アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(369)子安宣邦「本居宣長」

江戸時代の国学者である本居宣長は、一般にはそこまで広く知られた存在ではないと思うが、歴史学を始めとして文芸批評や古典研究や政治学や倫理思想史ら各識者からの研究ないしは言及が多くなされ、本居宣長に関しては昔から活況の様相である。このことから本居宣長は、ある意味、玄人(くろうと)好みの通(つう)な歴史的人物ともいえる。本居宣長その人の概要は以下だ。

「本居宣長(1730─1801年)は国学者。伊勢松坂の医者。賀茂真淵に学び、自宅鈴の屋で国学を教え、古典研究の方法・復古神道を主張した。『源氏物語』の注釈書『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』では『源氏物語』を道徳面から批判する意見に対し、独自のもののあわ(は)れ論で『源氏物語』を評価。『古事記』の注釈書『古事記伝』では、『漢心』(漢意・唐ごころ)である儒教を排し、『古事記』の古典にみられる日本古来の精神『真心』に返ることを主張。また紀伊藩主・徳川治貞に提出した宣長の政治道徳論『玉くしげ』にて天皇の『御任』(委任)により徳川政治が行われているという大政委任の考えを示し、後の明治維新へ連なる大政奉還の理論的基礎を構築したとされる」

本居宣長によって一応の完成をみたとされる国学は、次の3つの特徴にてまとめることができる。

(1)主情主義(各人の内面にあるがままの自然感情を見出し、それに重きを置くことでの人間の生の肯定)。(2)反規範主義(個人の内的心情の人間の生の肯定の主情主義から、各人に対する外部からの規範の押し付けは、人間のあるがままの内面自然を無視した形式的作為の欺瞞として天理や天道のあらゆる規範的なものは否定される)。(3)反儒教主義(人間に対する外部からの形式的な作為を否定する反規範主義から、天理や天道を超越的に説く中国・朝鮮よりの外来思想、特に儒学に対する強い反発と排撃。その分、神代日本の天皇の治世や古典ら、日本独自の古来よりの神秘的伝統観念をその正統性にて重んじる復古的な国家民族主義的性格)

これら国学に関する3つの特徴からの理解は明治・大正の戦前に早くも本居宣長研究の成果として、村岡典嗣、津田左右吉、羽仁五郎らにより明らかにされたのち広く共有され、後の国学理解の基礎をなした。そうして国学に関する戦前の基礎研究の上に戦後の1945年以降、宣長についての研究と言及に様々なものが出てきて、後に国学と本居宣長は注目され宣長研究ないしは評論は活況を呈するのである。

戦後の国学研究・評論にての主要な本居宣長評価には、以下のものが挙げられる、

(1)国学における主情主義と反儒教主義の性格から、理論的な近代化論やマルクス主義を推進する西洋と、儒教を擁(よう)する近隣東アジア諸国(中国と朝鮮)への対抗・排他の自身の政治思想的立場を国学のそれに重ね合わせて、神代日本の天皇の治世や古典ら日本独自の古来より自然な伝統的観念をその正統性にて重んじる復古的な国家民族主義的性格を本居宣長の内に主に読み込んで、宣長の国学を高く評価するもの(小林秀雄、長谷川三千子ら)

(2)国学における主情主義と反儒教主義の性格から、各人の私的内面を掘り下げあるがままの自然感情を見出し、それに重きを置くことでの人間生の肯定の点での儒教の欲望否定の厳格な倫理主義(リゴリズム)の克服と、封建制イデオロギーとして機能していた儒教に対する痛烈批判とを国学のうちに見ることで、従来ともすれば反動復古的な「前近代」思想の典型と目されていた江戸時代の本居宣長の国学に、後の明治以降の日本の近代思想成立の萌芽を見出し、むしろ宣長を始めとする国学の先進性(近代的性格)を高く評価するもの(丸山眞男、西郷信綱ら)

(3)国学における主情主義と反規範主義の性格から、個人の私的内面を掘り下げ、国学が一見各人の欲望充足に起動する人間の主体性を尊重しているように見えながらも、他方で従うべき外部からの形式規範を否定する反規範主義の概要であるにもかかわらず、神や死後の世界や現世の運命に対し不可知で人間の無力さを説くため、現実の社会政治状況の中で日本古来の神秘性に気付き「神意」のままに従うべきとする、その時々の政治権力の支配を受け入れ自発的に従う積極的服従性を人々から引き出す人間の支配・従属の政治イデオロギーとして国学が、まぎれもなく現実機能しており、この国学の政治イデオロギー的性格が後の明治以降の大日本帝国たる近代天皇制国家における一君万民思想や国家神道や家族主義的国家観や国体論や皇国史観ら、天皇制イデオロギーの思想的基盤になったとして、本居宣長を始めとする国学を否定的に捉え問題視するもの(松本三之介、相良亨ら)

(4)従来の国学ならびに本居宣長研究の数多くの成果を踏まえ、これまであまり触れられることがなかった宣長の著作史料を新規に読み説いたり、現代思想の記号論や身体論など新たな視点から宣長の国学を扱うことで本居宣長研究をさらに前へ進めようとするもの(熊野純彦など)

ところで「国学の四大人(しうし)」として、荷田春満と賀茂真淵と本居宣長と平田篤胤が昔から挙げられる。彼ら四人は時系列でそれぞれ師弟関係にあり、江戸時代中期に国学の名称を定着させた荷田春満に後の賀茂真淵は学び、その賀茂真淵に学んだのが本居宣長であり、さらに平田篤胤は本居宣長の門人であった。この四人のうち国学を大成させたとされる本居宣長は「国学の四大人」の中でやはり一番読むべきものがある。つまりは本居宣長を境に国学は「宣長以降」とでもいうべき一つの完成を遂げたのであった。そもそも荷田春満や賀茂真淵らによる国学は実証的方法を備えた文献学的な日本古来の和歌や文学に関する古典研究から始まったが、後に日本固有の神道の宗教的要素が加わり、さらに経世論の政治的要素も加味されて一応の完成に至る。その国学の政治化の画期が「国学の四大人」の内の一人、まさに本居宣長においてであった。事実、国学思想を歴史的に読んでいくと、荷田春満を起点に賀茂真淵より本居宣長を経ることで国学が従来の単なる文学研究や宗教教説を脱し、宣長において明確に政治化の様相を帯びていき、本居宣長以降の平田篤胤の頃には国学は復古神道とされるような、完全な政治宗教に変貌を遂げていたのである。

この意味で先に挙げた本居宣長研究の4つのタイプの中でも、(3)の国学における主情主義と反規範主義の性格から、神や死後の来世や現世の運命に対し不可知で人間の無力さを説くため、現実の社会政治状況の中で日本古来の神秘性に気付き「神意」のままに従うべきとする、その時々の政治権力の支配を受け入れ自発的に従う積極的服従性を人々から引き出す人間の支配・従属の政治イデオロギーとして国学が現実機能していたとする指摘の先行研究は、現在でも実に読まれるべきものがある。

本居宣長の国学に関する「その時々の政治権力支配を受け入れ自発的に従う積極的服従性を人々から引き出す人間の支配・従属の政治イデオロギーであった」旨の考察が非常に優れているのは、国学が台頭してくる江戸中期から幕末にかけて、鎖国政策をとる日本に対し海外の欧米列強や近隣東アジア諸国の接近に伴う外圧とともに国粋主義的な日本古来のアイデンティティーに基づくナショナリズム高揚欲求の時代要請の時流の波に、日本古来の伝統を重んじる復古的な国学が見事に乗ったこと、さらには国内の幕藩体制においても貨幣経済の浸透により江戸幕府の封建体制が揺らぎ始め、その内部からの幕藩体制崩壊の危機を受けて人心の体制服従の引き締めという当時の封建支配者側からの政治的課題に宣長以降の政治宗教化された国学が見事に応(こた)えるものであったという、国学思想と江戸中期以降から幕末にかけての国内外の時代状況との符号の一致を見事に説明づけている点にある。以上のことからして前述の本居宣長研究の4つのタイプのうち、(3)の型の研究指摘は本居宣長ないしは国学の本質を捉えた特に優れた考察であると私は思う。

さて岩波新書の赤、子安宣邦(こやす・のぶくに)「本居宣長」(1992年)である。本新書は先に挙げた4つのうち、本居宣長の肯定的読み込みによる国学に依拠した排他的な自民族中心主義のナショナリズムに陥ることでの、(1)のような安直な「宣長再生」の読みに対する十分すぎる程の批判の警戒と、政治イデオロギー暴露の国学批判の(3)の系統に属する本居宣長に関する書籍である。ゆえに本書の内容は実に読まれるべきものがあり、非常に優れている。子安宣邦による本居宣長についての著作は本書を含め数冊ある。岩波新書「本居宣長」はまだ子安が宣長について書き始めの最初の頃のもので宣長に関し著者の意を尽くしていない所もあるため、本新書を読了後に子安宣邦「『宣長問題』とは何か」(1995年)まで続けて読むことをお勧めする。子安宣邦は本居宣長ならびに国学についての優秀な研究者であり、氏の江戸思想史研究は全般に優れている。よって、そこから教えられ学ぶべきものは多い。

ただ「『事件』としての徂徠学」(1990年)や「『宣長問題』とは何か」など、この人の書籍タイトルや本論中の言葉遣いが時に、ちゃちで安っぽい広告のキャッチコピーのようであるのが一つの難点か。子安宣邦の著作にて荻生徂徠の徂徠学が「事件」だとか本居宣長における「宣長問題」とか、いかにも安っぽい宣伝コピーのようで毎回、読んで私は苦笑してしまう。

「戦前、戦後の激動にもかかわらず、日本の文化史・思想史上、宣長ほど高い評価をもって生き続けてきた人物も珍しい。『日本とは何か』『日本人とは何か』が問われるとき、ほとんどつねに宣長は再生する。それは一体なぜなのか。生涯の半ばを費して完成させた『古事記伝』を徹底的に読み直すことによって、この問題の核心に迫ってゆく」(表紙カバー裏解説)

(※岩波新書の赤、子安宣邦「本居宣長」は後に岩波現代文庫から加筆版(2001年)が出ています。)