アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(334)田川建三「イエスという男」

(今回は、田川建三「イエスという男」その他についての文章を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に載せます。念のため、田川建三の著作は岩波新書には入っていません。)

私は洗礼を受けたり定期的に教会に通ったりするようなキリスト者ではないのだが、昔から聖書は繰り返しよく読んでいた。また宗教哲学者の波多野精一が好きで、波多野の「基督教の起源」(1908年)や「原始キリスト教」(1933年)や「時と永遠」(1943年)を愛読していた。そして波多野精一、あの人は異邦人伝道をやって初期キリスト教団の教義を確立させた「護教的な」パウロがたいそう好きだから(笑)、私も昔はパウロが好きだったのである。ところが不幸にも(?)、人生の割かし早い若い時期に書籍を介して出会ってしまったのだ、マルクス主義かぶれの「赤い新約聖書学者」、もとい日本の新約聖書学の「黒い最終秘密兵器」たる田川建三に(爆笑)。

そういったわけで、今回は新約聖書学者の田川建三の是非とも読まれるべき主要著作についての推薦文付きリスト提示の体裁でやってみたい。以下、私が選択する田川に関する3編の推薦図書リストである。

(1)「イエスという男」(1980年)

田川建三の数ある著作の中であえて一冊だけ、氏の代表作を挙げるとすれば、「イエスという男」になると思う。田川を知らない人にも実際に手に取り最初に読むならば「イエスという男」を私は強く推薦する。田川の新約聖書・福音書の読みのエッセンスが「イエスという男」には他著と比べ集約され、密度濃く論述されている。

私は大学時代、10代後半の割と早い時期から田川建三を知って彼の書籍を読んでいたので例えば福音書での、いわゆる「納税問答」の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」の本来的な意味を、これは「政治と宗教の分離」の主張たる、俗にいう「政教分離」の教えではなくて、当時の人民に過酷に課せられた帝国の税金と教団の神殿税による経済的疎外、ローマ帝国とユダヤ教の政教両方の世俗権力に対するイエスによる相当な皮肉を込めた仮借のない批判であることは知っていた。ところが、大学のゼミで政治学での「政教分離の原則」の話題になった際に、指導教授が「そういえばキリスト教で『カイザル(皇帝)のものはカイザルに、神のものは神に』の政教分離の教えが昔からあって…」の発言を聞いたとき、私は思わず自分の耳を疑って大変に驚いたことを今でも昨日のことのように、はっきりと非常に懐かしく思い出す。現在でも多くのだいたいの日本人は新約聖書の福音書を精密に読んだことがなく、いい加減な俗説をそれとなく信じて何となく聖書を分かったつもりになっている。その意味で、田川建三「イエスという男」はキリスト教再入門の格好な聖書学び直しの良書といえるのではないか。

思えば、イエスはユダヤ教の律法学者やパリサイ派の人達から揚げ足取りを狙ったつまらない難癖や変な問答のチョッカイを行く先々で出され、その際のイエスの言動が彼らの反感と殺意を買ってローマ帝国とユダヤ教団の政教両方の世俗権力から「新興」宗教家の「異端」の危険人物と目され、遂にイエスは処刑されてしまうわけだが、いまだ民族宗教の枠内にとどまるユダヤ教の世俗的宗教権力の教団繁栄や派閥内でのセクト争いにて自分たちの優越性保持に終始する彼らユダヤ教祭司や律法学者に対し、イエスはたとえ自身が無意識であれ、政治権力にイデオロギー的に奉仕することで隆盛を極める既成宗教の民族宗教性を相対化して批判するような世界宗教的立場にすでにあるがゆえに、当然の如くイエスは彼ら神殿権力を軽々と批判できた。しかも世俗の政治権力や既成教団と同じ次元に自らを置かず決して相手とは同じ次元には立たずに、一段高い自身の次元のその異なる立ち位置から高踏的・反語的な発言や振る舞いにて間接的に、しかし痛烈な批判をイエスはローマ帝国役人やユダヤ教祭司や律法学者やパリサイ派の人々に存分になすことができたのであった。

田川の新約の福音書解説は、そういった「世界宗教の立場にあるがゆえに世俗の政治権力や民族宗教的既成教団と同じ次元に自らを決して置かず、彼らとは異なる一段高い次元からあえて高踏的・反語的・間接的になす言外の意や絶妙なニュアンスを含む」イエスの激しい「宗教批判」の言動を読み解き説明できているところが非常に優れている。

かつ貨幣経済が浸透し人々の貧富の格差が激しく、多くの人が収奪され抑圧・疎外されるローマ帝国覇権下の古代の地中海世界において、後の空想的社会主義者やマルクス主義者らがキリスト教の聖書を読み、または聖書の直接的影響はなくてもヨーロッパ人のキリスト教的素養から生来的に後の時代の彼らが感得していたであろうところの、貨幣経済の矛盾に伴うイエスの中での「富(者)に対する直感的な反発」も田川は読み取り押さえて聖書解説できている。例えば「山上の垂訓」にての「ああ幸いだ、貧しい者たち」のイエスの言葉をして、田川は激しく反論する。「飢える者、泣く者である、現実に貧しい者は本当に幸いか?貧しい者は実際に幸福ではあり得ないではないか(怒)。ここにイエスの静かな怒りと反語による逆説的反抗がある」旨の田川による解説である。何となれば田川においてイエスの生涯は「逆説的反抗者の生と死」であったのだ。


(2)「神を信じないクリスチャン」(「はじめて読む聖書」2014年に所収)

田川建三「神を信じないクリスチャン」は田川へのロングインタビューである。田川が大学進学から海外留学と研究指導にてヨーロッパとアフリカと日本を経てまた海外に行き、その後、再び日本に帰国して今日に至るまでの氏の経歴をインタビューに答える形で本人が語っている。一読して、まさに「放浪のラディカリスト」ともいうべき田川建三の経歴である。氏のこの語りを読んでその内容を知った上で改めて「イエスという男」他の田川の著作を読み直すと氏のキリスト教解説がより深く理解でき、何かしら会得できるものがあるのではないだろうか。この田川建三の自身の経歴に関する長い語りには幾つかの読み所がある。

例えば、大学在籍時に指導教授(前田護郎!)の元へ進路相談に行ったら「彼はわざとらしく席を立って窓際から外を眺め、『君、何しに来た?』と私を見ようともせず、全く取り合ってくれない」。ないしは大学院在籍中のドイツ政府の留学試験に際して語学のドイツ語試験では優秀成績を修めているのに、なぜか毎年自分は補欠の最上位止まりで念願のドイツ留学がかなわない。そのくせ自分よりも明らかに学力が劣る同期生や後輩らが次々にドイツ留学を果たしていく。田川だけドイツ留学させてもらえない。それでドイツ大使館に事情を聞きに行ったら、大使館の文化担当者から「あなたが合格した人たちよりもドイツ語ができることは知っています。しかし日本人の先生がお決めになることは私にはわかりません」と言われる。それで田川は「ああ、これじゃ私は一生ドイツに留学できないな」と悟り、結局は別の恩師の世話になってフランス留学を果たす。

これなどは今読んでも田川には何ら非のない極めて理不尽な、昨今で言うところの明らかな「アカハラ」に該当の事案であって、今ならしかるべき所に救済申請を立てれば確実に通る案件であると思う。何よりも田川本人が気の毒である。

またフランス留学を経てヨーロッパと日本の大学で教えた後、今度はアフリカのザイール(現コンゴ)の国立大学の神学部で二年間教える。そこで大学の敷地内宿舎に現地のアンゴラ難民が行商で野菜を毎日売りに来る。ある行商の男と田川は仲良くなる。彼の兄も野菜の行商をやっていて、田川と顔見知りで兄も知っていた。だが行商人の兄は結核になり、しかし貧しくて治療の金がないから子どもを四、五人残して亡くなった。そのため兄の子どもも引き取って弟の彼が野菜の行商をやって経済的に苦しいなか大家族を養っていた。そして、しばらく来ない日が続いた後、ある日、見た所ひどくやつれた感じで彼が久しぶりにやって来た。「自分も結核になった。野菜を担ぐ体力がなくなったのでもう来れない。申し訳ない」と言う。そこで田川は当時の自分の給料の半額を手渡して、「お金をあげるのは失礼だけれども、早く病気を治して、この金の分だけ私のところに野菜を届けてくれたらいい」。彼は「だったらこれは預かります」と言って名残惜しそうに帰っていった。それきりで、それが最後である。

これも「神を信じないクリスチャン」のインタビューを読んで非常に印象深く、後々まで私には心の奥深くに残る話である。このザイールで交友を温めた現地のアンゴラ難民の野菜の行商人はダヴィドという男である。田川建三の書籍の愛読者ならザイールのダヴィドは既に知っている。本インタビューにて田川は触れていないけれどダヴィドは実は「エホバの証人(ものみの塔)」に入信しており、最後に会いに来た時もこの宗派の「聖書」を彼は持っていた。そして「おれには何がなくても信仰がある」と言った。そのことが「原始キリスト教とアフリカ」(「歴史的類比の思想」1976年に所収)に書かれてある。病気になれば治療費はなく、そのまま放置して自然回復か、さもなければ死を待つしかない、その日の食べ物や住居にも困るほどの貧困にあえいで疲弊する当時のアフリカ難民にはエホバの証人やモルモン教を信仰する者が非常に多かったのだ。

より良き現実生活への改善を放棄して、それを来世における、より良き生活への希望へ安易に置き換えたり、社会生活上の欠陥からくる困苦よりの苦しみを、その現実的原因の除去に求める代わりに運命論的諦観(ていかん・「あきらめ」の意味)や苦痛の麻痺(まひ)による精神的安静の中に求めようとする。その際に使われる観念論的彼岸意識の提供たる宗教である。まさに「宗教は阿片(アヘン)」のキリスト教の諸宗派が現実の人間社会の矛盾の隠蔽や苦痛のごまかしや来世への逃避をなす。時にキリスト教が提供する現状体制の維持ないしは現実逃避の宗教イデオロギーのデタラメさを、このとき田川は(おそらくは)改めて身をもって心底思い知らされたはずである。

「特にアフリカでの体験は、さまざまな意味で重かったのですが…」とか、「ゲッティンゲン大学(ドイツ)で教え、キンシャサの大学(ザイール)で教え、戻ってきてストラスブール大学(フランス)の客員教授となり、世界のいろんなところで生き抜いてきた。それがあって現実世界の過酷さを身をもって知り、初めて『イエスという男』が書けた」旨の本インタビューにての田川建三の語りである。


(3)「存在しない神に祈る」(「批判的主体の形成」1971年に所収)

田川建三「存在しない神に祈る」は「キリスト者にとって祈りとは何か」を論じたものである。田川は哲学者のシモーヌ・ヴェイユの言葉「神に祈る、人々から離れてひそかに祈るというだけでなく、神は存在しないと思いつつ祈る」を引きながら、キリスト者の「祈り」について以下のように述べる。

「この現実を乗り越えねばならない、しかしいつまでたってもこの現実は変わらない、どうにもしようがない、しようがないけれども、しようがないから、祈っている、という、祈りにはその空しさ、空白感が必ずついてまわる。その空しさを知りつつ祈る」

つまりはこういうことだ。人間を取り巻く現実の世界には如何(いかん)ともしがたい様々な不条理や矛盾がある。事故や天災や疫病、貧困や差別や抑圧や戦争など、もうどうにもし難い。そうした乗り越えなければならない、しかしいつまでたっても変わらない克服できない現実を前に人間は神に対する異議申立ての抗議の気持ちで静かな怒りと絶望と祈りが神に伝わらない空しさに苛(さいな)まれながら、それでも祈る。この世の不条理を前に「もはや神は存在しないのか」と思いつつ、そうした「存在しない神」に人は祈るのである。

この田川の「存在しない神に祈る」における「祈り」はキリスト者として実に見事だと言う他ない。「いつまでたっても変わらない克服しがたい現実を前に、人間は神に対する異議申立ての抗議の気持ちで静かな怒りと絶望と祈りが神に伝わらない空しさに苛まれながら、それでも祈る」の本意にてキリスト者が神に祈るとき、ただ祈ることによって自身の目の前に立ちはだかる過酷な現実問題を全て忘却し、たちまちご破算にしてしまうような、そうした宗教的祈りにまつわる、なし崩しの現状肯定のイデオロギー(虚偽意識)的陥穽(かんせい・「わな」「落とし穴」の意味)は完全に忌避され、絶えず厳しく警戒されている。また田川のこの祈りは、キリスト者における「信仰」の証明手形としての単なる形式的で儀礼的な祈りや、無心に祈る者に「心の平安」の安心をもたらすような精神的な欲望充足のための祈りとも明白に異なる。かつ神に祈ることでキリスト者が「敬虔さ」を獲得して「不信仰な」他者に対しいつの間にか自分が優越の高みに立つような、そういった祈りとも完全に違う。

むしろ、この世の不条理を前に「もはや神は存在しないのか」と思いつつ、そうした「存在しない神」に静かな怒りと絶望と祈りが神に伝わらない空しさに打ちひしがれながらも人は祈ることを通して、人間を取り巻く現実の矛盾に対し「これは何としてもどうにかせねばならない、乗り越えなければならない」とするような、生きている人間が自分の生きている現実の中で課題に立ち向かい取り組む姿勢を自らの内に呼び起こす。そのような内実の祈りである、田川建三がいう「存在しない神に祈る」という際の「祈り」は。

この「存在しない神に祈る」の論考は、田川が大学院を終了しフランス留学の後、帰国して国際基督教大学(ICU)にて助手と講師をしていた時に、礼拝説教にて学生と同僚教師の前で語った説教を元にしているという。その際の「存在しない神」という言葉が、田川によればあれは神の存在に対する不可知論であるが、なぜかキリスト教否定の「無神論」と大学側に誤解され、(2)のインタビューにて田川本人に言わせれば、「国際基督教大学をくびになりました。…大学が私をくびにした裏の理由の一つは、私がキリスト教に対してとことん批判的にものを言いつづけたからだろうと思います。こんな奴を聖書学の教師にしておくわけにはいかない、ということでしょう」。しかし表向きは、あくまで1960年代当時の全共闘運動に大学側の教員でありながら学生側に加担したということで田川は失職してしまう。この辺の大学退職を余儀なくされたとする、田川がいう国際基督教大学を不当解雇の事情は「授業拒否の前後・大学闘争と私」(「批判的主体の形成」に所収)に詳しい。

そうして続けて田川当人に語ってもらうと、「国際基督教大学をくびになったということは、当時の教会、日本のプロテスタント教会から追放されたに等しい感じがありました」。さらには「私は教会の一部の人たちにとっては教会破壊者なんです、おそらく。『田川建三の本は絶対に読むな』と、私の本を禁書にしている教会もいっぱいあります」というように、日本国内でのキリスト教関係者から田川は散々な扱われ様であった。

それから国際基督教大学を退職した後も日本のキリスト教学会ならびに教会関係者からの猛反発を受け、やがて田川は前述したようにドイツとザイールとフランスの海外に出て各国で新約聖書学を教えることになる。その後、帰国してまた大学教員と著述の仕事に専念して今日に至る。田川の文章を読んでいると国際基督教大学を退職し再度日本を出る契機となった「存在しない神に祈る」の論考のことは折に触れよく語られている。本稿は、それだけ田川本人にとっても思い入れのある小論であるに相違ない。ゆえに田川建三「存在しない神に祈る」は数ある田川の文章の中でも必読のものといえる。

最後に「田川建三さん、身体を大切にして長生きして下さい。田川さん、応援しています」(2021・4・1記)。