アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(283)宇沢弘文「自動車の社会的費用」

岩波新書の青、宇沢弘文「自動車の社会的費用」(1974年)は昔から広く知られ、よく読まれている名著である。本新書に対しては「戦後日本の自動車中心社会に対する警鐘批判」への共感と、それとは逆張りの「著者も時に自動車を利用し日常的に自動車社会の恩恵を受けているにもかかわらず、とんだ偽善的エコロジストだ」と激怒する極論の二つの読みが前から根強くあるけれど、それらはいずれも正当な読みではない。

「自動車の社会的費用」といった場合、最初の「自動車」ではなくて続く「社会的費用」の方に重点を置いて読むべきだ。つまりは、各人の私的資本や社会共通資本の妥当性を検討する際には「社会的費用」という経済学の観点からトータルに幅広く考えるべきだとする、経済学者である著者・宇沢弘文による主張がある。本当は特に「自動車」でなくてもよいわけで、「自動車」は「社会的費用」を考える際のあくまで一例に過ぎない。ゆえに本書を読んで「社会的費用」の経済学の考え方に習熟した読者なら今日的文脈にて、例えば「原子力発電所の社会的費用」や「インターネット環境とソーシャルメディアの社会的費用」として原発やネット環境の社会共通資本の妥当性を「社会的費用」の観点から各自、再考しても構わないわけである。

岩波新書「自動車の社会的費用」における「社会的費用」の概要はこうだ。

「社会的費用とは、経済学における費用概念のひとつで、市場経済において内部化されていない事故、公害、環境破壊等により社会全体あるいは第三者が被(こうむ)る損失と、それに伴い負担させられる費用(外部不経済)のことをいう」

社会的費用における「費用」とは、生産の際に必要となる、後の収益を見越した上での内部化された一時的な経済価値の減少を意味する「出費のコスト」というよりは、市場経済の利益算出にてあらかじめ内部化想定されていない(つまりは外部不経済であるところの)「社会全体や使用者以外の第三者が被る不条理な損失」の意味合いが強い。この「社会的費用」を自動車に即して言えば、いわゆる「自動車の社会的費用」の内実は、交通事故(生命・健康の損傷)、公害(大気汚染、騒音、振動、粉塵)、道路建設とその維持、道路の混雑(渋滞による交通の効率性低下により他の自動車通行者が被る経済的損失)など、自動車通行により発生する各現象の外部不経済たる経済的損失を指す。

そして、これら交通事故、公害、道路建設、混雑の経済的損失を計量化し実際の貨幣額に換算する。例えば、自動車通行が可能となるように道路を建設・整備、事故防止のための交通安全施設の整備(歩道橋や緩衝地帯や児童公園など)、道路混雑解消のための施策(バイパス建設など)、公害対策費(排気ガスによる大気汚染対策、排ガス規制など)の主な項目に分けて、それぞれの負担費用を考えるのである。

著者の宇沢弘文による、こうした自動車通行により生じる外部不経済の経済損失たる「自動車の社会的費用」の計算の費用提示が本新書の肝(きも)であり、一つの読み所ではある。自動車がもたらす社会的費用の細かな算出方法や具体数値は、本書での「三つの計測例」(85─99ページ)と「自動車の社会的費用とその内部化」(159─168ページ)の各節を各自参照し確認して頂きたい。

目先の利便性や快適さや効率性や内部化された利益だけでなく、外部不経済たる「社会的費用」まで勘案することで、そのコスト(費用)を事業者と利用受益者や時に社会全体で負担していく。社会的費用があまりにも莫大でトータルで割りに合わない不経済の場合には、私的資本や社会共通資本そのものの存在妥当性まで検討する。前述のように、本書ではたまたま「自動車の社会的費用」になっているけれど、それは自動車以外で原発でもソーシャルメディアでも、その他、空港やゴミ焼却施設でも何でも構わない。要は目先の内部化された利益だけではなくて、全体での外部不経済の「社会的費用」にまで広い射程を持ってトータルで考えることが重要なのである。

さて、以上のような立場から「自動車の社会的費用」の実際数値を算出する宇沢であったが、「社会的費用」たる自動車により社会全体や使用者以外の第三者が被る損失は、実は貨幣価値に還元できない本来は理論的に計測不可能なものでもあると宇沢はいう。すなわち、

「自動車のもたらす社会的費用は、具体的には、交通事故、犯罪、公害、環境破壊というかたちをとってあらわれるが、いずれも、健康、安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し、しかも、人々に不可逆な損失を与えるものが多い。…自動車通行にともなう社会的費用は、その多くが人命・健康の損失という不可逆なものであって、その計測は実際問題として困難なだけでなく、理論的にも不可能なものである」(170・171ページ)

確かに「自動車の社会的費用」は経済コストとして計測できる。「自動車の社会的費用」の中の、例えば公害(大気汚染、騒音、振動、粉塵)の「社会的費用」について、ここでは主に「汚染者負担の原則」と「受益者負担の原則」とが働く。自動車通行がもたらす公害という社会的費用は、自動車開発メーカーの公害対策の技術開発費やその開発費(これが汚染者負担)を繰り込んだ車の所有者が負担する車体の購入価格、ガソリン税や自動車重量税の利用者負担(これが受益者負担)によりまかなわれている。ただし、それは道路の建設・整備費や公害対策費など損失が予防的で可逆的である事例に対してだけである。予防的で可逆的であるなら、あらかじめ防いだり元に戻すのに必要な費用を計算すれば、それで社会的費用は見積ることができる。

ところが「自動車の社会的費用」には公害の他にも、例えば交通事故(生命・健康の損傷)があって、人命や健康や安全の市民の基本的権利の侵害は不可逆的な現象であるから、その被害評価は本書で考えられている社会的費用の経済概念をもってしては、もともと計測することも補填(ほてん)することもできないのである。より卑近に言って、ある人が交通事故で生命を失ったとして、金銭による損害賠償で補填されても(例えばホフマン方式による計算方法)、人間の命の損失は、もはや現状回復できない不可逆的なものであるのだから、いくら「自動車の社会的費用」で考え金銭を積まれても被害の当事者(と交通死亡者の遺族)は到底、納得できないはずだ。

ここにいたって宇沢弘文は「自動車の社会的費用」の計算根拠を支えている新古典派経済理論への根源的批判、いわば「経済学批判」にまで論及する。ここが本新書のもう一つの肝であり、最大の読み所といえる。宇沢は本書にて「新古典派経済理論の問題」として「自動車の社会的費用」のテーマに引き付け、以下の2点を指摘している。

(1)新古典派の経済理論は、厳密に純粋な意味における分権的市場経済制度にのみ適用され、そこでは生産手段の私有性が基本的な条件となっているために社会的資源に配慮できない。(2)新古典派経済理論では、人間を単に労働を提供する生産要素として捉える面が強調され、社会的・文化的・歴史的な存在であるという面が捨象されているため、市民的自由の収奪という経済学の社会問題に充分な光を当てることができない(17ページ)

「(1)社会的資源への無配慮」と「(2)人間を労働力としてのみ捉える市民的自由の収奪という弊害への不問」という点から、宇沢によれば、今日の新古典派経済理論は都市政策や環境問題で現代社会においてもっとも深刻な社会的・経済的問題を引き起こしている「人間疎外の問題」を解明するための理論的なフレームワークを提供できないという。これは、マルクス主義に繋(つな)がるような経済学批判の言説である。このことは経済学者の宇沢弘文において、「社会的費用の概念はじつは、市民社会のもっとも重要な市民の基本的権利という概念に密接にかかわりをもつ」(99ページ)という市民の権利擁護、人間尊重の彼の経済学の根本思想に支えられていた。

宇沢は「社会的費用」の経済概念を提示して「自動車の社会的費用」を実際に計算しながらも、他方で「自動車の社会的費用」の中には不可逆で後に回復不可能な人間の基本的権利への重大な侵害があることを見抜いていた。つまりは宇沢は、社会的費用の概念を支える新古典派経済理論の限界を知っていた。そうした新古典派経済理論の限界を見定めながら、宇沢弘文は岩波新書「自動車の社会的費用」の結語にて次のように書き、社会的配分正義の「福祉経済社会」への志向を強く示唆して筆を擱(お)く。

「すべての経済活動について、…社会的費用が発生しないような規制を設けることが、社会的な資源配分という点から望ましいものとなる。…ここでわたくしが提案している方法によれば、すべての道路にかんして、さきに説明したように、歩・車の分離、適当な緩衝地帯の設定、並木などの配置を通じて、自動車通行にともなう社会的費用の発生をみないような設計がなされる。…この基準を適用するとき、どのような地域に住む人々も、またどのような所得階層に属する人々も、社会的な合意をえて決定された市民の基本的権利を侵害されることがない。また他人の基本的権利を侵害するような行動は許されないという原則が貫かれる。そして、すべての経済活動に対して、その社会的費用は内部化され、福祉経済社会への転換が可能となり、わたしたち人間にとって住みやすい、安定的な社会を実現することができるといえよう」(174─177ページ)

生前になされた氏へのインタビュー記事や書かれた自伝を読むと分かるが、宇沢弘文という人は、元は理学部に在籍し数学を専攻していたが、河上肇「貧乏物語」(1917年)を読み感銘を受けて経済学に転じた、河上肇の社会主義思想やマルクス主義経済学に傾倒した人であった。後に宇沢はアメリカに留学し、効率重視の安定成長を第一義に目指すケインズ理論ら新古典派経済理論の限界を指摘するに至る。帰国の後は、元は数学者の資質から統計理論や数字算出の地道な手法に裏打ちさせて、「水道や教育や報道などは文化を維持するために欠かせないものであり、それらを市場原理に委ねてはいけない」「効率重視の過度な市場競争は格差を拡大させ社会を不安定にする」旨を主張し、都市政策や環境問題に経済理論を絡(から)めて積極的に取り組んだ。宇沢弘文は、今日でいう市場原理万能視の新自由主義(ネオリベラリズム)に真っ向から対決するような「福祉経済社会」政策ベースの経済学者であったのだ。