アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(345)高村薫「作家的覚書」

岩波新書の赤、高村薫「作家的覚書」(2017年)は、2014年から2016年まで岩波書店の月刊誌「図書」に連載した時評を中心に編(あ)んだ作家・高村薫による時評集である。

「『図書』誌上での好評連載を中心に編む時評集。一生活者の視点から、ものを言い、日々の雑感を綴(つづ)る。今というこの時代、日本というこの国に生きることへの本能的な危機意識が、生来の観察者を発言者に変える。二0一四年から一六年まで、日本が『ルビコン』を渡った決定的時期の覚書として、特別な意味をもつ一冊である」(表紙カバー裏解説)

高村薫は、「黄金を抱いて翔べ」(1990年)や「マークスの山」(1993年)や「神の火」(1996年)らの社会派小説の代表作がある日本の女性作家である。本書タイトルの「作家的覚書」というのは、本書所収の2014年から16年が「日本が『ルビコン』を渡った決定的時期」であるとする、つまりは後に振り返ってみれば、この時期こそが、古代ローマ帝国のカエサルがルビコン川を渡り初めてローマ本土外の属州に侵攻したような、日本がある限界点を越えて、いよいよ新たな次の段階へ突入移行した分水嶺(ぶんすいれい)であると断ずる著者の考えに基づき、一生活者の視点と生来の観察者かつ発言者である「作家的」立場から記した決して見過ごすことの出来ない時代の「覚書」な時評集の体裁を取った、タイトル通りの「作家的覚書」なのであった。

しかしながら、人はいつでも今の時代を「現在こそがまさしく時代の流れの潮目が変わる重要な転機」とか、「今こそが物事の真価が問われて人々の価値観が変わるべき頑張り時」などと絶えず言っているのであるから(笑)、2014年から16年が日本にとっての新たな段階へ移行の決定的時期と本新書にて高村薫がやたら深刻に煽(あお)りまくるのも話半分で聞き流すべきか。ただ本書を読むと2014年から16年の「同時代性の日本社会に漂う空気感のようなもの」を如実に感じることができる。もし私がこの先10年後、20年後も幸運無事に生き延びていられたら、その時の2030年や2040年の地点から、著者の高村薫が言ったような「2014年から2016年までが日本がルビコン(川)を渡ったような時代の変わり目の決定的時期であったかどうか」を改めて振り返り総括して確認してみたい気もする。

本書にて取り上げられている時事論の内容は、阪神・淡路大震災のその後、東日本大震災と福島第一原発事故のその後、原発存続是非の議論、政府の憲法解釈による自衛隊の海外派兵問題と憲法改正論議、米軍駐留基地をめぐる沖縄問題、9・11のアメリカ同時多発テロ事件のその後、アメリカ大統領選挙、北朝鮮情勢、歴史認識問題と日本国の戦争責任、TPP(環太平洋連携協定)の貿易自由化をめぐる問題、消費税増税、日本社会の少子高齢化や貧困格差の問題など、政治政策、安全保障、外交、経済、国際情勢、歴史認識問題、自然災害、社会的事件と相当に多岐に渡っている。

だいたい作家や文学者は本が売れ世間に顔が売れて多少有名になると、よせばいいのに(苦笑)、本職の作品創作以外の所で政治や外交や安全保障や経済の問題、憲法議論や歴史認識問題やらをなぜか自信満々に論じ始め、だがもともと政治や外交や安全保障や経済学や憲法学や歴史学を本格的にじっくり学んでいないため、その筋の正統な学説理論や問題の歴史的推移と時代背景を知らず、日常的振る舞いの経験則や相当に俗っぽい世間的「常識」や自身の感性的判断からの「床屋政談」「床屋軍談」レベルの素人談義で、いわゆる「トンデモ発言」の公表連発にて内心で人々から馬鹿にされ嘲笑で失望させられることが多い(そうした悪例の典型見本として、例えば作家の村上龍や百田尚樹らがいる)。

ところが、作家・高村薫の場合は例外的であり、この人の時評の社会評論は総じて優れている。岩波新書「作家的覚書」以外にも「作家的時評集・2000─2007」(2007年)や「作家的時評集・2007─2013」(2013年)ら、高村は昔から時評集を継続して出していた。この人が昔から継続し積み重ねて書いている時評は、作家による身辺雑記や日々の雑感の片手間仕事のレベルをはるかに超えている。朝日新聞や毎日新聞の全国紙の論説委員が日々紙面に書くような新聞報道の本業のプロ仕事のようでもある。少なくとも私はそう思う。時評の内容も文章も精緻(せいち)で、とても読み甲斐がある。特に高村薫の時評における文章は硬質でとても良いと思う。

例えば以下のような、本新書にある高村薫が時評を通して社会的な時事文章を書く理由、「私たちはいま、どういう時代に生きているのか」「これはいったいどういう時代なのだ」と疑問に思い、言葉を探して考え発言した瞬間に未来が立ち現れるのだから決して諦(あきら)めてはいけない、という旨の彼女の鋭(するど)い社会意識は実に見事だという他ない。

「必要なことは、『私たちはいま、どういう時代に生きているのだろうか』ということを一人一人が言葉にし、言葉にすることによってかたちにし、かたちにすることによって把握をすることです。いまがどういう時代であるかを言葉にすることによって、初めて私たちは何事かを理解し、考え始めるからです。そうして未来への思いを言葉にし、言葉にすることによって意思をもつ。意思をもつことによって未来が立ち現れる、というステップを、けっしてはしょらないことです。『これはいったいどういう時代なのだ』と、言葉を失って立ちすくんだ瞬間、人は同時に言葉を探し始めるのです。そうしてあれこれ言葉を探しているとき、私たちはすでに未来への意思をもっているのだと思います。諦めないでおきましょう」(196・197ページ)

高村薫の作品「黄金を抱いて翔べ」や「マークスの山」や「神の火」にての基本はミステリーか悪徳犯罪小説だが、それらに加味される社会派的要素、例えば日本社会に潜入している外国人スパイとそれをマークする日本の公安警察の決して表には出ない人知れずの暗闘と攻防だとか、日本的組織(警察!)の腐敗の構造とか、末端の現場労働者の過酷な環境に象徴される原発推進の理不尽さなどは、岩波新書「作家的覚書」に代表されるような、著者の高村薫の時評に見られる現代の日本社会と国家に対する抜群の問題意識に支えられていた。そのことを本書「作家的覚書」を読むと改めて感得できる。

高村薫と山崎豊子は戦後の社会派小説の優れた書き手として、同時代の他作家たちよりも頭一つか二つ抜けていると私は思う。