アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(310)師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」

「ヘイトスピーチ」について、岩波新書の赤、師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」(2013年)によれば、その定義は以下だ。

「広義では、人種、民族、国籍、性などの属性を有するマイノリティの集団もしくは個人に対し、その属性を理由とする差別的表現であり、その中核にある本質的な部分は、マイノリティに対する『差別、敵意又は暴力の扇動』『差別のあらゆる煽動』であり、表現による暴力、攻撃、迫害である。…悪質なものは刑事規制、悪質といえないものは民事規制、そこまで至らないものは、法規制以外での抑制が要請されており、すべてが犯罪とされるわけではない」

特定の人種や民族への憎悪をあおる「ヘイトスピーチ」に対し、2016年6月に「ヘイトスピーチ解消法」(正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」)が施行された。その際に法務省が同法の基本的な解釈をまとめ、同法で許されないとした「不当な差別的言動」の事例を自治体に提示している。以下の法務省が作成した「典型的なヘイトスピーチ」の具体例を参照するとその言動(憎悪表現)がどういったものか、より明確に理解できる。

脅迫的言動「××人は殺せ」「××人を海へ投げ入れろ」。著しく侮蔑する言動「特定の国・地域の出身者について『ゴキブリ』などの昆虫、動物に例える」。このほか、隠語や略語が用いられたり、一部を伏せ字にしたりするケースもある。地域社会から排除することを扇動する言動「××人はこの町から出て行け」「××人は祖国へ帰れ」「××人は強制送還すべきだ」。さらに「××人は日本を敵視しているから」のように、差別的な主張の根拠を示す文言があったとしても、排斥の意図が明確であればヘイトスピーチに該当すると明示した。

岩波新書の師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」は、これらヘイトスピーチの定義以外にも、ヘイトの社会問題の実態や司法の場で出された裁判判決の事例ら、さらにヘイトスピーチに対するより根源的で包括的な法規制の必要を説いている。ヘイトスピーチに対する法的規制の是非に関しては、日本政府が批准した人種差別撤廃条約(1995年)らとの整合性と徹底性から、ヘイトスピーチ全般を人種差別唱道の犯罪として禁止し、法律で厳しく取り締まっていくべきとする積極論の立場と、過度の法規制は個人の言論の自由を萎縮させ、時に日本国憲法の下における「集会、結社及び表現の自由その他の権利」の保障に抵触する、ないしはヘイトスピーチ認定が時の政府や特定組織の意向を反映して、「ヘイトスピーチ取り締り」や「人権保護」を名目に法的な思想言論の検閲につながることへの危惧から、ヘイトスピーチの法的規制と処罰についての慎重論の立場とがある。

岩波新書「ヘイト・スピーチとは何か」は一読して正直、面白い新書とは言いがたい。ただ著者の名誉のために早急に付け加えておくと、著者の書き方が悪いわけでは決してなく、現代の深刻な差別の社会的問題である、そもそもの「ヘイト・スピーチとは何か」の議論自体が憂鬱(ゆううつ)で面白くないのだ。ヘイトスピーチに関しては誰が書籍を執筆しても面白いものにはならないだろうと私は思う。とはいえ、私も現代社会の一員としてヘイトスピーチの問題に全くの無関心を貫いたり、何ら見解がないわけでもない。前述のヘイトスピーチへの法規制の是非をめぐる「法的規制か表現の自由か」の問題には深い関心を持つし、自分なりの考えもある。だが長くなるので、ここではヘイトスピーチ全般やその法規制をめぐる私の立場や考えは詳しく書かないのだが。

それにしても今日、侮辱と排除の言葉をマイノリティ(少数者)に向けて撒(ま)き散らす差別言動たるヘイトスピーチそのものに対して、さすがに全面肯定したり、匿名の隠れ蓑(みの)を使うことなく堂々と積極盛んにやっている人や集団は滅多にいないだろうと考えていたら、そうした人物や団体が現在の日本社会に実に多くいるのだから実にこれが驚く。近隣東アジアの民族や在日外国人に対する聞くに耐えない憎悪と侮蔑と差別と排除のヘイト、排斥運動のデモや集会や街宣活動、ソーシャルメディアを介しての個人の発信つぶやきだとか、ネット配信動画やテレビ・ラジオ出演のタレント芸能人と評論家と政治家の発言。特に個人ブログのまとめ、ネット上の記事、新聞・雑誌・書籍の活字媒体では、そうした近隣アジア諸国と在日外国人へ向けてのヘイトの勢いは凄まじく、街の書店に行けば多くの「反日」認定ヘイト本が公然と出され多数売れている。こうした昨今の日本社会の現状を見るにつけ、なおのこと「やはり、そもそものヘイトスピーチに関する議論自体が憂鬱で面白くない」の不快で絶望な感慨を私は強くする。

最後に、ヘイトを正当化する誤った主張やヘイトスピーチを無理筋に拡大解釈して悪用しようとする暴論を日常的によく耳にするので、それらに対するいくつかの私の意見・反論をまとめておく。

(1)「いかなる理由があってもヘイトスピーチは正当合理化されない」。ヘイトスピーチの問題本質は定義からして、人種、民族、国籍、性の属性から特定のマイノリティ(少数者)に対する「差別、敵意又は暴力の扇動と迫害」であるのだから、その本体言動にどのような「正当」らしい理由の文言を付けようとも、ヘイトスピーチそのものは決して正当合理化されないし、絶対に許されるものではない。

例えば、ヘイトスピーチの典型で中国や韓国の近隣アジアの人々や在日外国人に対する憎悪・差別の言動があり、それを正当合理化する際、「中国人と韓国人は国をあげて日本人を敵視している反日民族なので、こちらも応戦しヘイトで返してもよい」というようなことには絶対にならない。ヘイトスピーチに差別的な主張の根拠や、もっともらしい「正当」を示す文言があったとしても、侮蔑・排斥の意図と作用があれば、それはヘイトであり問題となる。

(2)「ヘイトスピーチに言辞の正誤性は関係ない」。明らかなヘイト言説なのに、「風説の流布」(虚偽の情報ないしは合理的根拠のない情報の拡散)に当たらないので違法性はないし、何ら法的に罰せられるいわれはない、虚偽の嘘は言っていない、ただ客観的事実を冷静に述べているだけと開き直る人が時にいるが、ヘイトスピーチに言説の正誤性は関係ない。公人ではない、私的個人やマイノリティ集団に関する正確な客観事実であっても、当人(たち)への侮蔑や差別や社会的排除の不当な認識・扱いにつながるような情報(容姿、出自、経歴、犯罪履歴など)を、あらかじめの悪意ないしは思慮なしの無分別で取り上げ強調し拡散するのは、侮辱と排除の言葉を撒(ま)き散らす差別言動たるヘイトスピーチに当たる。

これはイジメにおける誹謗・中傷の問題でも同様だ。たとえ正確で客観的な事実であったとしても、当人が嫌がることや屈辱に感じて傷つくことや個人の名誉を損なうようなことを、あえてわざと言うのは誹謗・中傷のイジメである。「決して誹謗や中傷のイジメではない。嘘は言っていない。ただ単に客観事実を述べただけ」のようなイジメ加害者の開き直りの言い逃れは社会的に通用しない。

(3)「公人や公権力やマジョリティ(多数派)組織に対し、なされる抗議や批判的言動はヘイトスピーチに該当しない」。例えば、首相や時の内閣と与党、天皇個人や皇室や国家(公権力)や会社首脳や組合執行部は、権力(物理的強制力)を有する公的なものであるから、それらに向けての政治的・社会的責任追及の批判的言辞や、彼らの非人道的言動に対する人道見地からの抗議はヘイトに当たらない。

日本人で日本の政府や国家や総理や天皇に批判的発言をなすと「日本国に対するヘイト」とか「内閣総理大臣や天皇個人へのヘイト」などと騒ぎ立てる人がいるが、そもそもの「ヘイトスピーチ」の定義は人種、民族、国籍、性の属性を有するマイノリティ(少数者)の集団もしくは個人に対する差別的表現であって、問題の本質は、マイノリティに対する「差別、敵意又は暴力の扇動」「表現による暴力、攻撃、迫害、排除」であるのだから、社会権力を持つ公人や公権力やマジョリティ(多数派)組織に対して、なされる抗議や批判的言動はヘイトスピーチに該当しない。

もし仮に、日本人であるのに日本の政府や国家や総理や天皇に批判的発言をなすと「日本国に対するヘイト」とか「首相や天皇個人へのヘイト」とヘイト認定されてしまえば、公人や公権力たる時の政権や国家や天皇に対する批判的言動は封じ込まれ、それら言説を発しただけで、かつて治安維持法や不敬罪にて逮捕拘禁され処罰されていたような戦前日本への回帰になってしまう。また自由な政治的・社会的発言の議論の封じ込めや、あらかじめの忖度(そんたく)強要の各人の政治的・社会的発言の畏縮(いしゅく)を招く結果になる。この点でヘイトスピーチを無理筋に拡大解釈して悪用しようとする暴論こそは、ヘイトスピーチをめぐる法規制濫用の危険性とともに今日では十分に警戒され注意されなければならない。