アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(317)速水敏彦「他人を見下す若者たち」

(今回は、講談社現代新書、速水敏彦「他人を見下す若者たち」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、速水敏彦「他人を見下す若者たち」は岩波新書ではありません。)

私の感慨としてどうも最近、他人を見下す人が多いのが気になっていた。それは若い人だけでなく、私よりも歳上の相当に年配な方でも平気で他人を見下す人が多い。そのことはメディア露出する芸能人や文化人や政治家らにて特に顕著だ。なぜ彼らは、あそこまで執拗に他者を批判攻撃して人格否定したり、論争論破して撃沈させたがったり、他罰感情を加えることに執心するのか。私には不思議である。しかも、そうして執拗に他者を批判攻撃して人格否定したり、むやみに論争論破して撃沈させたがったり、他罰感情を加えることに執心する好戦的な人に限って当人が他者を批判攻撃して見下す合理的な正当的根拠が薄弱な傾向にある。

例えば歴史認識問題について、歴史の専門家ではない一般人の私すらそこそこ知っている程度の基本的な歴史事象の詳細も知らない、俗に言う「トンデモ歴史」語りの人達ほど、なぜか勝ち負けの論争論破に熱中して他者攻撃に執心したり、勝ち誇り相手を見下して他罰の優越感情に浸(ひた)りたがるのである、基礎的な歴史知識もないのに。彼らは他者を見下す際に、その蔑視の根拠に確固たる合理性がない。ただ自己優越と他者蔑視との不確かな思い込みで、しかし痛烈に他人を批判し軽蔑する。自身への客観的で正しい自己評価認識に立脚して他者や社会に処していない。ここには自己と他者ひいては社会全体との間に現実的な妥当認識の回路が架橋できず、たた自己への全能感のみで自閉し充足して、なぜか自分だけが突出して有能優秀であり結果、他者や社会全体をやたら批判攻撃し軽蔑して見下す悪循環があるように思う。

そこで、こういった現代社会の精神病理についての原因と対策を考える際に参考になるのが、速水敏彦「他人を見下す若者たち」(2006年)である。本書は、現実的で客観的な自己イメージ形成ができず、本当の自分は取り立てて有能でもないのに、なぜか自己への全能感の幻想から他人を見下し馬鹿にする現代の若者の問題を、学校長の職を経て後に大学で教育心理学の教鞭をとる著者が分析している。すなわち、「現代の若者における『他者蔑視』の傾向」「自分以外はバカの時代」「自分の非を認めず自分に甘いが、他人には厳しい現代の若者」といった具合である。

本書は「他人を見下す若者たち」となっているが、戦後生まれで成育環境がほぼ同様な昨今の年配者や高齢者も現代の若者の心性と共通の所が多々あり、ゆえに本書で指摘される「他人を見下す若者たち」の精神病理の問題は、現在の年配者や高齢者にも該当する共通の問題であるともいえる。確かに最近の年配者や高齢者も若者たち同様、やたら他人を見下したがる「自分以外はバカ」の世界に浸り切る大人が、メディア露出の芸能人や文化人や政治家らを筆頭に日常的に数多く見受けられる。

速水「他人を見下す若者たち」にての考察の肝(きも)は、何よりも「仮想的有能感」という著者による概念提示だ。

「現代人は自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ、とるに足らぬ奴らだという感覚をいつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。そのような他者軽視をすることで、彼らは自分への肯定感を獲得することが可能になる。一時的にせよ、自分に対する誇りを味わうことができる。…仮想的有能感は、他者をどう見るかという一つの他者評価を基盤にしたものである。他者の能力を低く見るほど自分の能力の自己評価を吊(つ)り上げることになる。しかし、これは自分の過去経験にはまったく左右されない思い込みの自己評価と言える」

ここでは「仮想的有能感」とは、(1)自分への誇りや肯定感を確保するために、他者を軽蔑する行動や認知を伴って瞬時に自己が感じる「自分は他人に比べてエライ、有能だ」という習慣的な感覚と、(2)自身の過去経験や現状把握に全く左右されない「ともかく自分は有能である」という、現実的ではない思い込みの仮想的な自己評価の2つの内容からなるとされる。そうして、これらに加えて若者が他者蔑視の傾向に走りやすいのは、(3)人間関係の幅がせまく対人経験が貧しく、ゆえに他者との共感や連帯に乏(とぼ)しいという問題も本書では指摘されている。

つまりは、現代の若者における他者蔑視の傾向、なぜ「他人を見下す若者たち」になってしまうのかといえば、それは若者の内で(実は若者に限らず若い人と心性同じくする昨今の年配者や高齢者にも共通することなのであるが)、現実の自己に見合っていない仮想的な有能イメージに支えられた「仮想的有能感」を各人が幅広く保持しているからだと考えられる。よって、これら「仮想的有能感」の内実やそれを背後より強力に支える以上の3つの主なものを改める適切な処置を施せば、年配者や高齢者も含めた現代の「他人を見下す若者たち」の精神病理は、原理的に完治ないしは改善の良方向へ導けるということに一応はなる。

速水敏彦「他人を見下す若者たち」での著者の指摘も踏まえ「仮想的有能感」についての、これら3つの問題点に対する、それぞれに考えうる効果的な処方箋(しょほうせん)を挙げるなら以下のようになろう。

(1)そもそもの自尊感情、さらには自己肯定感を充足させる。(2)経験に基づかない仮想的有能感から経験に基づく自尊感情へ変える回路を作る。(3)人間関係の幅を広げ、多くの対人経験を積むことで他者との共感や連帯を経験的に学ぶ。

(1)について。ここでの「自尊感情」とは、自身の過去経験(成功体験や失敗から学んだ教訓)に規定された自己評価の概念であり、この自尊感情は自分への満足感や自信を意味するものである。また「自己肯定感」とは、「自尊感情」をさらに強化したもので、能力の有無に関係なく(たとえ能力がなく優れて有能でなくても)自分を価値あるものと感じ、ありのままの自己を尊重し大切にできる肯定感情を指す。

「他人を見下す若者」の病理には、他者に対する見下しと表裏をなし、他人蔑視を経ることで相対的に自分の価値や能力に対する評価を高めようとする習慣的かつ無意識な思考操作があるのであるから、自分が無力で卑小な存在だと思われたくない恐怖を振り払う目的での、そのような愚行操作に陥らないためには、他者蔑視をしなくても無条件に保たれる自分への満足や自信である「自尊感情」を保持しておくことが必須となる。さらには「自尊感情」のより無条件的自己肯定強化である所の、たとえ自分が有能でなくとも能力の有無に関係なく、常にどういった状況下であっても自分を価値あるものと感じ揺るぎなく尊重できる「自己肯定感」の充足が、安易に他人を見下してしまう病理の改善のためには必要だ。

(2)に関して。「仮想的有能感」は、他者の能力を低く見るほど自分の能力の自己評価を吊り上げることが出来る恣意的な下方比較により自分の価値を相対的に上げる策術にて要請され、その「仮想的有能感」は「仮想」であるがゆえに自己の過去経験や現状把握に全く左右されない思い込みの自己評価であった。「他人を見下す若者たち」の記述によれば、そういった「仮想的有能感」形成の社会・文化的要因として、現代社会にて若者たちが日常的に多用する電子機器やIT技術による情報取得の速さや明快さや作業の効率性(調べてすぐ情報入手できて分かりやすく、作業が効率的にサクサク進む)によって、自身の中で万能感や有能感が日々醸成され肥大化していく弊害があるという。「ネットの中の有能感」など、現代の若者はIT機器の利用恩恵により、そもそもの自分が優れて有能であるわけではないのに、いつの間にか自分が優秀で有能であると思い込み勘違いしてしまう。

この自身への仮想的な有能感の錯覚現象は、電子機器やIT技術に依存する若者だけでなく、便利で快適な商品提供や社会サーヴィスを日常的に享受している今日の大人においても同様だ。昨今「公共の場でキレやすい大人」のトピックがある。例えば、電車が遅延しただけで駅員に暴言を吐いたり暴力を振るったりするキレやすい大人の事例、些細なことですぐにクレームを入れる社会人の大人のクレーマーの存在などだ。これら現象も、電子機器やITメディアの多用により勘違いして仮想的有能感に捕らわれてしまった現代の若者の問題と同様、あまりにも便利で快適すぎる商品提供や社会サーヴィス享受に慣れすぎ、それを当たり前に思って、そもそもの自分が優れて有能であるわけではないのに、いつの間にか商品提供されてサーヴィス享受がなされる自分が優秀で有能であると思い込み、大人が勘違いしてハマる自己への仮想的な有能感・全能感の精神病理に由来したものといえる。

そこで、各人の中で「経験に基づかない仮想的有能感から経験に基づく自尊感情へ変える回路を作る」工夫が有効である。万能便利なIT機器の日常的依存や便利で快適な社会サーヴィスの利用享受を意識的に出来る限り避け、それとは逆方向の毎日の積み重ねの継続によって、やっと後日に成果が出るような、時に苦しみや不快感情を伴う忍耐と根気の要る作業を自身に課し、そうすることで自分の中にある仮想的有能感の芽をつむ。かつ本物の成功体験を重ね、時に失敗の経験より現実的に学ぶことを通して自分への信頼である自尊感情を育てる。結果、経験に基づかない仮想的有能感から経験に基づく本物の自尊感情への回路を自己内に作ることができる。

(3)については、他人を超越的に見下しやすい人は現実の人間関係が希薄であり、それゆえ他者との共感や連帯の意識の欠如のために仮想的有能感に支配され、他人を見下し蔑視して「自分以外はバカ」の世界に浸りがちだ。そのため、他者との共感や連帯を学ぶためにも人間関係の幅と経験を広げるような社会参加の積極性が求められる。ここでいう「共感や連帯」とは、「相手の立場に立って考え相手の感情を共有できること。他人も自分と同じく大事だと認識し、共に行動すること」を指す。

実際、仮想的有能感に捕らわれている「自分以外はバカ」の人は、同居家族との不和や不登校や引きこもりなど、身近な人間関係の困難を抱えている人が多いとされる。このような場合には、仮想的有能感の弊害である「他人を見下す若者」の問題以前に、当人にとっての直近の対人問題の好転や解決をまずは図(はか)るべきだろう。