アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(360)大江志乃夫「御前会議」

日本近現代史専攻の歴史学者であり、なかでも軍事史に優れた業績を残した大江志乃夫の著作には「岩波新書三部作」とも呼ばれるべきものがある。岩波新書の「戒厳令」(1978年)と「徴兵制」(1981年)と「靖国神社」(1984年)である。だがしかし、今回は「岩波新書の書評」から外れて大江志乃夫の「岩波新書三部作」以外の大江「御前会議」(1983年)について書いてみる。大江志乃夫の近代日本の軍事史書籍に関し、これまで3回連続で書いてきたが、今回で最後である。

「御前会議」とは、大日本帝国憲法下の日本において天皇親臨の下で重要な国策を決めた会議のことをいう。一般に「御前会議」といえば、戦争の開始と終了と継続に際して開かれた天皇、元老、閣僚、軍部首脳が出席の合同会議のことを指す。1894年に日清戦争での対清開戦を決定したのが御前会議の最初である。以後、三国干渉や日露戦争に際し開催され、1938年以降には日中戦争の処理方針、日独伊三国同盟、アジア・太平洋戦争にての真珠湾攻撃に端を発する対米英開戦、ポツダム宣言受諾によるアジア・太平洋戦争終結などが御前会議にて決定された。

御前会議の召集に関し、「御前会議法」というような法制上の開催根拠はない。また天皇による意思の表明・発動は天皇自らにその責任が及ぶため好ましくないとされ、天皇は御前会議に出席しても一言も発しないのが通例であった。御前会議は宣戦や講和や戦局への見通しを定める主に戦争についての国務や統帥事項(作戦と用兵)の重要国策審議のために開かれる最高会議であるから、事前に内閣と陸海軍ならびに関係各所で戦争に対する大まかな方針や詳細な政策を議論し各機関で調整の上、既定の決定事項としてあらかじめ結論を出しておいて、御前会議の前日までに内閣総理大臣か陸海軍の責任者が参内し、御前会議当日の議事を内奏・上奏で天皇に事前報告している。だから天皇は既に会議の内容を全て知っているので、「天皇は御前会議に出席しても一言も発しない」のは通例であった。御前会議では進行役の枢密院議長の発言以外は、事前に決められた通りに議題は進み実質的な審議は行われなかった。

つまりは御前会議とは、あらかじめ決まってある確定事項に、この会議を通して天皇臨席の下、新たに承認し直す形式的な一種の「儀式としての会議」なのであった。御前会議の開催召集そのものに確たる法的根拠はないが、戦争に関する重要国策を決定する最高会議たる御前会議には、大日本帝国憲法第13条「天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す」の宣戦・講和・条約締結にての軍事に関する「大元帥」(陸海軍を統帥する元首)としての「天皇大権」(統治権の総攬(そうらん)者として天皇が議会の協力なしに行使できる権能のこと)を保障する役割があったのである。宣戦講和や作戦・用兵の統帥事項の天皇大権に関し、天皇は一応は「大元帥」であっても軍事には全くの素人で天皇自身が独力で個別に判断できず、実際は内閣や陸海軍や関係各所が実務で処するのであるから、宣戦講和や条約締結や作戦遂行にて天皇への個別の事前ないしは事後報告では天皇大権をないがしろにする事態につながり、差し支(つか)えが出る。ゆえに直接的な法的根拠はなくても御前会議のような元老と重臣、内閣総理大臣と各国務大臣を始め陸海軍の統帥部が天皇親臨の下、皆が一同に介して、たとえ既定事項で形式的であれ、一応は審議し決定する公的会議の開催が必要となる。御前会議に対して「何ら実際に議論せず新たな決定もない、硬直が極まり全く機能しない形式だけのお飾り会議」などと厳しく批判して、御前会議を「主体的決定なし、そのため責任もなし」のズルズルベッタリな近代天皇制国家の「無責任の体系」の最たるものとして厳しく批判する人が昔からいる。しかし、御前会議に臨席の天皇を始めとする元老と重臣、首相と各国務大臣、陸海軍の統帥責任者から枢密院議長に至るまで出席の各員は何も単なる「形式的な儀式」として漠然と慣例的に毎回、惰性で御前会議をやっていたわけではないのである。

戦争に関する重要国策を決定する最高会議たる御前会議には、大日本帝国憲法第13条の宣戦・条約締結にての軍事に関する「大元帥」としての天皇大権を補完する正統な役割が確かにあったのだ。

さて、大江志乃夫「御前会議」である。本書の副題は「昭和天皇十五回の聖断」になっている。昭和天皇が親臨の御前会議は全十五回開かれた。主に大陸での対中国戦線と南方アジア・太平洋地域での対米英戦に関する国策事項で、1938年1月11日の第一回「支那事変処理根本方針」から1945年8月14日の第十五回「ポツダム宣言受諾」までである。この全十五回の御前会議の中で対米英開戦の決断へと至る過程での1941年9月6日に開催の第六回御前会議が特に重要だと思われる。大江志乃夫「御前会議」の著書にても冒頭の第一章は第六回御前会議に関し詳細に書かれており、先行研究でも第六回のそれは歴代会議の中で特に注目すべき重要な御前会議と目されてきた。

ここで第六回会議を含め、日本が対米英戦の太平洋戦争の開戦決断に至るまでの御前会議の開催を時系列で書き出してみると、

第五回・1941年7月2日・議題─情勢の推移に伴う帝国国策遂行要綱・第二次近衛内閣
第六回・1941年9月6日・議題─帝国国策遂行要綱・第三次近衛内閣
第七回・1941年11月5日・議題─帝国国策遂行要綱・東条内閣
第八回・1941年12月1日・議題─対米英蘭開戦の件・東条内閣

日本が対米英開戦の最終決断に踏み切るまでに御前会議は4回あった。第五回会議より議題の「帝国国策遂行要綱」は対米英戦に関するものであり、三つの項目からなっていた。その内の初項の二つは「一・帝国は自存自衛を全うする為対米英戦争を辞せざる決意の下、戦争準備を完遂す」。ただし「二・帝国は右に平行して米英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む」。当時の大日本帝国は対米英に際し、開戦決断の宣戦か外交交渉継続での戦争回避か、つまりは「戦争か平和か」で揺れていた。事前の「対米諜報」にて「日本の国力はアメリカのそれの20分の1」という現地アメリカからの調査報告が日本に届いていた。もしあるとして圧倒的な国力差により、今般のアメリカとの戦争で日本が勝利する見込みは絶望的でほぼ皆無の「日本必敗」であった。昭和の第一回から第六回の御前会議に連続参加していた首相の近衛文麿は「米英との戦争は無謀」とみて断然、外交交渉で妥協を重ねての戦争回避の主張であった。他方、第二次と第三次近衛内閣の陸軍大臣であった東条英機ほか、特に陸軍は「対米英戦怖るるに足らず」の強硬な主戦派だった。

そこで帝国陸海軍を統帥する「大元帥」たる肝心の昭和天皇の意向は、少なくとも第六回御前会議前後の当初は、首相の近衛と同様、戦争回避の外交交渉継続推進の立場であった。そのため1941年9月6日の第六回御前会議にて、「天皇による直接の意思表明は天皇自らにその責任が及ぶため好ましくないとされ、天皇は御前会議に出席しても発言しない」の不文律の慣例を破り、会議の最後に昭和天皇みずから「最後に陛下より御言葉あり」の以下のような質問の発言をなした。当初は御前会議は議題通り、粛々と進んで予定通りに終わるはずだった。しかし、この異例の陛下の御言葉を受け、当日会議に出席していた首相・近衛文麿の後の手記によれば、「満座は粛然(しゅくぜん)として声もなかった」という。

「私から事重大だから両統帥部長に質問する。先刻、原(註─議事進行役の原嘉道・枢密院議長のこと)がこんこんと述べたのに対し両統帥部長は一言も答弁しなかったが、どうか。きわめて重大なことなりしに統帥部長の意志表示なかりしは自分は遺憾に思う。私は毎日、明治天皇御製(ぎょせい)の『四方(よも)の海 皆同胞(はらから)と思う代(よ)に などあだ波の立騒ぐらむ』を拝誦している。どうか」(参謀本部編「杉山メモ」1967年)

昭和天皇が引用した明治天皇御製の「四方の海」は日露戦争開戦直後に明治天皇が詠(よ)んだもので、この御歌の意味は「四方の海でつながる世は、みな兄弟だと思うのに、なぜ余計な波が立ち騒がしくなるのだろう」といったことになろうか。今日、昭和天皇が引いた「四方の海」の歌に関し、一般には「四方の海 皆同胞と思う世に など波風の立騒ぐらむ」の明治天皇の御歌を正確に引用し読み上げたように公表されているけれども、当日の御前会議出席者のメモや手記を参照すると、厳密には後半の「など波風の立騒ぐらむ」が「などあだ波の立騒ぐらむ」に昭和天皇によって言い換えられていた。「なぜ波風が立ち騒がしくなるのだろう」ではなくて、「なぜ余計な波が立ち騒がしくなるのだろう」と昭和天皇の歌の力点は「あだ波」(無駄で余計な波のこと。「仇波」とも表記され、和歌では軽薄さをたとえる語としてよく使われる)の言葉に集約され、そこに力が込められている。しかも、この歌を介しての天皇の質問は列席者全員に向け漠然と発せられたものではなく、この第六回御前会議の時点で「帝国国策遂行要綱」の第一項の「戦争準備の完遂」を強硬なまでに主張する陸軍参謀本部総長と海軍軍令部総長の両統帥部長に対し昭和天皇から強く発せられた、御前会議にての異例の個別質問なのであった。

もともと昭和天皇は「帝国国策遂行要綱」における「第一項に戦争準備、第二項に外交努力」の記述順序に疑問を呈し、「第一と第二とは軽重の順序を表わしているのでは」と陸海軍にて暗に前提されている「戦争が主で外交は従」の姿勢に不満を抱いていたとされる。事実、戦後の最晩年の公式会見にて、かつて「四方の海」の明治天皇御製を詠まれた際の真意を聞かれ、昭和天皇自身は次のように答えていた。「会議の議題の第一議に戦争準備をすることが掲げられ、また次に平和のための努力となっていましたが、私は平和努力と言うことが第一義になることを望んでいたので、明治天皇の御歌を引用したのです」(1985年4月15日の記者会見)。少なくとも1941年9月6日の太平洋戦争開戦の三ヶ月前の第六回御前会議の時点では、昭和天皇の意向は開戦に反対であり、あくまで外交により解決を図るべきの立場であった。陸海軍の統帥部長らに対する、かの「四方の海」の御歌の引用質問には「軍部も政府に協力して戦争は避けよ」の天皇の明確なメッセージが込められていたのである。

おそらく第六回御前会議での「四方の海」の引用質問は昭和天皇が一人で考えて勝手に実践したものではない。開戦に前のめりで戦争遂行に熱心な軍部を抑えるために、首相の近衛文麿と内大臣の木戸幸一とが事前に工作し、引用の明治天皇の御製「四方の海」の選択にまで万全を期し天皇に御前会議の席上にて発言して頂きたいと周到に仕組んだことであろうと推察される。ところで1990年代に「御前会議」に関するNHKのドキュメンタリーがあり、その中で近衛文麿の側近で当時、内閣総理大臣秘書官であった存命の牛場友彦が映像インタビューに答えていた。「近衛さんは軍の統帥権を中止させてでも、対米開戦反対と天皇に強く言うべきだった。しかし、近衛さんには勇気がなかった。陛下も御前会議で遠回しに歌などを詠まれるのではなくて、『戦争はやめよ』と御聖断として一言いえばそれきりなのだから、戦争をやりたがる軍の連中を公の場で叱(しか)りつけてでも、はっきりと言うべきだった」の旨である。結局のところ、この意見に尽きると私も思う。

ところが、「天皇による直接の意思表明は天皇自らにその責任が及ぶため、天皇は御前会議に出席しても発言しない」の危惧があって、昭和天皇は「四方の海」云々の明治天皇御製の引用質問で曖昧(あいまい)に済ませてしまうわけである。ただ当の昭和天皇にとっても、内大臣の木戸幸一も首相の近衛文麿も御前会議のあの場で天皇に直接に明確に意思表明させることは困難であった。せいぜいの所、「明治天皇の御歌に依拠してそれとなく天皇の意向を暗に知らしめる」のが精一杯であったに相違ない。

第六回御前会議に出席した首相の近衛文麿の後日の手記によれば、このようにして「九月六日の御前会議は未曾有の緊張の内に終わった」。第六回の御前会議を終えて、「開戦反対、外交継続」方針の近衛は「どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べて政権を投げ出し内閣総辞職してしまう。その後、東条英機への首班指名があって、1941年10月18日東条内閣が成立した。東条を近衛内閣の次に奏薦した内大臣の木戸幸一から東条内閣に「九月六日の御前会議での決定にとらわれることなく、内外の情勢を再検討するように」とする昭和天皇の意向が伝えられた。外交努力継続で戦争回避の方針であった第三次近衛内閣の次に、開戦強硬派の東条英機に組閣の命が天皇より下されたことは、当の東条英機を始めとして帝国陸海軍には全くの予想外の事態であり、まさに青天の霹靂(せいてんのへきれき)であった。東条本人も特に強硬な開戦主張の陸軍幹部らは、開戦不可の本意の昭和天皇から後に叱責され粛清人事で外地に飛ばされると覚悟していたからである。戦後の昭和天皇の「独白」や木戸内大臣の「回想」を読むと東条に組閣させて以降も「戦争回避で交渉継続」の政略を宮中は狙っていたようだが、強硬な主戦派の東条が組閣の勅命を受けたことで、帝国陸海軍の開戦派幹部は「陛下は開戦容認に傾いた。これでもう戦争に行く下地ができた」と一気に勘違いした。

こうした1941年10月18日の東条内閣の成立を見て事態はさらに迷走し、1941年11月5日の第七回御前会議で戦争準備に大きく傾き、ついには1941年12月1日の第八回御前会議での「対米英蘭開戦の件」の最終決定を経て、12月8日の帝国海軍によるハワイ真珠湾攻撃、ならびに帝国陸軍のマレー半島上陸により対米英戦の開戦となった。かくして日本は圧倒的国力差にて、およそ勝利の見込みがない極めて無謀な三年九ヶ月に及ぶアメリカとの太平洋戦争に突入していったのである。