アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(331)栗原俊雄「戦艦大和」

岩波新書の赤、栗原俊雄「戦艦大和」(2007年)は、読んで有用な良書である。というのも、戦艦大和についてほとんど知らない人でも本新書を一読するだけで短時間の内に「戦艦大和」の建造から緒戦から沈没までの一通りの概要を即につかめるからだ。しかも本書は戦時の大和だけでなく、戦艦大和に関係した人達の戦後まで、大和の生還者と大和と共に戦死した乗組員の遺族に話を聞いたり、彼らの証言を受けて戦後社会での安直な「戦艦大和ブーム」や「戦艦大和を介しての戦争美化」に警鐘を鳴らす著者の文章もある。本書の副題は「生還者たちの証言から」であった。

「真珠湾攻撃の直後に竣工し『世界最大・最強』といわれた大和。だが、この巨艦はレイテ沖海戦などを経て沖縄へ向かう途中、わずか二時間余りの戦闘で撃沈された。約三000人の乗組員の内、生還者は三00人足らず。著者は生存する二三人からその凄惨きわまる体験を取材、大和の航跡と戦争の実相、生存者や遺族の願いを伝える」(表紙カバー裏解説)

本書は全十章よりなる。ここでその目次を挙げれば、「序章・誕生、第1章・初陣、第2章・海戦、第3章・出撃、第4章・沈没、第5章・生還、第6章・責任、第7章・遺族、第8章・戦後、第9章・真相、第10章・未来」

全十章のうち、序章から第7章までが戦時の、第8章から第10章までが戦後の「戦艦大和」についての記述ということになろうか。本新書には幾つかの読み所の山場がある。近年の戦艦大和をめぐる議論に引き付け、私には「第9章・真相」が特に興味深かかった。

ところで戦艦大和に関する研究報告や証言記録や文学作品は現在まで数多くあるけれども、その中でも絶対に外せないものに吉田満「戦艦大和ノ最期」(1952年)がある。戦艦大和を語る者にとって、本作に対し肯定的であれ否定的であれ、いずれにしても「吉田の『戦艦大和ノ最期』を知らなかったり、読んでいない者は確実にモグリ」とされるほどの大和に関しては昔から定番で有名な書籍である。事実、岩波新書「戦艦大和」でも吉田満「戦艦大和ノ最期」への言及や吉田「戦艦大和ノ最期」からの引用はとても多い。「戦艦大和ノ最期」を執筆した吉田満は、実際に大和に乗艦した人で、本作は自らが体験した「天一号作戦」(坊ノ岬沖海戦)での戦艦大和の沈没を綴(つづ)った記録小説である。カタカナ混じりの文語文で非常に硬質に重厚に書かれてある。吉田満は撃沈された大和に乗艦して、しかし生き残って還(かえ)った数少ない生還者の内の一人であった。そのため戦艦大和が敵襲被弾を受けて沈没に至るその最期の瞬間までの艦内の様子、亡くなっていった多くの同僚下士官と上官ら乗組員の行動や発言や表情を主に、まさに「戦艦大和ノ最期」を非常に事細かに記している。

「戦艦大和ノ最期」は、戦艦大和沈没までの出来事を著者・吉田満の眼を通してリアルに記述した記録文学であるが、発表当初から記述の内容や描写に対する間違え指摘と真偽をめぐる疑問の意見が多くあった。その中でも近年再燃したものに、いわゆる「手首斬り」論争というのものがある。その概要が岩波新書「戦艦大和」の「第9章・真相」に書かれている。戦艦大和沈没の折り、駆逐艦初霜が出した救助艇に漂流者が多数しがみついた際に転覆を恐れた艇の責任者らが日本刀で彼らの手首を次々と斬り、あるいは足で蹴って海に叩き落としたという。戦場での帝国海軍の味方への非情と混乱を描いた吉田満による迫真の描写である。「船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク…ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、…敢へナクノケゾツテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼(まぶた)ヨリ終生消エ難カラン」といった具合である。

ところが、この吉田「戦艦大和ノ最期」での「手首斬り」描写に対し「事実無根」の指摘と批判の手記が寄せられた。より詳細には、2005年に朝日新聞が大和沈没の60年目にあたる日に「天声人語」のコラムの中で吉田「戦艦大和ノ最期」の「手首斬り」の記述について、戦場の修羅場における大和の戦没乗組員への追悼の意を表し、また日本軍隊の非情を指摘して日本の軍国主義を批判する文脈にて触れ、その朝日新聞の記事に対して後日、産経新聞が「手首斬りは事実無根」の反論批判記事を朝刊一面に出したのである。さらに「文藝春秋」に当時救助艇の指揮者であった人物による、これまた「手首斬りの事実は断じてなかった」とする証言手記が後に掲載された。問題の「手首斬り」描写について実は「事実と違う。訂正すべきだ」と生前から問い詰められていた吉田は、「私は『戦艦大和ノ最期』がノンフィクションだと言ったことはない」「次の出版機会にあの部分を削除するかどうか決断する」旨の回答をしたが、吉田満は「手首斬り」の描写を削除しないまま早くに亡くなっている。

「戦艦大和ノ最期」にての、この「手首斬り」論争に私が大変に興味を惹(ひ)かれるのは、比較的近年の2005年の大和沈没から60年目の節目に際し、先の日本の戦争批判と軍国主義の日本の軍隊批判をやり、反戦平和を志向する左派リベラルの朝日新聞が、吉田「戦艦大和ノ最期」の「手首斬り」描写を修羅場の戦闘シーンでの日本の軍隊の過酷さ、非人道性の象徴事例として批判的に取り上げ、それに対し、先の大戦での日本の国家の戦争責任をどこまでも低く見積もりたい、ないしは全く無かったことにして、むしろ日本の軍隊を賞賛し日本人の誇りと名誉を守りたい愛国右派の産経新聞が、「戦艦大和ノ最期」にての「手首斬り」描写を「事実無根である」と即座に反応して打ち消そうとする、二つの全く対照的な立場からの戦艦大和をめぐっての歴史の語られ方である。

例の「手首斬り」の記述については、その真偽の判定の決着はすでについていた。当時、大和の救出に向かった存命関係者の多くから「そんな話は聞いたことがない。当時の軍規からして救出艇に士官が軍刀を持ち込むことなどありえない」の記憶証言が出ている。しかも「手首斬り」の描写は日本の軍記物にてよくあり、「平家物語」を始めとして昔から繰り返し何度も用いられる物語にての定番記述であるという。吉田「戦艦大和ノ最期」での「手首斬り」の記述は史実ではない。おそらくフィクションである。だが、それが事実であるか否かの記述の真偽は、それほど本質的な問題ではないのだ。

吉田満「戦艦大和ノ最期」を私が読む限り、本作品が非常に優れている証左の読み所は、著者の吉田満が戦艦大和に対し、大和と共に戦死した乗組員同志らの名誉を守る気持ちや彼らに対する鎮魂の思いや自分だけ生還し生き残ってしまった負い目の後ろめたさと、現実的に何ら勝算のない、実質は死にに行くためだけの「海上特攻出撃」を無責任に上から命じ、乗艦の青年士官たちに「自分らは一体何のために死ぬのか」と苦悩させ、多くの乗組員を実際に無駄に死に至らしめた当時の日本国家の戦争指導者と海軍軍令部と現場の上官らに対する痛烈な恨(うら)みや批判意識の両端の激しい感情を吉田自身が暗に抱いていたことが読み取れる点である。必ずしも直接に明示的に書かれてはいないけれども、吉田満「戦艦大和ノ最期」には各箇所ならびに本書に一貫して、そうした「戦艦大和に対する愛憎の両端が入り交じる吉田満の複雑な思い」が流れ、あふれている。「戦艦大和ノ最期」に真摯(しんし)に向き合い無心に読む者には、吉田の戦艦大和への複雑な愛憎は確かに読み取れる。

私は昔「戦艦大和ノ最期」を初読の際、吉田満の経歴を知って驚いた。吉田は戦艦大和に関する書籍を書くほどの人だから、この人は自ら志願の根っからの職業軍人であり現場での戦闘経験を豊富に積んだ海軍で叩き上げのベテランの人かと思いきや、吉田満はもとは東京帝国大学法学部の学生で、学徒出陣により強制的に戦地に動員された、いよいよ追い詰められた日本の敗戦濃厚時にての大和乗艦時には入隊してわずか三年足らず、言い方は悪いが「急きょに配置された、にわか造りの即席海兵隊員」であった。吉田満は帝国大学法学部出のインテリであり、そのため学徒出陣で強制的に戦時動員される不条理や、当時の日本の国家と軍隊組織に対する冷静で醒(さ)めた批判の意識も兼ね備えていた。吉田は敗戦後、周囲の勧めで「戦艦大和ノ最期」の執筆に当たったということだが、構想も文章もほほ頭の中で出来上がっていて初稿をわずか一日足らずで書き上げたという。非常に聡明で優秀な人であった。

そして、そうした吉田満の愛憎両端が入り交じる戦艦大和に対する複雑な感情は、戦後にても戦艦大和をめぐっての歴史の語られ方にそのまま、しかし両極に引き裂かれ分裂した異常にいびつな形で引き継がれて語られ続けた。すなわち、「実質は死にに行くためだけの『海上特攻出撃』を無責任に上から命じ、多くの乗組員を実際に無駄に死に至らしめた当時の日本国家の戦争指導者と海軍軍令部と現場の上官らに対する痛烈な恨みと批判の意識の一端」だけが、軍国主義の日本の軍隊批判をやり、戦後に反戦平和を志向する朝日新聞を始めとして、左派リベラルな戦後の知識人や戦艦大和の一部の戦没者遺族らにより担(にな)われた。彼らには、何ら勝算のない実質は無駄な「海上特攻出撃」を上からの命令で無責任に強いられ結果、撃沈された戦艦大和と戦死した多くの大和の乗組員たちであったにもかかわらず、過度に感傷的かつ浪漫的に「御国のために亡くなっていった尊い犠牲、名誉の戦死」の文脈にて戦艦大和を顕彰(えいしょう)し褒(ほ)め称(たた)え、戦後においても未だに大和とその戦没者たちを、先の戦争遂行の日本国の正当化や戦争美化に最大限に利用し尽くそうとする愛国論壇の右派や反動保守主義者らに対する強い批判と根強い不信の警戒の意識があったのだ。

他方で、「戦艦大和と共に戦死した乗組員たちの名誉を守り抜く気持ちからの戦没兵士への鎮魂の思い」は、先の大戦での日本の国家の戦争責任をどこまでも低く見積もりたい、ないしは全く無かったことにして、むしろ日本の軍隊を賞賛し日本人の誇りと名誉を守りたい愛国右派の産経新聞を始めとする、右寄りな政治立場の戦後日本の愛国保守論壇や戦後日本の多くの戦没兵士の遺族団体により、これまた極端なまでに片務的に支えられていた。彼らにとって、戦艦大和の「海上特攻出撃」そのものへの批判や、戦艦大和と共に戦死した多くの乗組員たちを「何ら勝算のない、実質は無駄な死であった」と断じて、戦後に日本の軍国主義批判の文脈にて論じ扱うことは、戦艦大和とその戦没兵士らの名誉を損なう全否定の屈辱と感情的に強く思えたからだ。またそこには、たとえ無意識であれ、撃沈された戦艦大和と戦死した多くの大和の乗組員たちに、過度に感傷的かつ浪漫的な「御国のために亡くなっていった尊い犠牲、名誉の戦死」の感謝の哀悼の意を捧げ顕彰の褒め称えをやり続けることを通して、戦後においても戦艦大和とその戦没者とを先の大戦での戦争遂行の日本国の正当化と戦争美化に暗に利用し尽くそうとする、愛国右派論壇や反動保守論者らの思惑も少なからずあった。

だからこそ、戦後に左派リベラルで反戦平和を志向する朝日新聞が、自紙コラム「天声人語」の中で吉田満「戦艦大和ノ最期」での「手首斬り」描写に触れて大和の戦没兵士らへの追悼の意と、かつての日本の軍国主義の軍隊批判を数行やっただけで、愛国保守の立場の産経新聞は後日、朝刊の一面にて「戦艦大和救出の際の手首斬りは事実無根で、朝日のデマ」の毎度の朝日新聞攻撃を大々的にやってしまう。こうした愛国右翼新聞の産経新聞による脊椎(せきずい)反射的な即の朝日新聞への反論攻撃は私からみて異常に思えるほどだが、戦艦大和の歴史を介して左派陣営から日本の軍隊批判をやられただけで、「大和とその戦死者らに対する名誉毀損の侮辱」と反射的に捉え即座に反論せずにはいられない産経新聞ならびにその周辺の愛国右派の人達は、とにかく必死なのである(笑)。

岩波新書「戦艦大和」を含め、大和関連書籍を読むたびに、戦艦大和はその建艦計画の初めから実戦の緒戦を経て最期の沈没に至るまで、いつの時でも一貫して時局にそぐわない「悲劇の艦」であったの思いを私は強くする。

大日本帝国海軍が建造した戦艦大和は、2番艦の武蔵とともに史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した超弩級戦艦であった。やがて大和は長門の後をうけ、司令長官が乗る連合艦隊旗艦となった。文字通り、帝国海軍の連合艦隊を象徴する旗艦(フラッグシップ)に大和はなった。ところが、皮肉にも大和のような大型艦が活躍して海戦の勝敗を決する「大艦巨砲主義」の時代はとうに過ぎ去っていた。かつての日露戦争の時代ならいざ知らず、第二次世界大戦のアジア戦線、対アメリカの太平洋戦争時には、大型軍艦を主力とした海戦の時代はとうに過ぎて、今や制空権をかけた機動力のある航空機(戦闘機や爆撃機ら)による空中戦の時代であったのだ。「戦艦無用論、航空万能論」が当時の海軍内部で公然とささやかれていた。

そうして戦艦大和は、1945年4月に沖縄へ向かう途中の鹿児島の坊ノ岬沖海域でアメリカ空軍機の集中的な波状攻撃と海中からの幾多の魚雷攻撃を受け撃沈され、海の底深くに沈んでいった。前年の1944年11月からアメリカ軍機による本土空襲は始まっており、日本近海と日本列島上空の制空権を完全に米軍に掌握された中で沖縄出撃した大型戦艦の大和は、「どうぞ狙って爆撃して下さい」と言わんばかりの敵機から撃沈されるのを自ら待つ、もはや洋上に無力に漂う格好の標的でしかなかった。この最後の大和の出撃をして「無謀な沖縄水上特攻」とか、「現実的に何ら勝算のない、実質は死にに行くためだけの『海上特攻出撃』を無責任に上から命じ、多くの乗組員を実際に無駄に死に至らしめた当時の日本国家の戦争指導者と海軍軍令部と現場の上官」などと記すと、いまだ感情的に激怒し反論否定する戦艦大和のファンや愛国右派の人々が少なからずいるが、戦艦大和の最後の出撃は、やはり「何ら勝算のない無謀な特攻出撃」でしかなかった。

例えば以下は、大和の沖縄水上作戦を強硬に主張し、不幸にもその作戦が採用された、連合艦隊参謀だった神重徳の当時の発言である。

「沖縄のあの浅瀬に大和がノシ上げて一八吋(インチ)砲を一発でも射ってごらんなさい。日本軍の士気は上がり、米国軍の士気は落ちる。どうしてもやらなくてはいかん。もしこれをやらないで、大和がどこかの軍港で繋留(けいりゅう)されたまま野たれ死にしたら─。非常な税金を使って、世界無敵の戦艦、大和、武蔵を作った。無敵だ無敵だと宣伝した。それをなんだ、無用の長物だと言われるぞ。そうしたら今後の日本は成り立たないじゃあないですか」

大和を出撃させることなく温存して、そのまま敗戦を迎えれば「世界無敵の戦艦大和」と散々に宣伝してきた日本帝国海軍の面目が立たなくなる。戦艦大和も「無用の長物」の汚名を後々まで着せられることになる。だからこそ戦艦大和の死に場所を探さなければならない、の論理が何よりも最初にあって、その主張を補強し無理やり合理化するために「大和が沖縄近海に現れて主砲を一発でも射てば、たちまち味方の日本軍の士気は上がり、逆に敵のアメリカ軍の士気は落ちる」とさえ言い張る。全く非合理で現実根拠のない精神主義の無茶な根性論である。しかも特攻出撃の戦艦大和には多くの人間が搭乗していた。約3000人いた大和の乗組員の内、生還者は300人足らず、わずか1割程の異常に低い生還率であった。こうした日本の敗戦間近、戦時の帝国海軍軍令部、連合艦隊参謀であった神重徳による戦艦大和沖縄出撃の上申に当たっての、人命軽視で軍の面目を守ることだけに終始した、もはや破れかぶれの無茶苦茶な暴論である。当時の海軍で「神さん、神がかり」と内々に揶揄(やゆ)されていた連合艦隊参謀・神重徳の気が触れたような「神がかり」発言である。

さて、岩波新書の栗原俊雄「戦艦大和」は、先に述べた吉田満「戦艦大和ノ最期」にての「大和と共に戦没した同志への鎮魂」と「日本の軍国主義と軍隊組織に対する痛烈批判」の愛憎両端が入り交じる複雑な感情に対応した戦艦大和をめぐる歴史の語られ方を終始同時に押さえ、しかも戦艦大和をして「日本を守るために散って行った兵士の象徴」とか「大和は日本民族の誇り」と安直に賞賛するような、特に前者から派生する戦艦大和を介しての戦争遂行の当時の日本国の正当化や安易な戦争美化に十分過ぎる程の警戒を示した上で、「戦艦大和こそは見る者の歴然観を如実に映す鏡である」とする、以下に引用するような著者による抑制の効いた本新書の結語が非常に優れている。岩波新書の赤、栗原俊雄「戦艦大和」は数多くある歴代の大和関連書籍の中でも、なかなかの出来の読んで誠に有用な優れた良書である。

「未来の人々は大和をどうとらえるだろうか。最新の科学技術を結集した『世界最大・最強』としての側面に注目し、また守るべきもののために散って行った兵士の象徴として、『民族の誇り』ととらえることは可能だ。一方で膨大な国費を注ぎ込んで建造しながら、成功の見込みがほとんどない作戦に投じられた大和を、軍事力増強に国力を傾けて勝算のない戦争に突き進んだ時代の象徴としてとらえることもできる。大和は、見る者の歴史観を映す鏡である」(「第10章・未来」)