アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(338)ストレイヤー「近代国家の起源」

例えば「反戦平和」とよく言われるが、近代における戦争というものは、いつの間にかどこかで勝手に戦禍の火が自然に着いて、知らず知らずのうちに戦闘が拡大しエスカレートしていくようなものでは決してない。古代や中世の戦争とは異なり、近代における戦争は宣戦布告や終戦処理がある秩序立ったものであって、その決断と実行の主体は、特定個人では決してなく、軍隊の軍事の暴力装置を「合法的に」独占している近代国家である。近代の戦争にて国家こそが軍事力と交戦権を有する戦争主体であるのだから、「反戦平和」を主張し唱える場合には、戦争にて開戦決断と戦闘行為を遂行する主体である国家そのものの悪性が、まずは考えられなければならない。

国家という枠組の体制下にある国民は、開戦決断をやり現実に戦争に着手する近代国家により、なかば強制的に戦時動員させられ、時に「この戦争は正義の正戦」とか「祖国を守るために国民は自国の戦争に参加して当たり前、国民としての当然の義務」のペテンの言説にダマされて、また時には検閲や発禁処分や逮捕や投獄の国家による直接的な権力行使の抑圧恐怖に脅かされながら、いつも自分達が望んだ戦争ではないにもかかわらず、国民は一方的に国家から戦争を強制され戦争に動員させられるのである。事実、近代の戦争において、危険な戦場の前線に駆り出され、たまたま戦闘地域に該当のために戦火の直接的被害を被(こうむ)り焼き出され追い出されて難民となったりの、生命の危険にさらされ日常の生活は破壊され、また近代の総力戦であるがゆえに銃後の本国にて、財産や自由の侵害で物心両面にて様々な市民生活の制限を受け時の政府から戦争協力を迫られるのは、近代国家の枠組の体制下にある多くの一般国民である。

これとは対照的に、戦争を決断し実践して国民を戦争動員させる戦争主体たる近代国家と、その中枢の戦争指導者、つまりは国王君主や政府首脳や軍部の指揮者や彼らを支持して国民一般を扇動する国家寄りの御用学者の知識人らは、実質的には自身やその家族が生命や財産や自由の安全と保障にて直接的で深刻な被害を被るような事態にはならない。国家が旗をふって積極的にやりたがる戦争にて、常に直接的かつ深刻な被害を全面的に被り甚大な損害を受けるのは、戦時動員させられて戦火に追いまくられて銃後で片務的に協力要請させられる、いわゆる「無辜(むこ)の民」の方である。

こうした近代国家が主体たる戦争にて、国家とその下の国民一般の間での不条理なまでの不均衡を指摘したり、軍事の暴力装置を「合法的に」独占しているがゆえに軍事力と交戦権を有する戦争主体である国家の暴力性を糾弾すると、近代国家と国民一般の間での不均衡の欺瞞を隠し、国家そのものの戦争主体たり得る暴力性の恩恵に日頃から安住し利益享受し尽くしている国家の中枢の政府首脳や軍隊指揮者や国家主義的な御用学者の保守知識人らは、本質の痛い所を突かれたからなのか、なぜか異常に激怒したりするのだけれど、こういった国家の本質的な悪の問題は、やはり各人が常々掘り下げて深く考えておくべき事柄である。加えて、近代国家の成立根拠として従来の政治学にて提供され説明づけられてきた「覇権国家」や「夜警国家」や「文化国家」や「職能国家」や「福祉国家」ら、ある種の「合理的」観点からなされる長い間、自明とされてきた様々な近代国家の理論に対しても一度は疑ってみた方がよい。

以上のような近代国家の悪性を「本当の意味での人間主体にとっての反省とは何か」「我々にとって精神の革命とは何であるのか」に結びつけ、大日本帝国が崩壊した1945年の日本の敗戦時に徹底的に考え尽くした人がいた。経済学者の大熊信行である。日本の敗戦に際し、大日本帝国の崩壊を前にして大熊はその主著「国家悪」(1957年)にていう、

「日本人は国家観をかえなければならない。単に国体観などというものを放棄するだけでは十分ではない。これまで摂取しておった西洋近代のあらゆる国家思想を、すべて疑問の対象として再検討するだけでなく、だれもまだ踏み入ったことのない思想領域へ、そして同時に精神領域へ、歩み入らなければならない」

そうして「国家悪」と端的に断罪される近代国家の悪性の問題に関する大熊信行による、以下のような「人間悪」のエゴイズムの発露の結晶体としての近代国家の悪、すなわち「国家悪」についての結論部分だけ、中途の詳細な立論や考察はあえて飛ばして、とりあえずここで引いておいても無駄ではあるまい。

「国家は、国内的な政治関係として、悪であり、国際的な政治関係として、ふたたび悪である。近代のあらゆる政治思想が、それぞれの意味において、国家または政治の否定にかたむいているということは偶然ではない。…国家は一方からみれば、人間の暴力性をそれ一つに吸い揚げた組織であり、他方からみれば人間のエゴイズムを昇華せしめた観念的主体である。われわれはみずからの動物的恐怖によって、国家の命に服し、また、みずからの人間的我欲によって、国家の発展をささえている。国家悪という言葉によって、自然に集中してくるわたし自身の想念には、そのようなものがふくまれている。しからば、戦争責任の問題を問いつめるというのは、人間における国家問題を問いつめることである。そして人間における国家問題を問いつめるというのは、かかる想念にうかぶ国家悪の問題を問いつめることである。現代における人間の問題が、国家との対決における人間の問題だということは、国家悪との対決者たることが、現代人の人間としての運命だということである」

私は昔から大熊信行の「国家悪」の主張に痛く感心して共感する所があった。出来合いの聞こえのよい政治学の諸理論を排し、近代国家の本源的な悪性である「国家悪」の問題を、国家を形成する構成主体たる諸個人の人間の「人間悪」のエゴイズム(他者に対する虚栄心や優越感や対抗心や他罰感情や安楽の独占欲ら)との連続性において精神史の観点から捉え徹底的に根本から考え尽くす大熊の国家論のラディカルさに何よりも感心したのであった。それから後、私は様々な国家論をなるべく多く読むよう心がけてきた。もはや大熊信行の言を借りるまでもないが、「日本人は国家観をかえなければならない。…これまで摂取しておった西洋近代のあらゆる国家思想を、すべて疑問の対象として再検討するだけでなく、だれもまだ踏み入ったことのない思想領域へ、そして同時に精神領域へ、歩み入らなければならない」と心底より痛切に私にも思えたからである。

そうした一貫して読まれ本質的に深く検討されるべき国家論や近代国家のナショナリズムに関する考察にて、1990年代に、いわゆる「国民国家論ブーム」を巻き起こしたアンダーソン「想像の共同体」(1983年)は、今日に至る国家論のトレンドの方向付けをなした重要な基本文献として、やはり必読であろう。また近年では、萱野稔人「国家とは何か」(2005年)の国家論がなかなかの力作で良書だと私には思えた。

さて岩波新書の青、ストレイヤー「近代国家の起源」(1975年)は数多くある国家論の中の一つである。著者のストレイヤーはヨーロッパ中世史専攻のアメリカの歴史学者である。そのため、本書はフランス史やイギリス史の詳細な歴史的実証を通して「近代国家の起源」を明らかにしていく。ストレイヤーによれば、近代における「国家」という概念は歴史的なものであり、現在の近代国家の中核は、中世封建王制の中で形成されたものである。その中核は官僚制としての財務官僚制度と司法官僚制度であって、この二つの行政組織が近代国家形成の中心となったのであった。ストレイヤーに言わせれば、近代国家の中核は財務と司法の官僚制度であり、現代国家組織の中で最も重要な機関と目されている軍隊制度と外交制度は比較的新しい後発のものであるとする。同様に本書「近代国家の起源」においては、従来の近代国家論の定番としてよく指摘される、ボダンによる「主権」概念の成立や、人々の「ナショナリズム(国民意識)」の形成による「国民」創出についての言及はほとんどない。  

岩波新書のストレイヤー「近代国家の起源」では、近代国家が国家である所以(ゆえん)の本質は財務と司法を主とする公的で統一的な官僚制度の成立にあり、その世俗的で合理的な統治機構の整備によって、近代国家は前時代の宗教的共同体や同時代の職人別ギルドら他の組織から優越し、人々の支持を広範に強く取り付けた。この優位性(アドバンテージ)にて、現代に至るまでの近代国家の隆盛があるとする。そのため本書では、そうした近代国家における官僚制の成立と発展を押さえる政治制度史に限定して「近代国家の起源」を叙述している点に大きな特色がある。