アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(337)松田道雄「私は二歳」

岩波新書の青、松田道雄「私は二歳」(1961年)は小児科医師で育児評論家である著者による育児百科事典的な新書だ。タイトル通り「二歳前後の子ども」の育児について、食事、しつけ、病気、ケガ、事故、いたずら、友だち遊び…の各観点から子育て中の父母の悩みに答える形で、実践的な育児アドバイスを小児科医である育児専門家の松田道雄が分かりやすく答えて解説する内容である。

本書は、各見出しに関する見開き2ページの短いコラム形式で育児アドバイスの文章が連続でいくつも続く。そのタイトルを見ただけで、おおよその育児アドバイスの内容は分かってしまうのである。そのうちの主なものを幾つか挙げてみると、

「ごはんを食べない(一)─病気ではない。ごはんを食べない(二)─強制はむだ。オモチャをこわす─成長の必要経費。しかってもいいか(一)─子どもの性分も問題。しかってもいいか(二)─時間がたってはダメ。しかってもいいか(三)─自然現象のように。夜尿(一)─たたいてもだめ。夜尿(二)─水分の制限。夜尿(三)─知能と無関係。オタフクカゼか─ホッペタははれない。わるい言葉(一)─コミュニケーションの手段。わるい言葉(二)─子どもの集団に指導を」

といった感じである。

岩波新書「私は二歳」は基本、育児百科の内容であるが、本書の出色は育児相談に答える際の著者による記述の工夫にあり、本文はすべて「私は二歳」と自称する二歳の子どもの「私」が極めて流暢(りゅうちょう)に、時に高踏不遜(ふそん)なまでに横着に語りまくる点にある。「普通に考えて二歳児の子どもがここまで言葉を獲得し、しかも冷静な対人観察や大人びた、ある種の達観した思考態度を経て闊達(かったつ)自在に話せるわけがないだろう!」と思わず客席から半畳を入れたくなる所が読んで絶妙であり、ここに本新書の実の面白さがある。

「私は二歳」と称する「私」の、二歳の子どもとしてはあり得ないほどの達者な語りの様子を知ってもらうために、かつ本書にての二歳の「私」の語り口の中で最も面白く、「これは傑作だ」と私には思える抱腹絶倒な本文記述を以下に引用してみる。この記述は「団地から京都へ─おばあちゃんとママ」の項のそれであり、団地から越してきて京都の父親の実家で祖母と同居生活を新たに送るに際しての、「夫婦間の不和の大人の喧嘩のみならず、嫁姑問題にて母親と祖母(義母)の間で人間関係がギクシャクすると、その対人関係の微妙な雰囲気が言外に直に子どもにも伝わり結果、子どもの精神健康上良くないから夫婦間や嫁姑間での家庭内不和の問題は即改善するように」と促す、著者による育児アドバイスの中での一節である。

「『おうちの奥さんはえらい人どす』おばあちゃんがパパにむかってこういうとき、これは、よそのどこかの奥さんのことでなく、ママのことをいっているのだということが、このごろわかってきた。それもママをほめてるんじゃないってこともわかった。これはどうやら、『おまえのよめは、えらそうなことをいう人間である』という意味のことらしい。人間関係がややこしくなると、言葉というものは全く別の意味をもつようだ。おとなの言葉をおぼえようと思って一生けんめいの私には、ややこしくてこまる。おばあちゃんの言葉は腹をたてるほどていねいになるからふしぎだ。おばあちゃんがママにむかって『ママ』というときは一ばんきげんがいいのだ。ちょっときげんがわるくなると『ママさん』だ。『みね子さん』とていねいによぶときはおこっているのだ。私はそれをおぼえるのに半月以上かかった」

そうして二歳の「私」の語りはさらに続く。極め付きは以下である。

「私がふしぎに思うのは、おばあちゃんもママもとってもいい人たちだのに、おたがいに思っていることが通じあわないことだ。私はこのごろ考えている。人間のはなしている言葉というものは、通じているようにみえて実はちっとも通じてないことが多いということを」

義母が嫁について、「うちの奥さんはえらい人だ」と息子に言うときは「おまえの嫁は、えらそうなことをいう人間だな」の裏の意味を持つ強烈な嫌味であることを「私は二歳」の「私」はすでに知っているのだった。同様に義母のおばあちゃんが母親のママにあえて「さん」付けの「丁寧な」言葉遣いになるときは、表面上の「丁寧さ」とは裏腹に言下に不機嫌で内心立腹していることまで「私」は見抜いている。「私」はまだ二歳であるにもかかわらず、「おばあちゃんもママもとってもいい人たちなのに、互いに思っていることが通じあわないことが不思議だ」の鋭(するど)い観察眼をすでに備えているのだ。そうして最後に「私はこのごろ考えている。人間のはなしている言葉というものは、通じているようにみえて実はちっとも通じていない」云々とくる。これは誠に傑作である。

ここまでくると著者の松田道雄は育児百科的な本書を執筆するにつれ徐々に興が乗り、筆に勢いがついて完全な逸脱の悪ふざけのモードに入ってしまっている。何しろ「人間の話している言葉というのがその字義通りの意味を伝えるものではなく、言葉とは全く逆で正反対の嫌味や攻撃批判の言外の意味を含み、ゆえに人間の話す言葉は表面的で決して信用ならず、全く人間という奴は会話し互いに通じあっているように見えて、実のところいっこうに話が通じていない。人間同士の会話は時に言外の意の悪意が入り交じり、だが表向きだけ良好な対人関係を維持している薄っぺらい偽善で全くやりきれない。人間の大人には言葉に対する信頼も誠実も何にも全くありゃしない」の二歳の「私」の嘆きである。もう、これは子育て夫婦の悩みに答える育児相談の内容を完全に逸脱して、現代社会の一般的な人間批判にまで到達している。ある意味、突き抜けている。著者の松田道雄の筆がここで大いに滑り、完全な悪ノリの悪ふざけになっている。そして、この逸脱記述が実に傑作で面白いのだ。

こうした言葉をやっと覚え始めたばかりの、しかも人生経験が少ない、まだ二歳でしかない「私」が極めて流暢に、時に高踏不遜なまでに横着に語りまくるのは、「普通に考えて二歳児の子どもがここまで言葉を獲得し、しかも冷静な対人観察や大人びた、ある種の達観した思考態度を経て闊達自在に話せるわけがないだろう!」と読んでいる読者に即座にツッコミの合いの手を入れさせて笑いを誘う技術(テクニック)に他ならない。これは昔から滑稽(こっけい)文学にてよく使われる常套(じょうとう)のものだ。私達はその典型として、例えば夏目漱石「吾輩は猫である」(1905年)を知っている。漱石の「吾輩は猫である」が滑稽文学としておかしみがあって笑えて面白いのは、通常は言葉を獲得して思考など到底できないはずの小動物の猫の「吾輩」が、同居している先生一家の市井(しせい)の人間生活の日常を読者に向けて、いかにも有能自在に軽妙洒脱に高踏余裕で語るからである。本当は小動物の猫に、そのような語りや人間観察は到底できないことは自明であるにもかかわらず。

岩波新書の青、松田道雄「私は二歳」は、こういった滑稽文学にて昔からある定番の笑いのテクニックを使い、乳幼児の子育てを二歳の「私」の視点から一貫して全編を書き抜いている所が優れている。著者の松田道雄は小児科医師で育児評論家ではあるが、文学記述の技術論にも知見があり、それを悪ノリの悪ふさげのエスカレートの体(てい)で、真面目に真剣にふざけてあえて本書にてやる著者の「遊び」の余裕が心憎い。ある意味、育児百科的な書籍の内容を突き抜け、そこからはみ出している。だから岩波新書「私は二歳」は、身近に乳幼児がおらず、新米パパやママではない何ら育児に悩んでいない一般の読者でも読んで十分に楽しめる。本書が従来型の真面目記述な、子育て奮闘中の父母の悩みにだけ答える目的特化された育児百科事典の枠内をはみ出ることのない著作であったなら、子育て世代ではない読者も含み不特定多数の人が手に取り読むであろう岩波新書から出てはいないだろう。

松田道雄「私は二歳」は実は映画にもなっている(1962年)。昔の大映映画で、監督が市川崑、キャストは子育てに奮闘する新米ママに山本富士子、育児にて妻に非協力で傍観的な新米パパに船越英二、パパの母でおばあちゃんであり、嫁の山本と折り合いの悪い姑に浦辺粂子、その他、同じ団地のご近所のママ友達に岸田今日子らである。なかなか映画にしにくい確固たる話の筋がない松田「私は二歳」を、強引な力わざで無理矢理に映画化する監督の市川崑の手腕がまず素晴らしい。その上で本作の主演女優である山本富士子の美しさに目を奪われ、今でも私は彼女に釘付けで夢中にさせられるほどの圧倒的な魅力が本作主演の女優・山本富士子にはある。