アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(315)なだいなだ「権威と権力」

岩波新書の青、なだいなだ「権威と権力」(1974年)は昔から知って何度か読んでいる。だが、本書に対する私の評価はあまり高くない。

本新書は「権威と権力」の定義や異同の概要を述べたものであるが、著者のなだいなだが精神科医で作家であるためか、高校生のA君と著者の「私」のカウンセリングのような対話形式になっており考察の進みが遅く、読んで正直「冗長でかったるい」の思いがする。本論は、父親の権威や学校の権威や国家の権威に対する不信と反発を持つ高校生のA君の悩み(「ある高校生のいらだち」)を「私」が聞くところから話が始まり、「権威と権力」についての議論が深まっていく。

率直に言って「権威と権力」の各概要や違いなど、わざわざ新書の200ページも使って大袈裟(おおげさ)に論ずるほどのことでもない。事実、「権威と権力」の定義は哲学事典か政治学事典を参照すれば5ページ程度で十分で説明記述は終わる。しかも「権威と権力」の概要は、法律学や哲学や政治学での極めて初歩の基本の内容である。大学の法学部や文学部哲学科や政治学部に入学したばかりの新入生が入門の基本講座にて最初に学ぶような学習内容である。「権威とは何か。権力とは何か」を即座に答えられない人は、あまり感心しない。

ここで「権威と権力」のそれぞれの定義を厳密に述べるなら、

権威─社会的に事実上の優越的権力を持っている一定の制度(身分などの社会的制度を含む)、あるいは制度上の地位ないし人格などに、優越的価値性が形式的に固定されることによって、それらの営む社会的機能が社会の全般的承認を要求しうる能力を持っている場合、これらの持つ諸力を権威という。

権力─権力とは、他の人間(個人または集団)の所有権ないし論及する価値の剥奪(はくだつ)、もしくは剥奪の威嚇(いかく)を武器として、その人間の行動様式をコントロールする能力のことである。

何やら抽象的で小難しい文章であるが(笑)、物事の定義を正確に厳密に行うというのはこういうことである。より簡単に分かりやすく定義するならば、「権威とは、相手から内発的な服従を引き出す精神的威力(例えば、自発的服従心たる恐怖、畏敬、心酔、信仰など)であり、権力とは相手に対し行使する外部的な目に見えた物理的強制力(例えば、直接的に加えうる暴力、叱咤、威嚇、処罰の遂行など)」と便宜的にとりあえず理解しておけばよい。

また「権威と権力」については、両者の形成過程の相違から以下のようにも導ける。精神的威力たる権威が、それが形成され、ある個人や集団に対し威力を有するには、各人に精神的権威として信じられ得るまでの、ある程度の時間を要する。それは、その権威を支える集団の当該メンバーにて閉じて共有されている「慣習」や「伝統」であるといってもよい。昔から共同体に君臨している一族や個人は、君臨の時間経過の既成事実から権威を醸成する。また個人が、ある特定の個人や制度や組織に対し権威を感じるのは、その特定個人や制度や組織がすでに物理的強制力の権力を有しており、その権力下にて保護・利益を受けて安心や信頼の感情が生まれ定着したり、その権力に服従しなければ後々に加えられる暴力、叱咤、威嚇、処罰の遂行の権力行使の抑圧の不都合を各人が事前に察知し、あらかじめ時間的に先回りして先制予測するからである。後に自身にもたらされる物理的権力由来の利益と不利益とを勘案し、それへの享受と回避を伴って個人や集団の間に精神的威力である権威は時間の中で醸成される。

こうした権威に対して、権力は特定の関係や場所にて即物的に行使される。権力には権威とは違って、それを形成するための時間的積み重ねによる信頼や、事後の権力行使の保護下で享受できる利益や抑圧の不都合への回避から逆算して予測するような時系列概念ではない。物理的強制力である権力は、その場で即に行使され披露される無時間の空間的概念である。このことから次のようにも指摘できる。

「精神的威力たる権威は時間的であり、物理的強制力たる権力は空間的である」

ところで「権威と権力」は類似の概念であるため、時に両者の混同が戒(いまし)められ「権威と権力の違い」が強調されたり、よく二つがセットで論じられることが多い。それはなぜなのか。これには人間の支配関係の体制の確立には「権威と権力」の二つの要素が相互に必要という事情があるからだと思われる。「権威と権力」において精神的威力たる権威だけだと、物理的強制力たる権力の実務遂行力がないため、現実に運営が破綻して支配関係の体制は遠からず崩壊する。つまりは権力の実務不足のため、やがては権威も失墜してしまう。他方、物理的強制力たる権力の実務遂行力はあって実際に権力行使して支配関係の体制が即物的に成立できていても、精神的威力たる権威がなければ、権力行使の正統性根拠(「なぜ他ならぬこの人が人々へ指示を出し支配統治しているのか」の正統性への問い)欠落のために、これまた、その支配関係の体制は遠からず破綻する。つまりは権威の不足のために支配体制が維持できず、やがて権力そのものが崩壊してしまう。ゆえに、人間の支配関係の体制の確立には「権威と権力」の二つの要素が共に必要となるのであった。

こうした「権威と権力」の相補的な関係について、実際の社会上でよく指摘される事例は、日本史における天皇とその時々の為政者との関係である。日本の歴史において、昔から天皇は精神的威力を司(つかさど)る「権威」として存在し、これに対し時代の為政者は物理的強制力を発揮して政権実務を担当する「権力」として存在した。思えば、日本史において歴代の時の為政者は、平安時代の藤原氏は摂政・関白であり、鎌倉時代の源氏は征夷大将軍であり、室町時代の足利氏は太政大臣であり、織豊政権下での豊臣秀吉は関白であり、江戸時代の徳川家は征夷大将軍であり、明治時代の藩閥政府や戦前昭和の日本型ファシズムの軍部は近代天皇制国家下での内閣や元老であって、天皇の格下である臣下の官職を担(にな)い、「天皇より任命され天皇に代わって政治実務を代行している」の名目にて、その時々の政権担当者は自身の物理的強制力行使の正統性根拠を確保しているのだった。古代の藤原氏から近代の日本型ファシズムの軍部まで、実のところ彼らは精神的権威のない、ただの政治権力でしかなく、「なぜ他ならぬお前たちが人々へ指示を出し支配統治しているのか」と自身の権力行使の正統性根拠を問われたならば、「天皇より任命され天皇に代わって政治実務を代行しているから」の建前の理屈を強弁できた。ここに日本史において天皇制が古代から近代の現在まで断絶することなく、いわば「万世一系で神聖不可侵」の精神的権威を持って長く続いてきた秘密がある。権威は、現実政治にて権力の正統性根拠として機能する。天皇はその時々の物理的強制力たる「権力」に、政治支配統治の正統性根拠を与える精神的威力の源泉たる「権威」として、いつの時代でも一貫して存在していたのであった。

最後に岩波新書の青、なだいなだ「権威と権力」の最大の読み所の重要箇所を示しておこう。それは「権威とは何か。権力とは何か」を明確に定義している62ページの記述だ。本書のサブタイトルが「いうことをきかせる原理・きく原理」であり、それら言葉を用いて「権威は自発的にいうことをきかせる原理(自律的服従)、権力は無理にいうことをきかせる原理(他律的強制)」の概要で著者は本文にて「権威と権力」を定義し、まとめている。