アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(320)川西政明「小説の終焉」

岩波新書の赤、川西政明「小説の終焉」(2004年)の概要はこうだ。著者の川西政明によれば、二葉亭四迷の「浮雲」(1887年)から始まった日本の近代小説にてテーマとされてきた「私」「家」「性」「神」の問題はほぼ書き尽くされ、いま小説は終焉を迎えようとしている、という。

本新書の執筆時の2004年から逆算して二葉亭四迷「浮雲」の第一篇が1887年出版であるから、日本の近代小説の歴史は約120年。そのうち「浮雲」から敗戦の1945年までの60年が前期にあたり、敗戦の日から本書執筆時の現在(2004年)までの60年が後期にあたる。そうして前期には夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、志賀直哉らの文豪がおり、自然主義、私小説、白樺派、新感覚派、耽美派、プロレタリア文学、戦争の文学があった。他方、後期には戦後派、第三の新人、安部公房、大江健三郎がおり、原爆文学、在日の文学、内向の世代、村上龍と村上春樹の文学があったとする。

要するに近代文学たる小説には、例えば「私」や「家」など変わらない機軸のようなものが従来はあったが、そういった「小説における核」が現在の2000年代では消えてなくなってしまった。こう指摘した上で「自分は筆一本で生きてきた専業の文芸批評家だから日本で小説を一番多く読んでいる一人だ」との自身への自負とともに、「あたらしい小説」出現への期待を込めて著者は次のように書き記すのであった。

「僕は小説が好きだ。日本で小説を一番多く読んでいる一人だと思う。僕は四十数年の間、毎日、小説を読んできた。筆一本の批評家だから、だれにも遠慮なく、思う存分、小説を読む時間がある。その上、『昭和文学史』(全三巻、講談社)を書くために、十七年かけて小説を読み直した。そこで僕は実感した。小説はどうやら終焉の場所まで歩いてきてしまったらしい。平成は十六年まできた。残念ながら歴史に残る、小説の風向きを変える作品は書かれなかった。過去の歴史と比べてそう言える。近代の歴史と同行し、戦い、超越する作品を生み出しつづけてきた小説の歴史はその役割をおえたらしい。小説がこのまま生き延び、持続するためには、百二十年の歴史が積み上げてきた豊饒(ほうじょう)な世界を凌駕(りょうが)するまったくあたらしい小説の世界が生み出されなければならない」

本書は全15の小論からなる。書籍名の「小説の終焉」に対応するかのように全ての小論タイトルが「××の終焉」で過剰なまでに揃(そろ)えられ過ぎている。例えば第一部の総論にて「私の終焉」「家の終焉」「性の終焉」「神の終焉」、第二部の個別の作家論では「芥川龍之介の終焉」「志賀直哉の終焉」「大江健三郎の終焉」「村上春樹の終焉」など、最後の第三部のテーマ別では「戦争の終焉」「革命の終焉」「存在の終焉」「歴史の終焉」らというように。

著者の川西政明は「歴史に残る、小説の風向きを変える作品が現在では書かれていない」「近代の歴史と同行し、戦い、過去作を超越する新しい作品を持続して生み出しつづけることが2000年代の昨今では出来ていない現状」を指して「小説の歴史はその役割をおえたらしい」と断じ、「小説の終焉」を非情なまでに宣告する。「過去作品をいつも凌駕し超え続けて、常に新しい世界観を提示するような上書き更新の新しい小説が絶えず書かれていなければ近代日本文学の小説の歴史は生命力を失い、小説の終焉になってしまう」とするような視野狭窄(しやきょうさく)な川西の書きぶりである。そのように絶えず過去の諸作を超え続ける新規な世界観提示の新たな小説の出現の記録更新の強迫観念に駆られなくても、近代日本の小説はそう簡単に「終焉」したりしない。

本書には、例えば「太宰治の終焉」をして「家からの逃亡」、「大江健三郎の終焉」をして「自己の死と再生の物語」、「存在の終焉」の小論にて埴谷雄高「死霊」(1946年)を扱ったりしているけれど、太宰にしても大江にしても埴谷にしても、彼らの各テーマである「家」や「自己の死と再生」や「存在」そのものを小説に書いて極め、後にその主題を超える小説が出てこなかったとして、太宰治や大江健三郎や埴谷雄高の小説はそのまま近代日本文学の華々しい一つの到達点の結晶として確実に後々まで長く残る。それら日本文学の遺産を同時代の読者が読んで感動し、のみならず後の時代の人々も新しく読んで再発見することで「小説の終焉」の事態には必ずしも至らず、ゆえに小説の歴史は殊更に新規な作品にとって代わられる更新の上書きなくても小説は終わることなく確実に残って続く。小説は決して「終焉」しない。

本新書のタイトル「小説の終焉」と、それに合わせた各論の「××の終焉」の記述内容について、どうも私には著者の川西政明は必要以上にムダに悲観的であり、カマトトぶって小説の現状と行く末に異常に深刻なポーズを取って見せるたがるシリアス病のような気もする(笑)。「僕は日本で小説を一番多く読んでいる一人だと思う」とか、「その上『昭和文学史』全三巻を書くために十七年の歳月をかけて小説を読み直した」という川西の訳の分からない自分に対する変な自信も端から読んで噴飯ものである。

実際に小説を読んだり、ある作品に関する文芸批評を読んだことがある私達は、これまでの生涯の通算でいくら多くの小説を読み重ねていても、17年間の長い月日をかけ「昭和文学」を精読するような、たとえ相当な長い年月を費やし、かなりの作品数の小説群を丹念に読破していようとも、小説に対する読みの感度にはあまり関係がないことを経験則にて常識的に知っている。感性や力量がもともとある読者なら数編を軽く読んだだけで短い時間内の読書であっても幅広く広範囲に、同時に深く内容も掘り下げて一気に小説を読める。味読の高度な読みは着実にできる。

ただ著者の川西政明に対し好意的に解釈するなら、「小説の終焉」を宣告する著者の妙に悲観的なシリアスめいた書きぶりは、「小説がこのまま生き延び、持続するためには、百二十年の歴史が積み上げてきた豊饒な世界を凌駕するまったくあたらしい小説の世界が生み出されなければならない」とするような、2000年代以降の現役の小説家たちに向けて発破(はっぱ)をかけ奮起を促す、「小説の終焉」を冷酷に宣告する自身をあえて憎まれ役の悪役に落とし自分を犠牲にしての著者の小説愛の裏返しの表現であると思えなくもないが。

岩波新書の赤、川西政明「小説の終焉」は、テーマ別や個別の作家論の各文にて「なるほど、こうした小説の読み方や作品解釈の仕方もあるのか」と感心させられることもあれば、「果たしてこれは本当にそうなのか!?」と疑って思わず半畳を入れたくなる記述もある。その中でも「存在の終焉」の小論は、埴谷雄高「死霊」全九章のあらすじを各章ごとに簡潔かつ的確に要約しており、読んで大変に有用である。

「二葉亭四迷の『浮雲』から始まった近代小説でテーマとされてきた『私』『家』『青春』などの問題はほぼ書き尽くされ、いま小説は終焉を迎えようとしている。百二十年の歴史が積み上げてきたその豊饒な世界を語るエッセイ。芥川龍之介、志賀直哉、太宰治、大江健三郎、村上春樹など時代を画した作家をとりあげた近代日本文学案内でもある」(表紙カバー裏解説)