アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(280)五木寛之「蓮如」

「世上の宗教家としての評価や専門の歴史研究にて、蓮如に様々な問題が指摘されているけれど、蓮如にはどこか不思議な謎めいた影があり、私はそこに心ひかれて親しみを感じる。私は蓮如が好きなのだ」。岩波新書の赤、五木寛之「蓮如」(1994年)は、蓮如の生涯に関する事細かな史実の他には、どう精密に読んでも実質これだけのことしか書いてない。それ以上のことも、それ以下のことも書いていない。五木寛之は、「私は蓮如という人が好きなのだ」と言うのみである。

蓮如(1415─99年)は本願寺8世法主。名は兼寿、法号が蓮如である。当時、教勢が振るわなかった本願寺を興隆して「真宗(本願寺)中興の祖」とされる。1456年に比叡山宗徒に本願寺を焼かれて、1471年に越前吉崎に坊舎を構え、御文(御文章)を通じて布教活動を展開した。1479年に山科に本願寺を再建し、晩年の1496年、大坂石山に坊舎を建て、のちの石山本願寺の基礎を築いた。

蓮如に対して、すでに私達は「真宗(本願寺)中興の祖」の肯定的評価と、いわゆる「蓮如への誤解」なる議論の否定的評価の両端を持っている。

前者の「真宗(本願寺)中興の祖」とは、本願寺8世法主たる蓮如の教団勢力拡大の手腕を高く評価するものだ。事実、蓮如の活動によって中世の本願寺教団は圧倒的な隆盛を迎え、真宗は「民衆の宗教」として多くの門徒(在家信者)を取り込み未曾有の発展を遂げ、門徒の広範な組織ができて一向一揆を起こすまでになる。こうした多くの民衆の取り込みは、御文(蓮如が布教のために、門徒に向けて教説を平易な言葉で分かりやすく書いた手紙)や、講(経を読み法話を聞いた後に、酒食を共にして人々の連帯を深める会合)の蓮如による布教の画期的手法に支えられていた。

それら御文や講は、造寺・造仏や寄進や苦悶の修行の目に見えた「善根を積む」難行を排した、口称念仏に加えての易行の最たるものであり、室町時代の農村の生産力向上に伴う農・工・商を営む人々の地縁的結合たる惣村成立の社会的変化に対応して、新しい時代の民衆の土着的エネルギーを教団内部に取り込むような真宗教団による誠に時宜を得た効果的な教化方法であった。こうして開祖の親鸞を経て一時期は低迷していた本願寺教団に「真宗再興」をもたらした蓮如は以後、教団や門徒から「真宗(本願寺)中興の祖」として賞賛されることになる。

だが、他方で「蓮如への誤解」なる議論の蓮如に対する強い批判も従来の蓮如研究にてあった。蓮如は、彼の教説からして浄土真宗の宗祖たる親鸞の正統的後継者ではない、むしろ蓮如の「真宗」思想は親鸞の真宗的立場からの後退の変容の逸脱であり、蓮如をして親鸞の正統的後継者とみなすのは「蓮如への誤解」とする主張だ。

例えば以下のような蓮如の文章をして「蓮如への誤解」論者は蓮如の内に、親鸞よりの断絶の非真宗性たる「王法為本」「仁義為先」「世間通途」の各種思想を見るのである。

「ことにまづ王法をもて本とし仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗他家にみえぬやうにふるまふべし」(文明八年消息)

「王法為本」とは「信心為本」と対立する語で、内心に「信心」を蓄(たくわ)えながらも現存国家の支配秩序たる現世の「王法」を「本」として守り、世俗の人的倫理たる「仁義」を優先し「先」に置いて(「仁義為先」)、「世間」一般(「通途」)の風習に従うようにと門徒に戒(いまし)め説く蓮如の教説である。これら「王法為本」「仁義為先」「世間通途」の蓮如をして、日本仏教史における前時代の「王法仏法」論を継承し、後の時代の真宗史における「真俗二諦」論の萌芽を蓮如こそは思想的に用意したとされる。それは内面に仏法の「真諦」の信心を保持しながら、外面では王法の「俗諦」の世俗の支配秩序に従って生きるようにと説き諭(さと)す二元的信仰たる、「信心為本」をかなぐり捨てた真宗の妥協の堕落形態に他ならないとされるのであった。

かの「蓮如への誤解」論者によれば、例の有名な蓮如「白骨」の御文でさえも、現世のはかなさと人間の卑小性の強調(アピール)に終始し、その「現世のはかなさと人間の卑小性」から来る人々の「不安」や「絶望」に対する処方箋(しょほうせん)として「信心による安心」を教団みずからがマッチポンプ式(自作自演)で調達し提供して、広範に民衆を教団信仰に取り込むイデオロギー的策術であり(ゆえに蓮如における「本願寺再興」の教団発展は「親鸞の念仏集団から逸脱した欺瞞の教団振興」と痛烈批判される)、親鸞が説く仏教の本来性であるところの「真宗性」たる人間悪の認識や我執の否定とは縁遠いものと、「現世のはかなさと人間の卑小性の強調」である蓮如の教説は厳しく糾弾されるのである。この意味においても、蓮如は彼の教説から浄土真宗の開祖たる親鸞の正統的後継者ではない、すなわち、蓮如をして親鸞の正統的後継者とみなすのは「蓮如への誤解」であって、むしろ蓮如の「真宗」思想は親鸞の真宗的立場からの後退の変容の逸脱とされるのであった。

「蓮如への誤解」の議論は、一定の歴史的状況の中で宗教者として生きた蓮如その人に対する誠に厳しい評価であり、いわば「ないものねだり」の超越的批判の感があって私は全面的に賛同はしないけれど、「教説からして蓮如は浄土真宗の開祖たる親鸞の正統的後継者ではない」とする「蓮如への誤解」論に真宗関係者は無心に耳を傾けるべきである。「真宗(本願寺)中興の祖」の従来の蓮如理解を再考の余地は十分にある、と私は考える。

さて、岩波新書の五木寛之「蓮如」は、冒頭で述べたように蓮如の生涯に関する事細かな史実の他に、どう精密に読んでも「蓮如に様々な問題が指摘されているけれど、蓮如にはどこか不思議な謎めいた影があり、私はそこに心ひかれて親しみを感じる。私は蓮如が好きなのだ」。実質これだけのことしか書いていない。「蓮如には様々な問題が指摘されている」云々で五木は本新書にて、戦後の真宗教団の護教的な親鸞ないしは蓮如理解に終始批判的な親鸞研究の服部之総ら先行研究者の名を書き入れていることから、彼は蓮如に関して「真宗(本願寺)中興の祖」の肯定的評価がある一方で、「蓮如への誤解」なる否定的評価が従前の蓮如研究にて根強くあることも当然、知っているのである(笑)。

だが、五木は前者の「真宗(本願寺)中興の祖」論の蓮如礼賛(らいさん)だけを主に紹介し述べて、後者の「蓮如への誤解」論は見事なまでに看過し全くもって触れない。その際、「実は私は専門の宗教学者ではありません」とか「蓮如の研究家でもありません」の言い訳をかなりの頻度で繰り返し、中世本願寺教団における蓮如の「真宗再興」の手腕と、後は聖を目指しながらも俗に足元をすくわれて苦悩する蓮如の人間らしさ、つまりは蓮如の人間的苦しみへの共感(要するに「私は蓮如という人が好きなのだ」)の筆致に終始してしまう。蓮如の複雑な生い立ちから青年期の苦しい修行、壮年期以降の法主としての活躍から晩年の生涯までの時系列の評伝記述に依拠するかたちで。

岩波新書の五木寛之「蓮如」は初版が1994年である。当時、4年後の1998年の「蓮如五百回遠忌法要」の節目の一大イベントに向けて本願寺教団は、蓮如に関する各種キャンペーンをさかんに催していた。それは蓮如礼賛の「真宗(本願寺)中興の祖」論に支えられ、そこでは蓮如を本願寺宗祖たる親鸞からの正統的後継者とすることに疑問を呈する、むしろ蓮如をして親鸞の真宗的立場からの後退の変容の逸脱であるとする「蓮如への誤解」論は一貫して徹底的に、実に周到なまでに排除されていた。

私は本願寺教団の関係者でもなければ、熱心な真宗の門徒でもない。全く真宗に関係のない部外者だが、親鸞や蓮如、島地黙雷や清沢満之らの著作と真宗史研究の書籍を昔からよく読んでいた。当時90年代、1998年の「蓮如五百回遠忌法要」開催の前後に岩波新書の赤、五木寛之「蓮如」を手に取り初読した。「蓮如の『五百回遠忌法要』に暗に全面的に協賛するような蓮如礼賛の本願寺教団の意向を汲(く)んで、『蓮如への誤解』論を完全に黙殺し排した『真宗(本願寺)中興の祖』評価が主な顕彰的評伝記述であり、現本願寺教団には誠に都合のよい新書だ」と五木寛之の「蓮如」への書きぶりがやや物足りなく正直、少し残念に思った。