アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(364)山口誠「客室乗務員の誕生」

航空会社の客室乗務員の正式名称はキャビン・アテンダント(Cabin・Attendant)であり、今日一般的には「CA」と呼ばれる。客室乗務員とは上空を飛行する旅客機の客室に常駐し、乗客の安全確保や飲食提供などの乗務に専従する航空界ならではの職業である。航空会社の中でCAは女性が大部分を占める職種である。

岩波新書の赤、山口誠「客室乗務員の誕生」(2020年)によれば、航空機に「客室」という空間が出現しなければ、そこに常駐する「乗務員」はそもそも出現しないのであり、昔は航空機は戦闘攻撃のための爆撃機とか、物資輸送のための貨物機が主であったが、旅客機として客室を作り、そこに常駐の客室乗務員が誕生して日本で客室乗務員が初めて空を飛んだのは戦前の1931年だという。当初は乗客への座席案内や急患への対応や緊急非常時の乗客の安全誘導が客室乗務員の主な仕事と想定されていた。しかし時代を経るにつれ、客室乗務員の女性ならではの、きめ細かい乗客への「おもてなし」の仕事、アルコールを含む飲食給仕やブランケット・サーヴィスら、さらには海外の乗客へ向けて客室乗務員が和服を着て乗務する「着物サーヴィス」のアイデアや、時に必要以上に無駄に露出が多いミニスカートの制服着用まで客室乗務員の職務は多岐に渡る。本書によれば、もはや空の上の「航空ホステス」のような様相であり、客室乗務員は昔よりエアガール、エアホステス、スチュワーデス…と呼称と役割が様々に変化してきたが、一部では「エアガール」ではなくて「エロガール」と揶揄(やゆ)されるほどなのだ(笑)。

岩波新書の山口誠「客室乗務員の誕生」は、そうした客室乗務員の誕生から今日に至るまでの歴史を社会学的立場から記述したものである。まず基本の航空安全業務に加えて、客室にて快適な時間が過ごせるよう乗客への様々なサーヴィス提供が時に過剰なまでに付加価値として様々に加味されてゆく日本の航空会社の客室乗務員の職務の歴史が読んで率直に面白いと思う。飲食提供の各種サーヴィスから制服容姿や笑顔の提供まで客室乗務員には次々に過重に仕事が課せられてゆく。その他、海外の乗客への案内対応のために外国語に堪能でなければならず、また国際線に搭乗の客室乗務員には、国内線とは異なり、乗務のたびに到着先の様々な海外に滞在できる職業上の役得(メリット)もあった。そのため、航空会社の客室乗務員は多くの女性が憧れる職業になっていく。この客室乗務員人気には、テレビドラマの「アテンションプリーズ」(1970年)や「スチュワーデス物語」(1983年)らメディアの影響も大きくあった。そうしたテレビドラマを介し、さらにはスチュワーデスのCA人気は過熱して社会的に花形職業になったため志望者が多く難関な仕事になり、CA志望者のための就職訓練の専門学校や専門雑誌まで出て、その事で余計にスチュワーデス人気は沸騰し志望者が多く倍率が高い就職困難な「狭き門」になってしまった。時代と共にCAはより一層女性にとって憧れの職業になっていくのであった。

こうした時代に沿って変化して行く「客室乗務員の誕生」より現代に至るまでのCAの歴史を社会学の立場から時代順に子細に論じている所が、岩波新書「客室乗務員の誕生」は読んで率直に面白いと思える。

さらに本書にて注目するべきは、それら客室乗務員の仕事への社会学的分析の中でも、CAを志望したり現にCAの仕事に就いて従事している者、また彼女らCAを雇用して職業訓練する航空会社まで、その職務を通じて自身にマナーや気遣いの心が身に付く「自分磨き」や、この職務を通じて海外の乗客も含めた様々な人達に会い、フライト先の外国に滞在して貴重な経験を積むことを通して得られる「自分探し」といった客室乗務員として働くに際しての動機付けが自明のこととして客室乗務員の仕事に関わる皆に暗に、しかも強力に共有されていることの指摘である。客室乗務員の仕事は、当人たちにとっては主観的に、接客マナーの専門習得ができる「自分磨き」の技法と思考の獲得の時に格好の花嫁修行の場なのであり、また普通の人にはなかなかできない日常的な繰り返しのフライト先での海外経験で得られる新たな「自分探し」のキャリアアップの場なのであった。このような客室乗務員の仕事にまつわる「自分磨き」や「自分探し」の仕事の動機付け共有は、本新書によれば1980年代から2010年代にかけ日本社会にて強力に形成され広く共有されてきたという。そのことは本書での「4章・見出された『任務』・接客マナーと『自分磨き』」と、「5章・相続される『おもてなし』・『CA』の思考」の各章に詳しい。

こういった金銭の賃金を得ること以外での「自分磨き」や「自分探し」といった、自身が働くことに関する動機付けの理論は、近年、再燃し流行したドラッカーの「マネジメント」(1974年)での議論を思い起こさせる。岩波新書「客室乗務員の誕生」は、ドラッカー「マネジメント」にて力説された物質的な金銭を得ること以外での、極めて漠然として捉え所がない、それゆえ時に外部からの巧妙な誘導で安易に言いくるめられてしまうような、働くことに対する精神論的で根性論的な動機付け提示(自身の中での仕事遂行の達成感や、仕事を介しての自分自身の精神的な成長とか他者や社会への利他的貢献など)の理論を批判的に踏まえた指摘であるように思う。以前の日本でのドラッカーの「マネジメント」ブームの際、この問題を指摘する人が少なく、ほとんどの人がドラッカーの「マネジメント」肯定の礼賛・賛美であったので私は非常に不満に思っていた。ドラッカーによる企業組織下での個人の管理(マネジメント)は、同様に2000年代以降、日本社会にて深刻な社会的問題として露呈してきた感情労働のそれに重なるものだ。

ここで「感情労働」の概要を確認しておくと、

「感情労働とは、感情が労働内容の不可欠な要素であり、かつ適切・不適切な感情がルール化されている労働のことを指す。肉体や頭脳だけでなく、感情の抑制や鈍麻、緊張、忍耐が絶対的に必要である労働を意味する。従来は肉体労働と頭脳労働という単純な二項分類において、感情労働は頭脳労働の一種としてカテゴライズされてきた。しかし一般的な頭脳労働に比べ、人間の感情に労働の負荷が大きく作用し、労働が終了した後も達成感や充足感が得られず、ほぼ連日、精神的な負担や重圧やストレスを負わなければならないという点に感情労働の特徴がある。感情労働に従事する者は、たとえ相手の一方的な誤解や失念、無知、無礼、怒りや気分、腹いせや悪意、嫌がらせによる理不尽かつ非常識、非礼な要求や主張であっても、自分の感情を押し殺し決して表には出さず、常に礼儀正しく明朗快活にふるまい、相手の言い分をじっくり聴き的確な対応や処理やサービスを提供し、相手に対策を助言しなければならない。 つまりは、相手に自分の尊厳の無償の明け渡しを半ば強制される到底、健全とは言いがたい精神的な主従関係や軽度の隷属関係の強要である。感情労働は年功序列や接客業など、こちらの生活や人生が相手の判断で左右される職種において発生しやすい。感情労働に従事する職種として、かつては航空会社の客室乗務員がその典型とされていたが、現代では看護師や介護士らの医療職、コールセンターの受付案内係、官公庁や企業の苦情処理と顧客対応セクションもそれに当たる。感情労働は顧客に対して自発的な喜びや親愛や誠実さや責任感などのイメージを与えるように、働き手に『心の商品化』が過酷なまでに要求される労働形態である。感情労働の問題を扱った代表的な研究にホックシールド『管理される心』(1983年)があり、感情労働の『心の商品化』問題にいち早く着目した先駆的業績として知られている」

感情労働は、働き手に「感情の訓練」を絶えず高度に要求する誠に過酷な非人道的な労働である。何ら愉快な気分でなく別に笑いたくなくても「いつも微笑の笑顔で愛想よく」接客しなければならない。時に顧客からの理不尽な要求であっても反論や怒りを抑え押し殺して、決して表に出してはいけない。しかも感情労働は「これが正解でこれで充分」といった特定のゴールがない極めて曖昧(あいまい)な精神的なものであるから、「顧客満足のための最上のサーヴィス提供」と称して企業や上司は金銭以外の「働き甲斐」の強要にて、ブラック企業的酷使の論理で労働者を際限なくどこまでも追い込むことができる。また昨今の感情労働に慣れた顧客も同様に、そうした感情労働的サーヴィス享受の要求を当然のことに思って、「お客様は神様」の論理でモンスター・クレーム級にどこまでも企業や店員に対し過酷に際限なくサーヴィス要求できてしまう。この意味において、感情労働とは、まさに「相手に自分の尊厳の無償の明け渡しを半ば強制される到底、健全とは言いがたい精神的な主従関係や軽度の隷属関係の強要」なのである。

私も日常生活にて、こうした感情労働のサーヴィスを受け、辟易(へきえき)した経験が多々ある。一見の初めて入ったレストランや飲み屋とか新車購入や長期の大口保険加入など、新規かつ比較的大きな金額が動くサーヴィスや商品の購入時に執拗な視線のアイコンタクトや過剰なまでの笑顔と談笑、余り親しくないのに、こちらがためらうほどの異常な親密さ演出。少なくとも私にとっては感情労働は明らかに非人間的労働であって、受けて愉快で快適なサーヴィスでは断じてない。

しかも岩波新書「客室乗務員の誕生」によれば、こういった「感情労働」のサーヴィス次元を現代ではさらに突き抜けて、より過酷なまでに感情労働を極めた「品格労働」、一般にいうところの日本ならではの「おもてなし」の精神の自明化と強要にまで事態は悪化しているというのであった。すなわち、日本的「おもてなし」と同義とされる「品格労働」とは本書の記述によれば、

「日本の『おもてなし』はチップなどの金銭的対価を極端に忌み嫌う。むしろ日本の『おもてなし』では、無償の自発的な奉仕であることを裏付けとする『非商品化された感情』こそが尊ばれ、相手の見返りを求めない潔さによって質的に保証される『自分磨き』の実践という、非金銭的で人格的な機会こそを期待する。いわば金のためではなく人のため、他人のためではなく自分のために喜んでおこなうのが、理想的で伝統的な日本の『おもてなし』とされる。そして一九八0年代のスチュワーデスの『自分磨き』や、二000年代の『CA』の『自分を豊かに、大きくしてくれる仕事』と同様に、その修得に終わりはない。このような非商品化と自己研鑽こそが、日本型ホスビタリティとしての『おもてなし』を特徴づける論理である」(「5章・相続される『おもてなし』」)

自身の「感情の商品化」を強いられる従来型の感情労働に加えて、そうした感情労働ベースに「無償の自発的奉仕」にて顧客に「金銭的対価の見返りを求めない潔(いさぎよ)さ」と「終わりのない自己研鑽(けんさん)」を加味したものこそが「品格ある労働」とされる。日本的「おもてなし」の「品格労働」は「感性の鍛練」に基づく似非「審美的価値」に支えられた、まさに「おもてなし」精神の発露であって、際限なく修得に終わりのない究極的な滅私奉公サーヴィスといえる。こういった「品格労働」が今日の日本社会では、航空会社の客室乗務員を始めとする各種の職種従事者に残酷なまでに要求されるのであった。

もともと顧客サーヴィスは無償のボランティアでない限り、金銭と引き換えになされるのが当たり前である。だがしかし、品格労働においては金銭的対価の見返りを露骨に求めることなく(なぜならあからさまに金銭要求すれば、それは審美的な「品格」に反するから)、また相手に対する「機転」や「気づき」の「おもてなし」遂行のための日々の自己鍛練には「これが正解でこれで充分」の明確なゴールがなく、際限のないサーヴィス提供を滅私奉公的に働き手は強要させられてしまう。これほど強迫的な働くことへの動機付けの労働強制と客にとっての無尽蔵のサーヴィス享受にて、企業と顧客の双方にとっては実に都合が良く、逆に労働者に対してのみ異常なまでに心身の疲弊の抑圧を強いる非人道的で残酷な労働形態の労働観はない。従来の「感情労働」以上に、昨今の「品格労働」はより突き抜けたブラックな働き方のすすめといえる。

岩波新書「客室乗務員の誕生」の副題は、「『おもてなし』化する日本社会」である。このサブタイトルでの「おもてなし」という言葉は、2020年に開催が既に決定している東京オリンピック誘致のための2013年の最終演説にて、オリンピックを東京で開催する事のメリットをアピールする際に「日本人ならびに日本社会の他国にはない良さ」として強調された惹句(じゃっく)とされる。事実、「おもてなし」は東京五輪を象徴する合言葉になった。2013年の新語・流行語大賞にも選ばれて「おもてなし」の語は一躍有名になり、「おもてなし」ブームが日本社会にて巻き起こったのだった。

本新書はそうした浮き足だった日本社会での「おもてなし」ブームの内実を明確にできている。一読、迂遠(うえん)に、しかし丁寧に日本の航空会社にての客室乗務員の歴史という社会学的考察から長く論じ始めて、後半の章でホックシールドの「管理される心」の基本文献に手堅く触れ「感情労働」の問題を摘出した後に、さらにそこから深めて、東京オリンピック誘致の際の「おもてなし」演説という2010年代の時事問題に絡(から)めた上で、「感情労働」をより過酷にエスカレートさせた現代の日本社会における「品格労働」の概念提示とその深刻な現代的問題にまで言及できている。岩波新書の赤、山口誠「客室乗務員の誕生」は実に読みごたえのある優れた新書だ。