アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(300)立花隆「ぼくはこんな本を読んできた」

(今回は、立花隆「ぼくはこんな本を読んできた」についての書評を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に載せます。念のため、立花「ぼくはこんな本を読んできた」は岩波新書ではありません。)

昨今では読書論や読書術の書籍が多く出されているが、私が以前に読んで印象に深く残っているのは、立花隆「ぼくはこんな本を読んできた」(1995年)だ。本書の副題は「立花式読書論、読書術、書斎術」となっている。本書が新刊の時、書店の入り口に平積みのベストセラーで派手に陳列されて、そこそこ高価な単行本が飛ぶように次々に売れていた1990年代の状況を今でも昨日のことのように私は懐かしく思い出す。もちろん、私も新刊のハードカバーで当時、即購入して読んだ。本書初版時の1995年には私は20代で大学在学中であり、その時期「どのように本を読むべきか」自分なりの読書法を模索していた。

時はめぐって2010年代、20年近くの月日が経過して振り返ってみると、立花隆「ぼくはこんな本を読んできた」の書籍タイトルは、なかなかのものだとは思う。私は後に書評ブログをやってみて、自身のブログへのアクセス数の少なさの自分のことに引き付け痛感した次第であるが(笑)、個人の読書遍歴や直近に読了した本の履歴やそれらの感想書評を他の人に幅広く読んでもらうには、まず何よりもその人が有名人気であるとか、世間一般が当人の知的さに一目置いて尊敬ないしは憧憬されていなければならない。書評において、その記述内容は実はそこまで関係ない。人気の感想書評や文芸批評や評論は、どのような内容であるかよりは誰が書いたかで主に決まる。

立花隆「ぼくはこんな本を読んできた」は、「世の一般の人は立花隆ほどの知的人物ならば、彼が今までまたは直近でどういった本を読んできたか知りたく思うはずだ」の立花隆の人気を事前に当て込んでタイトルを付けたであろう、著者の立花隆と担当編集者の相当な自信が透けて見える著作である。同様に、本書に後続の立花隆の読書論の書籍「ぼくの血となり肉となった五00冊そして血にも肉にもならなかった一00冊」(2007年)もそのタイトルからして、「立花隆の知的創造の秘密たる彼の『血となり肉となった』書籍の読書遍歴と感想書評を、世間一般の人達は当然知りたがっているに違いない」の並々ならぬ自信に満ちあふれている。

事実、「ぼくはこんな本を読んできた」刊行時の1990年代に立花隆は人気の絶頂にあった。昔の立花は「知の巨人」と呼ばれていたほどだ(笑)。この人は大学卒業後、文藝春秋に入社して「週刊文春」の雑誌記者からプロの文筆キャリアを始めた人であった。中核派と革マルや自民党や日本共産党や農協など、既存の大型組織の「巨悪」追及の人であり、その内の自民党の田中角栄研究が当時「田中金脈問題」として跳(は)ねて話題となり、「ジャーナリスト・立花隆」を世に知らしめ一躍有名にした。その後も、脳死(臨死体験)やサル学(人類学)や宇宙論、天皇制と東大(官僚)など、ジャーナリズムの知的好奇心から取材した著述仕事を立花隆は多く世に出した。

さて「ぼくはこんな本を読んできた」以降も立花隆は読書についての類書を数冊出しているが、立花の読書論や読書術に関しては本書を一読するだけで十分だと私には思える。立花「ぼくはこんな本を読んできた」は、前半の「立花式読書論・読書術・書斎術」の概説総論と、後半の「中学生・立花(橘)隆少年の読書記録」や近日の「私の読書日記」形式の短い感想書評の二部構成よりなる。前半が「立花式読書」の抽象的方法論の概論であり、後半が実際具体的な「立花式読書」の実践編ということになろうか。

そのなかでも前半の「私の読書論」にある「『実戦』に役立つ一四ヵ条」は、立花隆の書籍への向き合い方、彼の読書術の本質を凝縮し総括している本書にての最良な読み所と思えるので以下、その概要を引用してみる。

「(1)金は惜しまず本を買え。基本的に本は安い。一冊の本に含まれている情報を他の手段で入手しようと思ったら、その何十倍、何百倍のコストがかかる。(2)一つのテーマについて、一冊の本で満足せず、必ず類書を何冊か求めよ。類書を読んでみてはじめて、その本の長所が明らかになる。(3)選択の失敗を恐れるな。失敗なしには、選択能力は身につかない。選択の失敗も、選択能力を養うための授業料と思えば安いもの。(4)自分の水準に合わないものは、無理して読むな。水準が低すぎるものも、水準が高すぎるものも、読むだけ時間のムダである。(5)読みさしでやめることを決意した本についても、一応終わりまで一ページ、一ページ繰ってみよ。意外な発見をすることがある。(6)速読術を身につけよ。できるだけ短時間のうちに、できるだけ大量の資料を渉猟するためには、速読以外にない。(7)本を読みながらノートを取るな。どうしてもノートを取りたいときには、本を読み終わってから、ノートを取るためにもう一度読み直したほうが、はるかに時間の経済になる。(8)人の意見や、ブックガイドのたぐいに惑わされるな。最近、ブックガイドが流行になっているが、お粗末なものが多い。(9)注釈を読み飛ばすな。注釈には、しばしば本文以上の情報が含まれている。(10)本を読むときには、懐疑心を忘れるな。活字になっていると、何でももっともらしく見えるが、世評に高い本にもウソ、デタラメはいくらもある。(11)オヤと思う個所(いい意味でも、悪い意味でも)に出合ったら、必ず、この著者はこの情報をいかにして得たか、あるいは、この著者の判断の根拠はどこにあるのかと考えてみよ。(12)何かに疑いを持ったら、いつでもオリジナル・データ、生のファクトにぶちあたるまで疑いをおしすすめよ。(13)翻訳は誤訳、悪訳がきわめて多い。翻訳書でよくわからない部分に出合ったら、自分の頭を疑うより、誤訳ではないかとまず疑ってみよ。(14)大学で得た知識など、いかほどのものでもない。社会人になってから獲得し、蓄積していく知識の量と質、特に、二0代、三0代のそれが、その人のその後の人生にとって決定的に重要である。若いときは、何をさしおいても本を読む時間をつくれ」

(1)に関しては「大金を持参して神田の書店街に行き、興味ある分野や好きな著者の本を買いまくれ」とする旨の立花隆の実践アドバイスもある。「大金持参で神田の書店街に行け」というのが、まだインターネット環境が整備されていない1990年代の昔の時代を感じさせる(笑)。今日なら「Amazon(アマゾン)」か「日本の古本屋」サイトにリンクして興味のある書籍をクリックし購入しまくれ、ということになろうか。

(2)から(5)については、主に「多読のすすめ」である。他著を読んでいても分かるが、立花隆が強調する「立花式読書」の要訣は、「とりあえず質よりも量の多読に徹しろ。何よりも多くの本を読め!」の主張に尽きる。

(6)の速読術について、立花隆はどのような方法の速読法を日々実践し、また読者に薦(すす)めているのか本書だけからでは明確にならないが、「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術」(2001年)ら立花の他著を参照すると、目次を熟読し書籍の全体構成を把握したのち本をパラパラめくって気になる所だけ読む、ないしは各ページの各段落の頭の文章だけを主に読む、いわゆる「パラパラ読み」や「飛ばし読み」が立花隆のいう「速読術」の内実であるらしい。

(7)も時間節約のための効率的な読書、広い意味での「速読術」に通じるもので、一度目はノートを取らず読むことだけに集中し重要な箇所のアタリを付けておいて、二度目にノートを取りながら読むことのすすめである。当然、二度目の方が、はるかに早く読めてノートへの記録もはかどる。とにかく本の読みっぱなしが一番良くない。読んで放置せずに、必ず書物の要点や感想や「これは名文だ」と感じた文章を書き抜いてノートを作成することが読書では大切である。

(8)から(13)は「書物を疑いながら読むこと」の重要さの指摘だ。(10)の「懐疑心」や(12)の「生のファクト(チェック)」の必要性の話は、現場取材での雑誌記者の仕事の基本のようでもあり、「さすがはジャーナリスト出身の立花隆だ」の感心の思いが私はする。特に(8)は傑作である(笑)。「人の意見やブックガイドに惑わされるな。…お粗末なものが多い」。立花隆が執筆の諸作やブックガイドにも惑わされるな。残念ながら「知の巨人」立花隆をしても、お粗末な記述はある。立花の著作も必ず疑って読め!

(14)は至言である。「蓄積していく知識の量と質、特に二0代、三0代のそれが、その人のその後の人生にとって決定的に重要である。若いときは、何をさしおいても本を読む時間をつくれ」。若い頃から鍛練を重ね修行のつもりで地道に真面目に読書に励む最良に越したことはない。