アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(297)柄谷行人「世界史の実験」

文芸批評家の柄谷行人の岩波新書での仕事は「世界共和国へ」(2006年)と「憲法の無意識」(2016年)と「世界史の実験」(2019年)の3冊がある。最初の「世界共和国へ」は岩波新書の1001点目に当たり、岩波新書は本書から装丁がリニューアルされた。

もともと夏目漱石論から文芸評論家として活動を始めた柄谷行人であったが、「日本近代文学の起源」(1980年)は今読み返しても当時のポストモダン批評として傑作だと私は思う。「風景と内面の発見」とか「告白という制度」など、こういう関係論から人間主体にとっての実体存在を疑い転倒させる柄谷の文芸批評は、従来型の漱石論の江藤淳らには到底、書けないものであった。

その後の柄谷行人は文芸評論だけでなく、世界史理解を介した社会理論に及んだ。岩波新書「世界共和国へ」以降の「岩波新書三部作」とも称するべき柄谷の一連の仕事には、「資本=ネーション=国家」の三位構造をいかに相対化し揚棄するかにあった。ここでの三位構造は「商品交換・市場=互酬=略取・再分配」と言い換えてもよい。例えば「資本」は商品交換と市場原理万能主義の現代のグローバル経済でありネオリベラリズムであり、「国家」は昔から略取と再分配の帝国主義的システムなのであって、左端の「資本」と右端の「国家」がイコールで結ばれているのは、今日の2000年代以降の日本にて国家が資本と結託しグローバル経済構築と新自由主義的改革に奔走する現状を顧みるにつけ、「なるほど」と感得されるところである。

柄谷「世界共和国へ」以降の著作は、これらグローバリズム、ネオリベラリズム、ナショナリズムの広義の「帝国」を超える対抗言説としてある。一冊目の「世界共和国へ」は西洋哲学のカント論であり、二冊目の「憲法の無意識」は日本の戦後民主主義の憲法学であり、三冊目の「世界史の実験」は民俗学の柳田国男論であった。そうして、その場合には柄谷のいつもの論じ方であるのだが、必ず「帝国」への対抗に無意味なものを横目に置いて、それらの現実的無効性や理論破綻を指摘し批判して嘲笑(ちょうしょう)し斬り捨てながら、柄谷行人は傍若無人に高踏余裕で語る(笑)。「世界共和国へ」にて主に槍玉(やりだま)に上げられているのはマルクス主義であり、「憲法の無意識」では従来型の戦後民主主義と戦前復古への反動思想が、「世界史の実験」では一国民俗学や国家神道、国学・皇学者流の偏狭なナショナリズムが柄谷により批判されていた。

しかしながら、岩波新書「世界共和国へ」を始めとする柄谷のカント論、「実践理性批判」(1788年)における「目的の王国」理解も「永久平和のために」(1795年)から後の国連構想を引き出す考察の手際も「本当にそうなのか!?」と読んで私は思わず半畳を入れたくなる。最新著「世界史の実験」における柄谷による柳田国男の読み直しも一読して、「本当なのか!?」のツッコミどころが満載だ。

例えば柳田国男が模索したという「世界史の実験」に関する、以下のような柄谷行人の語りである。

「もちろん、柳田が九条について言及したという資料はありませんが、彼が『新たな社会組織』を考える上で、戦争における死者を念頭においていたのは確実です。彼にとって、憲法九条は、過去および未来の死者にかかわるものであったはずです。この憲法は、西洋におけるカント的な理念に発するものであり、もっと遡(さかのぼ)っていえば、アウグスティヌスの『神の国』に発するものです。しかし、柳田はそれとは別の観点から、やはり『神の国』について考えていた、ということができます。…柳田にとって、外地で戦死した若者をどうするかが、何よりも大事でした。それはまた、二度とこのようなことを起こさない、という『社会組織』を作ることにもなるでしょう。それが憲法九条です。しかも、これは柳田にとって、日本を『神の国』にすることを意味したのです。この意味での『神国日本』は、『神国日本』を唱えて帝国主義的膨張政策を強行した連中が消えてしまう戦後にこそ可能である。柳田はそう考えたのではないかと、私は思います。これは宣長のいう『古道』の回復と同じことです。ただ、それを宣長のようにたんに文献によってではなく、また、篤胤のような理論的独断によってでもなく、『実験』によって示すことです」(「第1部・実験の史学をめぐって」88─91ページ)

あえて図式化するとすれば次のようになろうか。「柳田国男の『一国民俗学』=外地で戦死した若者の追悼=憲法九条の不戦の誓い=カント『永久平和』とアウグスティヌス『神の国』の理念=戦後における『神国日本』の実践=柳田による『世界史の実験』」

柄谷行人、この人はキリスト教の世界宗教(カント、アウグイスティヌス)と、国学・神道の民族宗教(本居宣長、平田篤胤)の区別もついていない。近年の加藤典洋「敗戦後論」(1997年)の一連の論争(戦没兵士追悼の「ねじれ」と日本国憲法の「けがれ」をめぐる議論)も踏まえていない。

岩波新書の赤、柄谷行人「世界史の実験」は一読して相当に残念な読後の感想が私には残る。「柄谷さん、知ったかぶりの変な仕事に無駄に手を出さず、晩年に汚点著作をなるべく残さずに、残りの人生できる限り賢明で穏やかな余生を送って下さい」の思いが私はする。

「大勢の死者が出た東北大震災の後、著者は柳田国男が戦争末期に書いた『先祖の話』を読み返す。外地で戦死した若者たちの霊を思う柳田にとって『神国日本』とは、世界人類史の痕跡を留める『歴史の実験』場だった。柳田の思考の『方法』を見極め、ジャレド・ダイアモンド、エマニュエル・トッドらを援用した卓抜な世界史次元での『文学』と『日本』批評がここに」(表紙カバー裏解説)