を果たせず政治課題未達成の遺恨を残し、その長い政治家人生を終えるのだった。

岸信介という人は、「改憲と国防と反共の政治家」であったと時に評される。岸の政治の手法は常に敵を想定し、それへの敵対や統制を目する。そうして人々の敵愾心(てきがいしん)や反感、攻撃性を煽(あお)って、政治的同伴者の自身への支持を取り付ける常套(じょうとう)の政治手法をとった。

岸信介における「改憲」は、「単に改憲を成し遂げたい」というよりは、日本の戦後民主主義理念の戦後レジームを否定したい強烈な対抗意識が常に先にあっての自主憲法制定の立場からの現憲法改正の念願であったし、同様に「国防」は、まず何よりも冷戦下でのソ連や中国に対する共産国陣営への敵対心と共にあり、それは裏から言って日米安保体制の軍事同盟強化と同義であった。また戦後の岸内閣における「東南アジア歴訪」によるアジアにおける日本の地位作り、日本を盟主とする「大アジア主義」の志向は、戦前の岸の満州国の大陸経営の反復であり、かつての「大東亜共栄圏」構想のリバイバル(焼き直し)であって、ゆえに岸内閣において戦前の国家体制と戦後レジームの連続性を指摘する議論が、従来の岸信介研究にて定番である。

だが、そこにはさらに日本がアジアの盟主である「大アジア主義」といいながら、岸内閣の当時はまだ中国、韓国、北朝鮮との外交再開や国交正常化はされておらず、それら近隣東アジア諸国を「アジア」から外して、むしろ特定東アジア国への当てつけから、わざと東南アジア外交を進める岸の政略があったのだ。いわば「敵の敵は味方」であるから、ソ連への対抗にてアメリカ、中国と北朝鮮への対抗で台湾と東南アジア諸国というように当面の敵への対抗から、あえて第三者との「友好」連携を進める岸信介の毎度の政治手法である。

北一輝に心酔し、かつての青年期には国家社会主義思想に傾倒した岸信介であったが、戦後には岸は相当に強硬な「反共」論者になっていた。そうした共産主義者への憎悪の敵対から、警察官職務執行法の改正(質問・警告・犯罪予防にて警察官の権限強化をはかる)や教員の勤務評定(教職員による労働運動の封じ込めで、日教組の押さえ込みをはかる)など、国内政治にて国家権力による統制強化の各種政策に岸は着手した。しかし、警職法は国民の猛反対により審議未了で廃案となり、教員の勤務評定も現場の教職員による反対闘争の激しい抵抗に見舞われた。警職法改正以外にも防諜法(秘密保護法)の成立に岸は意欲を見せたほか、防衛庁の国防省への昇格、内政省の設置と地方制による官選知事制度(地方長官任命制度)の復活、独占禁止法改正、小選挙区法の成立を岸内閣は目指していたとされる。

常に敵を想定して、それへの敵対や統制を目する。そうして人々の敵愾心や反感、攻撃性を煽って、政治的同伴者の自身への支持を取り付ける岸信介の政治手法からして、政治的に岸を支持し、時に岸に好意を持ったり岸を尊敬したりする人は、岸信介と同様な、常に敵を想定して、それへの敵対心や反感や攻撃性や他罰感情で物事を判断し他者に接する思考や姿勢の持ち主の人が多い。当然ながら、そこには他者への寛容や宥和の精神はないのである。