アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(327)中島義道「悪について」

ドイツ哲学専攻でカントが専門の中島義道に関して、私は案外に「よい読者」であるとは思う。振り返ってみれば中島義道の著作をだいたい私は読んでいる。

ただし、この人は同時代の他のカント研究者らと読み比べてみて殊更に優れているというわけでもなく、むしろ中島義道のカント読解や解説は比較的ヒドイ部類に属するもので、それに何よりも私は中島義道その人の性格や人柄の人間性が苦手で好きになれないのである。あまり言うと何だが(笑)、正直私はこの人を尊敬も出来ないし、全くもって好きになれないのである。もし中島義道のような人が家族や親戚にいたら周りの人達は大変だろうなとは思う。仮にこの人と学校の同級であったり職場の同僚であったとしたら、私はそれとなく距離を取って無難に付き合いを回避するだろう。

中島義道は「私の嫌いな10の言葉」(2003年)にて、例えば「人間はひとりで生きてるんじゃない」というような人間の相互扶助や連帯を説く言葉を「同調圧力で偽善的」と吐き捨て全否定し、「醜い日本の私」(2006年)で自身が留学したヨーロッパの伝統都市と現代日本の都市とを暗に比較して、日本の町並みは看板や音声広告の騒音にあふれており景観が醜くてうるさいと著作にて怒りまくる。おまけに路面に立て看板張り出しの商店店主に怒鳴りこんだ際の自身の武勇伝(?)も語ったりする。確かに、私も「人間はひとりで生きてるんじゃない」云々の言葉に偽善的な違和を全く感じないわけではないし、また看板広告の貼り出しや音声呼び込みの騒音で日本の町並みは諸外国に比べ景観の見た目が汚なく騒がしくてうるさいと不快に思わないこともないけれど、だが中島義道のようにそんなことを気にしていちいち激怒したり、わざわざ文章にして本に書こうと思うことはない。だいたいこの人は、物事を相対化し、あえて看過して軽く流したりできない人なのある。

中島義道の著書を読んでいると、この人は昔から「自分はやがて死ぬし、どうせ世界はいつか滅亡する」の不安に勝手に襲われ、極度に悲観的になり自棄糞(やけくそ)になって若い時分には自宅で自殺未遂をして母親を心配させたり、他者を尊重しない、人とのつながりを絶つ妙に不遜(ふそん)な態度をとって他者や社会に対し変に恨(うら)みの怒りの攻撃的モードになぜかこれまた勝手に入り、結局は人間社会の交際の要訣として「相手に心を開かない人は、自然と相手からも心を開いて真剣に交際されない」人生の真理原則から大学の指導教授や上司から体のよいイジメの標的になり、今で言う「アカハラ」の過酷なイジメを受けて、結果「私は人間嫌い」とか「人間社会は生きづらい」など(笑)、自身の身から出たサビのような状況に見舞われ余計にヒネくれてしまう悪循環の袋小路(デッドエンドの行き場なし)に毎度この人は自分から進んで入って行っているように思う。

さて岩波新書の赤、中島義道「悪について」(2005年)は、カントが専門の中島による、カント倫理学でのタイトル通りの「悪について」の中島義道の読解と解説の新書である。

「残虐な事件が起こるたび、その〈悪〉をめぐる評論が喧(やかま)しい。しかし、〈悪〉を指弾する人々自身は、〈悪〉とはまったく無縁なのだろうか。そもそも人間にとって〈悪〉とは何であるのか。人間の欲望をとことん見据え、この問題に取り組んだのがカントだった。本書では、さまざまな文学作品、宗教書などの事例を引きつつ、カントの倫理学を〈悪〉の側面から読み解く」(表紙カバー裏解説)

解説文に「残虐な事件が起こるたび、その〈悪〉をめぐる評論が喧(やかま)しい。しかし、〈悪〉を指弾する人々自身は、〈悪〉とはまったく無縁なのだろうか」とあることから、これまでの中島義道の旧著を連続して読んでいる読者は、本書の展開内容はだいたい予測がつくのである。本新書の「はじめに」の書き出しにて、「いまや我が国では親殺しや幼児虐待や少年による傷害・殺人など、残虐な犯罪事件が起こるたび、ジャーナリズムは騒ぎ立て、教育評論家や精神病理学者や心理学者やタレントらがテレビ・新聞に登場し、我が物顔に『対策』を論ずる。私にはこの全ての現象が極めて不愉快である。彼らはあたかも自分が善の独占執行者であるかのような優越の高みの安全地帯から、一方的に悪を糾弾する。彼らは本当に悪とは無縁の存在なのか!?」の旨で、世間一般の人々の巧妙な「正義」やあからさまな偽善に噛(か)みつく相変わらず毎度の「中島義道節」全開である(笑)。

こうした「悪とは何か」の問題を、時にドストエフスキーや太宰治らの文学作品に、また自殺行為の是非や現代ヨーロッパ社会での堕胎問題の具体論を絡(から)めながら、基本は哲学者カントの倫理学文献を一貫して読み解くことで中島は人間にとっての「悪とは何か」を明らかにしていく。本書にて人間における悪の問題は「道徳的善さ」や「自己愛」や「適法的行為」ら善悪論の近くにある周辺トピックと関係づけられながら子細に考察されるが、岩波新書「悪について」での著者による最も力の入った力説の結論主張は、本書の最終章「根本悪」にての、その「根本悪」の概念に収束されていくのであった。中島義道が「悪の最たるもの」として最も嫌悪し警戒し批判し、かつそれをカント哲学のあたかも中心にあるかのように論じてカントから見出し強調したい人間の悪性の「根本悪」とは、本書記述によれば以下のようなものなのであった。

「根本悪とは卑劣極まる・血も凍るような・人間わざとは思えない極限的悪行のことではない。それは、信用を得るために人を救助するとか、けちと思われたくないから寄付するとか、他人を傷つけたくないために真実を伝えないという些細な行為のうちに巣くっている。それは、われわれが(自他の)幸福を求めようとするかぎり、必然的に陥る罠なのであり、あらゆる行為の『根っこ』なのである。カントは極悪人を糾弾しようとしたのではない。そうではないのだ。彼が骨身を砕いて考えたことは、じつはとても具体的かつ日常的なことなのだ。それは、あらゆる場面で外形的に善い行為(道徳的行為)を実現する人のほとんどが道徳的に善いわけではないということである」(「第七章・根本悪」)

「あらゆる場面で外形的に善い行為(道徳的行為)を実現する人のほとんどが道徳的に善いわけではないということである」などと何やら抽象難解な哲学的考察の「いかにもな」言い方である。人間の「悪」に関係づけ「根本悪」をより平易に中島の本意も押さえ説明すれば次のようなことだ。

「そもそも人間にとっての悪を考える場合には、このような行為が悪で、このような行為は善であるとするような客観的なカテゴリー分けの線引きはできない。悪とは何か、善とは何かをそれぞれ順別(しゅんべつ)して出来るだけ悪行為は避け、代わりに善行為を多く遂行するように努めることはナンセンスである。むしろ、人間にとっての悪とは何か、『根本悪』という概念を通して考えるとき、それは見かけの表面的な善悪行為の選択ではなく、その行為をなす人間主体の動機の内的問題なのである。例えば、周囲の人々からの信用を得るためにわざと人を救助するとか、けちと思われたくないからあえて寄付するなどは、『救助』や『寄付』の表面的な現象の実践行為は一見『善』であっても、その『善行為』による自己愛(善行為をやる自分自身に自分が満足している)や他者や社会からの尊敬と賞賛を手に入れられることの見返り打算の周到な、時に無意識下の操作でもある動機の内在面からして明確に確実に根本的な悪なのだ。しかも人間の自己愛や名誉欲や支配欲にまみれ、だかそれを隠匿(いんとく)して表面的には『思いやり』や『正義』への献身の『善』に邁進しているように見えるから余計にタチが悪い。この意味において、根本悪は見た目が分かりやすい極限的悪行よりも、より一層悪な人間の自己愛や欲望に巣くう根源的な悪、すなわち『根本悪』といえるのだ」

こうした主旨で本書の最終章にて展開される、カント倫理学を通しての中島義道の「根本悪」への激しい嫌悪と非難の結論解説は、実はそのまま先に引用紹介した本書の「はじめに」書き出しでの以下のような中島義道の常日頃からの違和感や不愉快にそのまま対応するのであった。

「いまや我が国では親殺しや幼児虐待や少年による傷害・殺人など、残虐な犯罪事件が起こるたび、ジャーナリズムは騒ぎ立て、教育評論家や精神病理学者や心理学者やタレントらがテレビ・新聞で我が物顔に『対策』を論ずるのが、私には極めて不愉快である。彼らはあたかも自分が善の独占執行者であるかのような優越の高みの安全地帯から、一方的に悪を糾弾する。彼らは本当に悪とは無縁の存在なのか!?」(「はじめに」)

察しのよい読者なら岩波新書「悪について」を一読して、すぐこの対応に気付くはずだ。ここには自分は悪とは無関係に、他者や社会の「悪」を無邪気に一方的に糾弾する、およそカントの「根本悪」という人間の自己愛や名誉欲や支配欲よりの内在的動機の面から何ら「悪について」掘り下げ深く考えようとしない、他者や社会へ向けての「悪」の摘発の糾弾がそのまま「善」行為であると思い込んで他者や社会全般での「悪」に対する批判に日々邁進する浅薄で偽善な人達に対する、中島義道の一貫した不信の激しい怒りがあるのだ。

ところで、カントは確かに中島が本新書にて解説するような「根本悪」の倫理学を「三大批判哲学」の著述仕事の後に「宗教論」の文脈で新たに展開してはいる。だが、カントの原著やその他の研究者によるカント研究を一読すれは明白だが、当のカントは、かの「根本悪」を「人間の文明社会の悪徳」として否定的に捉えはするけれども、本書での中島義道のように「世間一般の人々に巣くっている偽善を自身の不快感情とともに激しく暴き告発する」というようなヒステリックな激しい論調ではない。このことはカントその人の名誉のために、岩波新書「悪について」を手にした読者が中島義道を介してカントを誤解しないよう幾重にも念押しして確認しておきたい。

カントは「根本悪」という人間の文明社会における、いわゆる「心情の倒錯」の人間悪の問題に対しその解決を、各人内面における厳格主義(リゴリズム)の道徳律の心術と、各人の支配欲や所有欲に起因する文明社会での人間対立の不毛な問題の解決を現存国家を超えた理念的な公的世界政治とに求めた。そして、このように人間内面の道徳律と人間を外側から規制する理念的公的政治の両面から人間悪の根本問題に前向きに建設的に取り組んだ哲学者カントを中島義道のカント論は見過ごし、本書も含めいつも連続して上手く描けていない。大抵中島のカント論は失敗している。この点からして中島のカント論は毎回出来が悪く、この人は同時代の他のカント研究者らと読み比べてみて殊更に優れているというわけでもなく、むしろ中島義道のカント読解や解説は比較的ヒドイ部類に属するものである。

中島義道はカントが専門の哲学研究者ではあるが、この人はカントというよりは、どちらかといえばルソー的である。カントとは似て非なる、人間の文明社会の堕落や偽善の心的倒錯を一貫して暴いて激しく告発しはするが、そのままヒステリックな怒りの虚無に苛(さいな)まれ勝手に鬱(うつ)に入って自滅してしまうルソーのような(笑)。ルソーは若い時分からよく放浪し、行く先々で友人や支援者らといさかいを起こし勝手に傷ついて、自称「人間嫌い」の厭人病を発病し、おまけに哲学的思索にかこつけて人間の文明社会の悪徳も告発して一方的に呪う。そのくせ前向きな取り組みや何ら建設的な展望は出さない、かなり気難しくて交際しにくい周りの人達からして非常に困った人であった。まさに今日の中島義道のような(笑)。