アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(301)古厩忠夫「裏日本」

岩波新書の赤、古厩忠夫(ふるまや・ただお)「裏日本」(1997年)のタイトルになっている「裏日本」とは、本州の日本海地域、とりわけ北陸・山陰地方のことを指す。主な県名でいえば北陸の新潟と富山と石川と福井、山陰の鳥取と島根の各県ということになる。この本州の日本海に臨む一帯地域は寒冷で冬季降雪量が多い。

著者によると「裏日本」の呼称は、そうした単なる自然地理的概念だけではなくて、太平洋岸の「表日本」地域へのヒト・モノ・カネの供給地ないしは収奪地とされ、太平洋側の「表日本」に対する社会的格差を表現する概念として日本海側の「裏日本」という言葉が存在するというのであった。「ヒト・モノ・カネの移転システム」の形成を介しての、「裏日本」の「表日本」への忍従・貢献は不可欠である。明治以後、日本の近代化が進んだ太平洋側に比して日本海側が差別され格差がある実態は、ここ100年あまりの日本の近代化の中で歴史的に醸成され蓄積されてきたものであるとも著者は指摘する。そうした歴史の中で徐々に形成されてきた「表日本」に対する「裏日本」という格差のシステム、差別意識の様相であるがゆえに、ときに停滞イメージやあからさまな蔑視や暗黙の冷遇を伴う「裏日本」の言辞を背後にて支えている人々の意識を、著者は「裏日本イデオロギー」と呼ぶ。

「イデオロギー」とは元々虚偽意識のことであるから、現実に差別や格差の構造があるから人々が正確にそう思念するだけではなくて、逆に人々の意識の中に「裏日本イデオロギー」の虚偽意識が先立ってあるため実際に「裏日本」の格差のシステムはより積極的に存立するのである。そうして「裏日本」という呼称に込められた人々の否定的意識は、今日にてもいまだ無くなっていないとされる。

例えば、東北地方や沖縄も北陸・山陰の「裏日本」同様、中央より疎外された地域である。そのため「東北独立論」や「沖縄独立論」が出てきて、それなりに中央から独立した別世界的なアイデンティティー、日本の中央に対する対極の概念として新しい世界観・価値観の拠り所となり得てきた。ところが、北陸・山陰地方の「裏日本独立論」は出てこない。「裏日本」とはあくまでも「表日本」の「表」に対する「裏」の対(つい)なのであって、太平洋側の「表日本」の別世界が日本海側の「裏日本」なのではない。「裏日本」の諸地域は「表日本」との対応にて共通性を有する地域であっても、東北や沖縄のように必ずしも一つのまとまりをもった独立した地域とは見なされていないのである。

ここに「裏日本」をめぐる過酷な状況がある。さらに著者は「裏日本」における「ヒト・モノ・カネの移転システム」に言及する。もともと明治時代の日本の近代化の原初から、北陸・山陰の「裏日本」地域は中央や他地域に比べ鉄道敷設や道路整備など、開発や都市化の近代化に遅れ、そのため過疎化の生活困難ゆえに太平洋岸地域の「表日本」への移住者や出稼ぎの季節労働者の供出にて、「ヒト」供給の労働力提供の役割を「裏日本」は担わされてきた。また「モノ」供出については、北陸地方の主産業たる米穀生産に加えて、後の時代には関東や関西の都市部で消費するエネルギーの供給、石油コンビナートや原子力発電所ら建設立地の提供も「裏日本」は「表日本」のために「カネ」の見返り供与でなかば半強制的に「分業」として不当に強いられてきたという。

岩波新書「裏日本」を読んでいると分かるが、著者の古厩忠夫は相当に強硬な反原発論者である。「原発銀座」と揶揄(やゆ)される北陸での原子力施設立地の異常な集中に対し、関東圏の東京や関西圏の大阪の太平洋岸都市部の「表日本」で大量に消費される電力を海洋汚染や時に放射能漏(も)れ過酷事故の危険性もありうるのに、なぜそうした重大リスクまで背負って日本海側地方の「裏日本」がエネルギーの「モノ」供出に甘んじなければならないのか。例えば以下のような著者の不信による静かな怒りである。

「明治末期に形成された裏日本イデオロギーは『ヒト・モノ・カネの移転システム』の形成を背景に生まれてきたものであるかぎり、現実に根拠をもっていた。戦前にあっては富国強兵のための国策として『分業』を押しつけられ、戦後は国土計画という経済的国策によって不平等な傾斜投資がおこなわれ、戦前の権力強制に代わって、カネの力で原発や公害コンビナート建設の差別的『分業』を『承諾』させられる…また裏日本の『分業』拒否を『地域エゴ』と非難する表日本…生涯を『台所』や『便所』で送ることを強制された者の抗議の怨念…裏日本の人びとは中央を頂点とするヒエラルヒーのなかで、下落を防ぎ少しでも上にいこうと、世代を継いで努力と忍耐の日々を送った」

戦前から現代まで一貫して中央政府や太平洋岸地域から「分業」を押しつけられ、太平洋側には潤沢で過剰な傾斜投資が行われ、他方で日本海側はカネの力で原発や公害コンビナート建設の差別的「分業」を「承諾」させられて、その「分業」を拒否すると「地域エゴ」と非難される。「表日本」に対する穀物供給(「台所」)と原発受け入れ(「便所」)をして、「裏日本」の人々が抱く「生涯を『台所』や『便所』で送ることを強制された者の抗議の怨念」という表現は実に強烈で生々(なまなま)しい。では、こうした太平洋側の「表日本」の文字通りの「裏方」に徹することを強いられた日本海側の「裏日本」の格差の社会システムと人々の頭に根強くある「裏日本イデオロギー」の差別の意識を変革・払拭するためには、どうすればよいのだろうか。

著者は、本新書にて次のような旨の処方箋(しょほうせん)を出している。

「表日本の繁栄は、産業主義のヨーロッパ・イデオロギーという意味での近代イデオロギーである。前近代において『単なる差異』の集積であったものも、近代においては格差の構造的体系のなかに遠近法で秩序づけられる。裏日本イデオロギーは、近代イデオロギーに対するアンチテーゼとしての非合理主義、非西欧主義、非効率主義、非産業主義、農本主義などの要素をも内包している。…私には、二0世紀末にいたってようやく、反近代ではなく裏日本イデオロギーをも止揚することによって新たな地平を築く可能性が生まれてきつつあるように思われる。その可能性を、裏日本における国家を相対化する国際化と地域化の二つの動きに求めたい」

太平洋側の「表日本」の発展を産業主義のヨーロッパ・イデオロギーの近代イデオロギーと規定した上で、そうした近代イデオロギーの合理主義、効率主義、産業主義を全否定する反近代主義ではなく、かといって「表日本」の近代化に憧れて「裏日本も表日本に追いつき追い越せ」で負けじと合理主義、効率主義、産業主義の開発と発展をやみくもに目指す近代主義でもない、そのような近代イデオロギーを止揚する「第三の道」を著者は提言する。本新書の副題は「近代日本を問いなおす」である。

すなわち、それは「裏日本における国家を相対化する国際化と地域化の二つの動き」である。より具体的に言って前者の「国際化」は、日本の国家と中央の都市を相対化し、それへの依存から脱却して日本海沿岸諸県とロシア、中国、韓国ら諸外国地域との密な文化経済交流を目指す「環日本海地域交流圏」構築の構想である。他方、後者の「地域化」は新潟県西蒲原郡巻町の原子力発電所建設の是非をめぐる地元住民による一連の巻町住民投票運動の成果、つまりは日本の中央政府の権力と巨大資本の金力に屈することのない地域住民の自治と、さらには合理主義、効率主義、産業主義に依拠した開発と経済的発展以外での価値生活を目指すスローライフのすすめ、地域コミュニティーの再生を促す提言となっている。

ここにおいて、かつて新潟出身の首相・田中角栄が日本海側に上越新幹線を開通させたり、大型公共事業を北陸地域に持ってこさせたりしたような、地元選出代議士の政治力に物を言わせて中央の都市部からの利益誘導型の開発主義による地域振興の手法は、近代イデオロギーに基づく「表日本」から「裏日本」への利益誘導の一時的な「対処療法」として著者により痛烈に批判されている。本書の中で「新潟県人である田中角栄の『恩と利』の政治も裏日本への差別に対する対処療法でしかない」と断ずる著者の筆は誠に手厳しい。

実のところ、本書の内容は地方自治や地域振興の定番議論であって、国家や中央の都市部のヒエラルキーの従属支配下から自由になる地域再生のカギとして、地方からの国際化(周辺地域や諸外国との積極交流のすすめ)と、産業開発や効率合理性を主とする物質繁栄主義の近代イデオロギー批判(スローライフや地域コミュニティー再生の提言)を説く、それ自体としてはありきたりなものではある。しかしながら、そうした抽象的な定番議論に終始せず、「裏日本」というなかなかインパクトのあるタイトルと共に、太平洋側地域の「表日本」との間での社会的格差や差別を押さえた上で日本海側地域の歴史と現状の具体論を噛(か)ませて考察展開させているところが、類書の地方自治論や地域振興議論とは異なり、本書は非常に優れている。

思えば、岩波新書の赤「裏日本」の著者・古厩忠夫は中国近代史専攻の、本書執筆時には新潟大学教授の職にあった日本海側の地域と人々のことを切に考え思う、いわゆる「裏日本」の人であったのだ。