アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(346)永原慶二「源頼朝」

源頼朝といえば、言わずと知れた鎌倉幕府を開いた初代将軍であり、岩波新書の青、永原慶二「源頼朝」(1958年)は頼朝の出生から死去までの生涯を時系列で一気に書き抜いた評伝である。あらためて源頼朝の概要を押さえておくと、

「源頼朝(1147─99年)。義朝の子。平治の乱後、伊豆蛭島(ひるがじま)に流された。1180年、以仁王の平氏追討の令旨に応じて挙兵。84年に弟・範頼と義経を遣して源義仲を倒し、翌年平氏を滅ぼした。1185年、弟の義経との不和に乗じて後白河上皇に守護・地頭の設置を認めさせ、武家による全国支配の端緒をつくった。1190年、上京して右近衛大将に任じられたが、まもなく辞して鎌倉に帰った。1192年、征夷大将軍となり(在職1192─99年)鎌倉幕府を開いた。鎌倉殿と呼ばれ、御家人(鎌倉幕府の将軍と直接の主従関係を結んだ武士)の信望が大きかった」

以仁王の平氏追討の令旨に応じ、伊豆で挙兵するも石橋山の戦い(1180年)で早くも敗走する源頼朝のほろ苦い実質デビューの初戦、北陸地方を平定し倶利伽羅峠の戦い(1183年)で大勝して入京した源義仲(木曽義仲)を頼朝が弟の義経らを遣わして討ち、頼朝が源氏一族の惣領として京の都に一躍名を響かせた大々的な世間認知の途上や、源義仲・平家討伐に功を挙げ、頼朝の軍績に相当に貢献したはずの弟の義経と後に不和となり、義経を死に至らしめる頼朝の身内への非情さ、東海・東山両道の支配権や「頼朝追討の院宣」の撤回や国ごとの守護設置をめぐる、京の朝廷の後白河法皇と鎌倉の頼朝との対立と駆け引きら、源頼朝の生涯を概観して読むべきものは多い。それらの中でも平治の乱(1159年)にての頼朝の「生涯の幸運」ともいうべき事跡が源頼朝を思う度、私にはいつも強く思いだされ誠に興味深い。

平治の乱にて、優勢の立場にあり「官軍」となった平清盛ら平氏に攻め込まれ「賊軍」となった源義朝ら源氏は敗れ京を逃れて東国を目指す。その敗走の過程で父の源義朝は謀殺され、長兄の義平は都で処刑され、次兄の朝長は負傷により落命した。しかし、捕えられ京の六波羅へ送られて父や兄らと同様に死罪を当然視された頼朝は、平清盛の継母の池禅尼(いけのぜんに)の助命嘆願、後白河院と上西門院の意向などにより死一等を減ぜられ、伊豆への配流となる。この時、源頼朝は弱冠14歳。若さゆえに死罪をまぬかれた頼朝には確かに「人生の幸運」があった。逆に平家の側からすれば、平治の乱後のこの時に源頼朝を延命させたことにこそ、後の源氏の巻き返しと鎌倉幕府成立の源頼朝の活躍の時代の先を読めない迂闊(うかつ)さがあったと言うべきか。

私達は、例えば「平家物語」にある、平家一門の滅亡に際しての檀の浦の戦い(1185年)における平氏の外戚に当たる幼帝、安徳天皇の入水の最期を知っている。祖母である平清盛の妻・時子に抱かれ、壇の浦の急流に身を投じた安徳天皇は、まだ6歳ばかり。安徳天皇は歴代天皇最年少の崩御(ほうぎょ・「天皇が死去すること」)であった。何も知らない幼少の安徳の「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」の問いかけに、「もはやこれまで」の平家一門の滅亡と自身と孫の安徳の死を覚悟した祖母・時子(二位尼)が涙をおさえて、「この世は辛く厭(いと)わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです。波の下にも都がございます」と言い聞かせ、それから天皇が小さな手を合わせると、祖母に抱かれたまま壇の浦の急流に沈んでいった。これら「平家物語」にての安徳入水の最期の記述(「先帝身投」)を、私はいつも涙なしで読むことができない。古代・中世の古来の戦いでは一族連座制の一蓮托生(いちれんたくしょう)で個人の行動や責任如何に関わりなく、一族の者は死の運命をも共にする非情な風潮にあったのだ。

だが、13歳で平治の乱にて初陣を果たし乱終結時に14歳であった源頼朝には、平家滅亡時の檀の浦の戦いでの幼帝・安徳天皇とは相違して、また頼朝の父や兄たちとも異なり、死罪を免れ配流にとどまった幸運があった。これには平治の乱の本質が朝廷内の院近臣同士の争いであり、天皇・貴族が乱の「主」で、それぞれの天皇や貴族に付き従った武士は「従」であって、まだ時代は平氏と源氏の武家同士の対立激化となっていなかったため、敗北の源氏方の子、頼朝に対する処分は軽度であったといわれている。平治の乱は1159年であり、後の「源平の争乱」で源氏と平氏の武家同士の対立がいよいよ激しくなってくるのは1180年以降である。いわゆる「源平の争乱」の本格的な武家同士の対立激化の時代に入るまで、平治の乱の時代は20年ばかり前の時期尚早だったのである。もはや繰り返すまでもなく、こうした時代の流れに死罪を免れた源頼朝の何よりの「生涯の幸運」があった。

ここで岩波新書「源頼朝」から、平治の乱にて源氏敗北の後に頼朝が伊豆に配流される際の記述を引こう。

「年十三で初陣をつとめた頼朝も、敗れて父とともに東走した。しかし途中関ガ原の雪深い山中で、父たちの一行におくれたところを、平頼盛の家人弥平兵衛宗清にとらえられて京都に護送された。ここで当然殺されるはずの運命にあった頼朝は、頼盛の母で清盛には継母にあたる池禅尼や頼盛の懇願によって助命された。事件から間もなく、頼朝の配流国は伊豆ときめられ、永暦元年(一一六0)三月十一日京都を発った。かつて、父義朝が意気たかく鞭(むち)を打って往復した東海道を、少年の頼朝は、みじめな流人の姿で下ってゆかねばならなかった。東海道にそって、義朝が配置していた家人たちも、今は心変わりしてこの敗戦の孤児をほとんど省みようとはしなかった。この間、頼朝を配所まで送るのに温い手をさしのべたのは、長田資経・祐範・比企の尼などわずかな人々である。資経は平家の家人であったが、藤七資家をもって頼朝を送らせ、祐範は頼朝の母の弟で熱田大宮司家の一門の人であった」(「平治の乱」)

流刑先の伊豆にて源頼朝は伊豆の豪族である北条時政の娘、政子と婚姻し、土着の北条氏の力を得て、やがて坂東武士を束ねるまでに頭角を現していく。頼朝が伊豆に配流されたのが14歳、以仁王の平氏追討の令旨に応じて伊豆で挙兵したのが34歳の時である。1185年の屋島の戦いと檀の浦の戦いを経ての平家滅亡時、頼朝は39歳。それから1192年の後白河法皇の死を見て同年に征夷大将軍に任命されて、(本当は鎌倉幕府の成立年には諸説あるが)鎌倉を拠点にする東国基盤の政権たる鎌倉幕府が成立した時、頼朝は46歳。その後、源頼朝は53歳で亡くなる。

平治の乱の敗北にて伊豆流刑の当初、確かに「かつて、父義朝が意気たかく鞭(むち)を打って往復した東海道を、少年の頼朝は、みじめな流人の姿で下ってゆかねばならなかった。東海道にそって、義朝が配置していた家人たちも、今は心変わりしてこの敗戦の孤児をほとんど省みようとはしなかった」で、頼朝にとって京の都落ちの東国行きは屈辱であったかもしれない。だがその後、北条氏ら東国土着の坂東武士らと親密に交わるうちに頼朝の中で伊豆や鎌倉の東国に対する愛惜の情が高まっていったに違いない。1189年、前よりの頼朝による奥州(東北)征伐を称える書状が朝廷より届き、京都の朝廷から頼朝に対し論功行賞が打診される。1190年、頼朝はついに上洛すべく鎌倉を発つ。その際には平治の乱で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓を経て千余騎の御家人を率いて壮大に入京したという。そこで頼朝は権大納言・右近衛大将に任じられたが、まもなく辞して鎌倉へ帰った。権大納言・右近衛大将の官職は常時在京する必要のある京官であり、この官職を務める限り、京都に長く留め置かれ鎌倉へ戻ることが困難になると頼朝が判断したためである。

それほどまでに源頼朝は東国常駐の鎌倉在地にこだわった。それには頼朝の中での伊豆や鎌倉の東国に対する揺るぎのない愛惜の情があったからだと推察される。この後、東国を拠点に東北地方の蝦夷征討事業を指揮する、長い間途切れていた古代律令制下での征夷大将軍の官職任官が復活され、源頼朝は征夷大将軍の地位につく。後に同じく東国拠点の武家政権を築き鎌倉幕府の前例を相当に参考にし、また個人的に源頼朝その人に傾倒心酔していた江戸幕府を開いた徳川家康も、幕府の開府時の官職は源頼朝と同じ征夷大将軍であった。

「王朝の侍大将から中央権門への道を歩んだ平清盛に対して、頼朝の指向した方途は何であったか。関東武士団の棟梁として後白河法皇の政略といかに渡り合ったか。鎌倉に武家政権を樹立する過程で、弟の範頼と義経を排したのはなぜか。時代と個人のからみ合いをダイナミックにとらえ、激動の時代を生きぬいた政治家頼朝の実像に迫る」(表紙カバー裏解説)

(※岩波新書の青、永原慶二「源頼朝」は近年、岩波新書評伝選から改訂版(1995年)が復刻・復刊されています。)