アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(285)高護「歌謡曲」

岩波新書の赤、高護(こう・まもる)「歌謡曲」(2011年)はサブタイトルが「時代を彩った歌たち」であり、1960年代から1980年代までの30年間を10年単位で区切り、

「(1)各年代での『歌謡曲』の発展の歴史と特性についての時代ごとの考察、(2)個々の作品の基礎情報と楽曲の構成要素の紹介と分析、(3)それに伴う歌手、作詞家、作曲家、編曲家の役割と個々の特徴および他に与えた影響」

以上の3点に留意しながら総合的に「歌謡曲」という音楽の全体像をまとめる、と著者はしている。より具体的には10年区切りごとの各時代の「歌謡曲」の概要は以下のようになる。

「和製ポップスへの道─1960年代(新たなシーンの幕開け、カヴァーからのはじまり、青春という新機軸、ビート革命とアレンジ革命、新しい演歌の夜明け)。歌謡曲黄金時代─1970年代(歌謡曲の王道、アイドル・ポップスの誕生、豊饒なる演歌の世界、阿久悠の時代)。変貌進化する歌謡曲─1980年代(シティ・ポップスの確立、演歌〜AOR歌謡の潮流、アイドルの時代)。90代年の萌芽─ダンス・ビート歌謡」

私は本書をそこまで真面目に読む気にならなかったし、実際に真面目に読まなかったし、部分的に真面目に読んだ箇所もあったが、著者による「時代を彩った歌謡曲」についての理論的で時代的な分析は読んでよく分からなかったというのが正直なところだ。その都度、時代ごとの流行や売れ筋はあっても、「歌謡曲そのものに元々そこまで掘り下げて真剣に考察するような内実がないのでは!?」の率直な思いがする。ただ本新書は各歌謡曲の紹介が当時のレコードジャケット写真掲載と共にあり、掲載写真の歌い手の顔を通して「あーこういう懐かしい優れた歌が確かに昭和の昔にはあったね」と次々に懐かしんで思い出すような読み方であった。

岩波新書の高護「歌謡曲」を読んで自身のことに引きつけ改めて気づいたり、思い至ったのは主に以下のようなことだ。

まず私はそこまで熱心な「歌謡曲愛好家」というわけではないのに、本書で紹介されている歌謡曲をほとんど知っている。私は1970年代の生まれだが、私が生まれる前の時代のかなり昔の歌も不思議なことに、これがほとんど知っていた。いずれの楽曲も一度はどこかで聴いたことがあり、サビの部分をだいたい歌えるのだ。例えば水原弘「黒い花びら」(1959年)、橋幸夫「潮来笠」(1960年)、村田英雄「王将」(1961年)の昔のものから、テレサ・テン「時の流れに身をまかせ」(1986年)、美空ひばり「川の流れのように」(1989年)の比較的新しいものまで。「歌は世につれ、世は歌につれ」とよく言われるが、時代と共にあって社会に浸透する歌謡曲の広がりの強さのようなものを自身のことを通し改めて実感した。

私はカラオケにはほとんど行かないが、酔っぱらって気分が良くなった帰りの夜道の暗がりで人知れず歌を歌うことはある。例えば小林旭「自動車ショー歌」(1964年)や、殿さまキングス「なみだの操(みさお)」(1973年)などだ。その他、好きな歌謡曲に、美空ひばり「柔(やわら)」(1964年)や、都はるみ「好きになった人」(1968年)がある。どうも私が好きなのは大衆酒場で流れているような、案外ベタなコブシを回す女歌の演歌歌謡や軽快で明るいコミックソングであるように思う。

他方で私が聴いて眉をひそめる不快な歌謡曲は、若い女性にわざと歌わせる性的イメージ喚起のアイドル歌謡で、例えば山本リンダ「狙いうち」(1973年)とか、山口百恵「ひと夏の経験」(1974年)などだ。「狙いうち」を作詞の阿久悠も「ひと夏の経験」を作詞の千家和也も、「よそ様の家の大事な若い娘さんに非常に恥ずかしい性的(セクシャル)なハレンチ歌謡を歌わせて、コイツら人としてどうなのか(怒)」の思いが私は昔からする。

もう馬鹿らしいので、山口百恵「ひと夏の経験」の歌詞をここで詳しく引用などしないが、当時、山口百恵はマスコミから「女の子の一番大切なものとは何ですか?」とセクハラまがいの質問を連発され、毎回「真心です」と答えていたという。山口百恵はいかにも気の毒である。

「日本に生まれたポピュラー音楽『歌謡曲』。それは誰が、どのように作り、どう歌われたものだったのか。時代を象徴するヒット曲を手がかりに、作詞家、作曲家、編曲家、歌手の各側面から、その魅力の源泉に迫る。制作の背景、楽曲・歌唱の音楽的分析、作品の与えた影響など、初めて書かれる本格的ディスコグラフィである」(表紙カバー裏解説)