アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(293)宮城音弥「性格」

岩波新書の青、宮城音弥「性格」(1960年)は、紙面にて著者の宮城が自ら言うように本新書は「性格学概論」ともいうべき内容である。著者は心理学における性格の研究を踏まえて、性格学にての各種の性格類型を紹介し、その概要を解説する形で本論は進む。

例えば「気質の先天性」について、生まれつきの気質と体型に関係があるとするクレッチマーの三類型の分析が一般に有名だ。クレッチマーは歴史人物の肖像画の分析を通して三つの類型を導き出したのであったが、本書にもその概要が説明されてある。

「やせ型─分裂質(非社交的、無口、敏感で鈍感、心に内と外がある)、肥り型─躁鬱質(社交的、融通がきく、物にこだわらない、愉快な時と憂鬱な時が周期的にくる)、筋骨型─テンカン質(固く几帳面、きれい好き、丁寧だが時に激怒する、義理堅い)」

こうしたクレッチマーによる「内因性精神病と体型の関係」についての考察を見るにつけ、心理学や精神分析というのは、個別の具体的病状や個人の性格心理に類型概念を与え、それに振り分ける分析学であるのだということを私は痛感する。もちろん、本新書での宮城音弥を始めとして精神医学に従事の専門家は、それら類型があくまでも便宜のものであり、全ての患者や症例に必ずしもそのまま適合するものではないことを知っているし(例えば「肥り体型であっても非社交的で無口な人」もいる」)、宮城もそのことを本論にて断っている。

臨床医学の人間の異常人格の診断以外にも、社会参加を果たし価値形成をしていく正常な人格の類型に関する、シュプランガーの六つの価値分類の解説が本書にある。シュプランガーによれば、人間の文化的価値の内実は以下の六つの観点から考えられ、この六つの価値類型で全ての人間が分類できるという。すなわち理論型、経済型、審美型、権力型、宗教型、社会型である。ただ、それぞれの型はあくまでも理念的な典型モデルなのであって、一人の人物がすべて、例えば「理論型だけ」の価値追求で性格形成されているわけではないし、一つの型でその人の性格を規定し全体を説明できるわけでもない。ある人物は、例えば「理論型と権力型の複合」であり、ないしはその他の型も混じる混合の場合もあって、しかも個人によりそれぞれの型の割合に濃淡もある。「理論型と経済型と社会型の複合であるが、なかでも理論型重視の性格要素がかなり強い」個人もいるわけである。また各型の複合以外にも、例えば「意識的で表面的な言動は経済型の価値規範志向であっても、内心の無意識の衝動には権力型への渇望を隠し持っている」潜在のパターンもありうる。

さて、岩波新書「性格」ではクレッチマーやシュプランガーらの性格類型の分類が数多く紹介されており、さらには個人だけでなく民族性や国民性の歴史的・文化的な人間集団に関する「性格」についても詳しく言及されている。なかでもそれら考察の土台となる、そもそもの「性格とは何か」について最後に書いておこう。

著者の宮城音弥によれば、人間個人の性格は以下の4つの階層からなるという。ここでも「性格」の内実は、心理学や精神分析にての常套(じょうとう)の手法、個別の具体的現象に類型概念を与え振り分ける分析学のそれに依拠した説明になるのであった。人間の性格の構造は、先天的で固定的な気質を中心として、そこに後天的で変化しやすい各層が同心円状に加わってできると考えられる。(1)内部の心の深層(コア)に中心的にあるのは「気質・体質」である。これは個人にとって「生まれ持った個性の人間的資質」とでもいうべきもので、先天的で固定的であり変えることはできない。(2)次に、気質を中心として環境の影響で次第に後天的な行動様式が作られていく。これが「狭義の性格」であり、また道徳的、社会的な意味をもつ「人格」である。(3)さらにその外側に後天的な社会条件下で形成される「習慣的性格」があるとされる。ある事物に対する好き嫌いといった「態度(行動の準備状態)」も後天的に作られる精神的傾向であり、これは習慣的性格に近い。(4)そうして性格構造の一番外側の周縁にあるのが、極めて後天的で社会的に作られた「役割性格」になる。これは、ある社会的場面に結び付いたものであり、例えば「教師が教師らしく行動し、部下は部下らしく行動すること」を指す。

以上をまとめると「人間の性格」とは同心円状で4層になっており、中心から外縁まで(1)気質・体質、(2)狭義の性格・人格、(3)習慣的性格・態度、(4)役割性格の各層により構成されている。(1)の円の中心に行けば行くほど先天的で変えようがなく、当人にとり深層の核心であり本質的な性格要因となる。いわゆる「その人らしさ」というか、その人独自の資質や個性といえる。そうして(4)の同心円の周辺に行けば行くほど後天的で変えることもできる精神的傾向であり、当人にとっては表層の比較的重要ではない性格要素となる。

だから、もしある人が当人の性格により、母子間や夫婦間や家庭内で良好な人間関係を構築できない、もしくは学校や職場や地域にて適切な社会参加が出来ない不適応の問題を抱えていて、そのために当人の性格改善が必要な場合、その改善アプローチは先の「性格の構造」の4つの階層のうち、一番周辺の後天的で変えることが比較的容易である(4)の「役割性格」の再検討から進めていくべきだ。例えば、現在の仕事が相当に精神的につらい場合には、本人の性格に合わないのだから、とりあえずその職業の性格役割を変更する、つまりは転職するとか。例えば家庭内での母子間での人間関係がうまくいかない時には一時的に母親の役割を降りて白紙にする。その間、夫に父親の役割遂行やその他の家族・親族に子育てを補完してもらうといった方策が考えられる。

さらには(3)の習慣的性格・態度も考慮し、自身の物の考え方の傾向や癖、行動に至るまでの準備状態たる日常的態度を客観視して再検討することも性格改善には有効だ。つまりは後天的な社会条件たる自分の習慣や態度そのものを変える。加えて習慣・態度を変えるために自身を取り巻く環境そのものを変えてみる。日常生活にてのルーティン(常同行動)の変更、イレギュラー(突発的で不規則)な行動とか。例えば、長期休暇をとったり他地域への転居という方法が考えられる。

他方で個人の性格構造において、先天的で変えようがなく、当人にとり深層の核心であり本質的な性格要因となる「その人らしさ」ともいえる、その人独自の資質や個性に該当の(1)の気質・体質や(2)の狭義の性格・人格は、基本的に変えられないものであるから、いくら性格改善とはいえ、それらを改変しようとしたりしないほうがよい。当人の性格としてそのまま肯定するのがよい。これらを無理にいじると、その人に対しての性格否定や人格毀損になってしまうからだ。最悪、当人の性格が破綻してしまう。性格の深層の核にあるそれら気質・体質や狭義の性格・人格は生まれ持っての先天的なものであり、その人個人の本質的なものであって、もはや変更など出来ないのだから、これら性格の中心的構造部分は肯定で認めて「その人らしさの長所の美点」として褒(ほ)めて伸ばすか、多少の問題があったとしても割り切って一生付き合っていくしかない。

以上の「性格改善」の話は、岩波新書の青、宮城音弥「性格」に直接に書かれてはいないが、自分の人生経験からしても私は切にそう思う。

私がよく行く飲み屋に10代学生の双子の男性アルバイトがいる。私は毎回、酒を飲みながらそれとなく観察しているが、一卵性双生児なので顔も背丈も非常によく似ている。ほぼ同じである。ただし兄と弟で明白に体格が違う。それは双子特有の母胎内にいる時の母親からの栄養摂取の偏(かたよ)りであると思う。兄は骨格がガッチリしていて、弟は兄と比べて明らかに細く、まだ身体が出来ていない印象を受ける。双子の兄の方は体格がガッチリしているためか、動作が大きく男らしく無愛想であるけれど仕事が早くミスも少ない。店内での接客の声も大きくハキハキしていて、店長や社員からのウケがよい。他方、双子の弟の方は細くてまだ身体が出来ていないためか、どちらかといえば内気で声も小さく仕事が遅くてよくミスをする。しかし、接客が非常に細やかで愛想がよく、毎回、私が好きでよく頼むメニューをあらかじめ覚えていたりで、常連客へのウケが大変によい。

双子というのは希(まれ)な事例であって、前述の性格構成のうちの後天的な(3)から(4)の各層は衣食住のこれまでの生育環境が二人ともほぼ同じであるだろうから、双子の兄弟でここまで性格が対照するのは、もう先天的で固定的な生まれ持っての(1)の気質・体質の違いに由来しているとしか考えられない。そうして先天的で固定的な気質・体質は、すでにその人の変更できない個性的性格であるのだから、この双子の場合、例えば兄の方に、弟のようにもっと細やかな気の付く接客をしろとか、逆に弟の方に、兄のようにもっと素早くテキパキと作業しろなどと第三者の店長や客が指導・要求しても、それは性格の構造上おそらくは無理である。双子で容姿はほぼ同じでそっくり似ているにもかかわらず、双子の兄にも弟にも双方に生まれ持っての気質・体質から来る性格の、各人の「人としてのよさ」が個別にあるのだから双方の性格長所を認め、かつ性格短所は暗に見逃して、それぞれに人格尊重していくことが最善だと思える。