アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(357)大江志乃夫「徴兵制」

日本近現代史専攻の歴史学者であり、なかでも軍事史に優れた業績を残した大江志乃夫(1928─2009年)と私は同郷で、大江志乃夫本人や大江の親族と何ら交流あるわけではないが、「同郷の人間」の一読者として私は昔から勝手に大江その人に親密を抱き、大江志乃夫の著作を愛読してきた。

大江志乃夫と同様、同郷で私の出身高校の卒業生に、小説家であり評論家でもあった林房雄(1903─75年)がいる。高校の図書室に「林房雄双書」のコーナーがあった。高校卒業後、私は林房雄「大東亜戦争肯定論」(1964年)を改めて読んで、そのデタラメさに非常に驚いた。いつか機会があれば林房雄「大東亜戦争肯定論」の書評を書いてみたいが、林の「大東亜戦争肯定論」は、現代風の俗な言葉で言えば「炎上芸」(社会一般で常識的で妥当な事柄に、あえて異議を唱え過激に批判・否定することで皆の耳目を自分に集めたり、その注目を通して売文し安易に金稼ぎすること)の元祖の走りのような書籍である。林房雄が自分の同郷であり、林が同じ高校の先輩であることを密(ひそ)かに苦々しく恥ずかしく私は思っていた。

そうした同郷で母校の先輩である林房雄への恥ずかしい思いもあり、林とのコントラスト(対照)から余計に同様に同郷であった大江志乃夫に愛着の情を勝手に一方的に持ち、一時期、私は大江に傾倒していたのだった。そういったわけで今回から4回連続で私が愛読する大江志乃夫の著作に関連づけて、「徴兵令」と「戒厳令」と「統帥権」と「御前会議」の順番で近代日本の軍事法制史の主要項目について書いてみる。

大江志乃夫の著作には「岩波新書三部作」とも呼ばれるべきものがある。岩波新書の「戒厳令」(1978年)と「徴兵制」(1981年)と「靖国神社」(1984年)である。これら岩波新書の3タイトルを見るだけで明瞭であるが、大江志乃夫という人は軍事史専門であるけれど、「この人は軍事史研究を手がけるに当たり政治というものをよく分かっている。相当にデキる人だ」の感慨を私は昔から持つ。つまりは、軍事史といえば軍内部の派閥抗争や粛清人事、各戦局の個々の戦闘場面にての軍事作戦の計画や遂行の妥当の是非を細かに論じる、ともすれば「軍事マニア」や「ミリタリー・オタク」的な異常に微細で、つまらない実証蘊蓄(うんちく)な好事家趣味の研究になりそうなところを大江志乃夫は、どの著作研究でも上手い具合に回避している。そうして「政治の本質が支配者による被支配者への関係論的働きかけであること」を(おそらくは)見切って、特に日本近現代史の軍事史にて、時の政府や軍部による国民一般の戦時動員や超法規的な権利制限や検閲規制であるところの「軍事の本質」を押さえ、悉(ことごと)く国家と国民との間の軍事支配の関係にテーマを定めている。ここで先の大江志乃夫の「岩波新書三部作」の表題を改めて確認してもらいたい。「戒厳令」は、時の政府や軍部による「緊急事態」を名目にした国民一般への権利の制限の超法規的強行であり検閲その他規制の強化であって、「徴兵制」と「靖国神社」は、時の政府や軍部による国民一般の直接的な強制兵役制度、ないしは国民大衆の戦時動員を効果的に実現させるための宗教施設を絡めたイデオロギー的策術である。

さて、以下では大江の「岩波新書三部作」のうち「徴兵制」について、本新書のスムーズな理解の補助となるよう「徴兵制」に関する基本的な事柄や今日的問題をいくつか挙げて、岩波新書の大江志乃夫「徴兵制」を読むための導入としたい。

徴兵制とは、兵役制度の一種であって、「国家は国民こぞって国家防衛にあたるべきもの」との主義に基づき、国民に兵役に服する義務を負わしめる強制兵役制度のことをいう。この制度において国家は、徴兵検査によって所望の性能を持つ兵員を所要数だけ選択徴募し、兵員訓練の主眼を精兵主義におき、平時編制部隊において、一定の期間教育を施したのち、漸次新陳交代させ、戦時または事変に際し、これらを召集して戦時編制を完成する。

徴兵制の利点は、法制的には国民皆兵主義として合理的であり、財政的には傭兵(金品給付を伴う職業軍人)とは異なり、自国への自発的献身名目の従軍にて比較的少額の経費で足りることである。ただし日本近代の徴兵にて特に顕著であるが、表向きは「国民皆兵」であっても、裏では皇族・華族や政治家や資本家や地方名望家ら子弟の徴兵解除のあからさまな特権的手心は確実にあり、必ずしも公正平等で合理的な「国民皆兵」であるとは言い難い。こうした実情は諸外国にても少なからず同様だ。その反面、徴兵制の欠点は、徴兵対象となり入隊拘束される個々の国民(とその家族)の経済的困窮のみならず、徴兵により労働力を失う国民経済上その負担損失は大である。また軍隊として、志願兵制度に比べ兵士の士気や戦闘技術の習熟において大いに劣る所がある。さらに国家的に見れば、徴兵制は軍部が抱く軍国主義思想を国民一般に普及させるための政治手段として利用されやすく、全体主義的な軍国主義の温床起点になりやすい弊害もある。

徴兵制の眼目は国家による国民への強制兵役制度の「強制」にあるのであって、この「国による強制」という点が何より問題となる。言うまでもなく、徴兵忌避に対する厳しい罰則を伴う強い法的拘束力を持つ国による徴兵は「国家による市民への著しい権利の侵害」となりうる。召集による兵役訓練教育ならびに戦闘実務の名の元での個人の長期身柄拘束と自由の制限と人格の毀損(きそん)、また平時でなく戦時の戦闘地域への動員ともなれば、個人の生命や健康の安全は顕著に脅かされることとなる。

徴兵制や国民の自国への戦争協力を是とする議論にて、「市民の権利を享受するだけでなく、同様に国民としての義務も果たすべき」とか、「自分の国は自国の国民で防衛して当たり前」の強い主張がよくなされる。

前者については、「権利を主張するなら権利の主張だけでなく、それ以前に義務を果たせ」的な、個々の人間に無条件に保障されるべき権利と、所属構成員が共同体や国家へ果たすべき義務とがあたかも等価であり相補的で、権利と義務だけの二元的構成になっている立論の素朴さを、まずは疑ってかかるべきだろう。こうした「権利を主張するなら、それ以前に義務を果たせ!」の短絡議論に簡単に騙(だま)されてはいけない。もともと人間の普遍的な権利と共同体への献身義務とを比べたら、その項目数や内容の実質は政治権力たる国家の侵害抑圧から守られるべき個人の権利(思想・良心の自由、集会・結社・言論活動の自由、不当な逮捕拘束からの自由など)の方が、国家への義務(納税・勤労の義務ら)よりも圧倒的に多くて重い。原理的に言って、市民の権利と国家への義務は決して等価でなく、両者は対等な相補的関係にならない。かつ「権利と義務だけの相補的二元構成」など現実にはありえず、そこには「当然果たすべき国家に対する国民の公的義務」の名目にて、実質的には政治権力にとっての国益確保や特権支配層にのみ利するような利益奉仕への私的誘導たる、時の政治指導者による「徴兵」という「公的」な国民大衆の擬制の動員の契機も当然に入るのだから、「権利の主張以前に国民の当然の義務としての徴兵制」の議論には相当な注意が必要だ。

また後者について、「自分の国は自国の国民で防衛して当たり前」の徴兵制施行の主張は、かつての日本近代史でそうであったように、また日本国の今日的状況にても同様であるが、国家による国民の徴兵動員が必ずしも自国防衛のための大義ある戦闘に供するものとは限らない。むしろ日本近代の歴史を概観すれば、以前の徴兵制の強制的な国民皆兵は、大義ある「自国の防衛」とは程遠い、非合理な他国への侵略戦争や帝国主義下での国策戦争に国民一般は駆り出され強制動員させられたのだし、現代にて徴兵制が復活した場合も、国民大衆は「専守防衛」の自衛戦争であるよりは、他国への報復戦争や、軍事同盟国との戦争協力にて海外紛争地域の前線や後方支援に動員させられる可能性の方が遥かに大きい。ここでも、前述した「『当然果たすべき国家に対する国民の公的義務』の名目にて、実質的には政治権力にとっての国益確保や特権支配層にのみ利するような利益奉仕への私的誘導たる」欺瞞(ぎまん)の、徴兵制にまつわる陥穽(かんせい)はあるのであって、こうした点からも「自分の国は自国の国民で防衛して当たり前」云々の、徴兵制の復活推進の強い主張には注意と熟考を要する。

最後に現代日本における徴兵制復活の見通しについて考えてみたい。今日、左派リベラルや反戦平和論者から、戦前日本への回帰の危惧として「徴兵制復活の懸念」が語られると、右派や保守論者や国家主義者は「今日のようなハイテク装備を有し高度な専門知識と技術を要する現代の軍隊にて、戦前のように国民皆兵の徴兵制を復活させて一般国民に軍隊教育を施しても実戦では全く使い物のならない」旨の反論で否定され、徴兵制復活の可能性は一笑に付されることが多い。しかし、私は左派リベラルや反戦平和論者らによる「徴兵制復活の懸念」は、あながち杞憂(きゆう)ではなく近い将来、現実にありえることだと思う。

すなわち、「国民皆兵主義の徴兵制で召集された兵士は現代の軍隊にて実戦では全く使い物にならない」としても、「国を守る気概」を国民に持たせるための有効な「ショック療法」手段としての徴兵制の魅力(?)の旨(うま)みは国家権力や時の政権担当者に、まだあるのではないか。この点については岩波新書の黄、大江志乃夫「徴兵制」でも1980年代の時点で著者の大江は次のように書いて、軍事的根拠以外での「徴兵制復活への危惧」を露(あらわ)にしている。

「国土防衛戦を想定しての徴兵制の導入という考え方もまったく成立しないわけではない。…国土防衛戦をたたかうための最大のよりどころは、国民の不屈の抵抗意志である。最近、『国を守る気概』を国民に持たせようというたぐいの発言が政財界などに聞かれる。徴兵制論議も、軍事的根拠にもとづく発言というよりもむしろ、国民精神に対する一種のショック療法的な意味で主張されている政治的発言という性格が強い」(「精神的意義としての徴兵制」)