アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(373)赤坂憲雄「武蔵野をよむ」

岩波新書の赤、赤坂憲雄「武蔵野をよむ」(2018年)の表紙カバー裏解説文はこうだ。

「国木田独歩『武蔵野』。二六歳の青年が失恋の果てに綴(つづ)り、一二0年前に発表されたこの短篇(岩波文庫でわずか二八頁)は、当時にして新たな近代の感性に満ち、今にして豊穣で尽きせぬ発見がある。独歩の日記、古地図、植生や水利等の資料を駆使した、冒険的かつ愉楽的な精読。その先に武蔵野学のはじまりを予感しながら─」

明治の文学者、国木田独歩(1871─1908年)の代表作の一つとされる「武蔵野」(1898年)は、赤坂「武蔵野をよむ」のカバー裏解説文にあるように「岩波文庫でわずか二八頁」しかなく、確かに「短編」である。枚数が少なく短時間ですぐに読めてしまう。そうした国木田独歩の「武蔵野」をテーマに精読の形で果たして200ページもある新書を書き抜けるのか!?本新書を手に取り読み始める前、私にはそうした不安があった。たかだか28ページの「武蔵野」について、ありきたりの常識的な文学論解説や作品に関する枝葉末節な著者による細かな読み込み蘊蓄(うんちく)、はたまた独歩の創作裏話の紹介などで誤魔化されてしまうのではの危惧が正直あったのだ。事実、私達が日常で小さい何かについて語ったり書いたりするとき、そのものについてのそもそもの理解が浅く、ゆえにすぐにネタが尽きてしまって無難でありきたりの常識論にやがては収束してしまったり、つまらない蘊蓄裏話で話が間延びし循環して聞き手や読み手を退屈させ失望させてしまうことはよくある。

だが岩波新書「武蔵野をよむ」は違った。そうした不安は本書を一読して見事に吹き飛んだ。「あとがき」の結語まで読んでみれば、著者は国木田独歩の「武蔵野をよむ」の執筆連載を岩波書店の月刊誌「図書」で行っており、またその連載と平行して大学院にて「国木田独歩の『武蔵野』をよむ」という演習講義も開講していたという。著者は独歩の「武蔵野」について非常に読みなれていて、かなり読み込んでいる。国木田独歩の日記「欺(あざむ)かざるの記」(1909年)からうかがい知れる独歩の失恋体験、武蔵野の古地図、当時の植生や水利等の資料、日本近代文学に見られる日本人の自然観など。そのため「武蔵野」精読の話が広さと深さとを持って無理なく膨(ふく)らむ。常識的なありきたりの文学解説や枝葉末節の蘊蓄披露のトピックに読者は誤魔化されることがないのだ。赤坂憲雄「武蔵野をよむ」は、わずか20ページ強の短編を丁寧に読み込むことで無理なく200ページの新書に出来ている。

昨今は書籍を速く読んだり、多く読み重ねたりする速読や多読が流行し、その手の速読や多読の方法論が注目され、「どれだけ短時間で一冊の本を速く読めるか」「どれだけ多くの書籍を効率よく読んで知識を集積できるか」といったことばかりに人々の関心興味が集まりがちである。そうした時勢にあえて反し、ここで岩波新書「武蔵野をよむ」のようにひとつの短編を一冊の新書の長さにまで広げて、じっくり読み込み堅実に読み解く「精読の楽しみ」といったものを本書を介し私は改めて実感した。

武蔵野は、かつての古代律令制下での地方行政区分の「武蔵国」に由来した名称であり、関東地方の埼玉県川越市以南から東京府中に拡がる地域と一般にされる。国木田独歩「武蔵野」は、その名の通り武蔵野を主題とし、武蔵野の風景美と詩趣を描いた随筆作品である。明治の時代の国木田独歩が実際に見て歩いた散策して触れ得た武蔵野は東京近郊に広がる雑木林と畑と野原からなる自然の風景であった。そうして東京郊外に広がっていた武蔵野の自然の風景は、その後の都市化の進行により徐々に失われていき、今ではその面影はほとんど残されていない。

ここで岩波新書「武蔵野をよむ」から記述を引こう。

「秋から冬、春にかけて、独歩は八か月ほど渋谷村に暮らした。いまの渋谷区宇田川町のNHK放送センターのかたわら、歩道の隅に標識が立っている。そこには、『国木田独歩住居跡』とあるはずだ。ともあれ、明治三十年代、そのあたりはいまだ郊外であり、その向こうには武蔵野がはるかに広がっていたのである。独歩は雑木林や野のなかのほそい道をくりかえし散策した。そして思索と瞑想に耽(ふけ)りながら、それを『欺かざるの記』という日記に書き綴った。『武蔵野』はのちに、その日記を起点にして書かれた。そこにはたとえば、近代のあたらしい旅と、あたらしい紀行の形が鮮やかに提示されている。このとき、散策という名の旅が生まれたのではなかったか」(「はじめに・挽歌をたずさえて」)

また著者の赤坂憲雄は、明治の時代に国木田独歩が散策した武蔵野の自然と、後の「独歩の時代からははるかに遠」い、自身が実際に見て触れて歩いた昭和三十年代の武蔵野の自然の風景とを重ね合わせ次のように書く。

「五感を研ぎ澄まして紡(つむ)がれた自然描写がいい。冬枯れの武蔵野である。空と野を取り巻く景色は、たえず変化している。日の光、雲の色、風の音。時雨(しぐれ)の囁(ささや)き、凩(こがらし)が叫ぶ。黄葉の林では、澄みわたる空が梢(こずえ)の隙間から覗けている。陽光は風に動く葉末ごとに砕ける。雲の影、緑の光。橋のしたでは優しい、人懐かしい水音がする。どのページをひもといていても、そこにはきっと、光と影がからまり、かけそき音が風景を奏(かな)でている。独歩の時代からははるかに遠く、昭和三十年代の武蔵野の雑木林や野原で、幼いわたしはたしかに、独歩が描いたそうした風景のかけらをそれと知らずに眺めていた。葉がすっかり落ちた雑木林のなかで、ふと見あげた蒼白の空を忘れない」(「はじめに・挽歌をたずさえて」)

国木田独歩「武蔵野」には、イギリス詩人のワーズワースの影響を強く受けたロマン主義的田園文学の位置付け評価がよくされる。岩波新書「武蔵野をよむ」の「よみ」の一端もその評価を軸にしている。このことは先に引用した「五感を研ぎ澄まして紡がれた自然描写がいい。冬枯れの武蔵野である」云々の著者の書きぶりから、うかがい知れる。著者の赤坂憲雄は東京に生まれ住んで、昭和三十年代の武蔵野を現実に散策して国木田独歩のかつての「武蔵野」の自然を体感したのであった。

非常に残念なことに東京に住んだ経験のない私は、実際の「武蔵野」の自然を味わったことがない。その代わり、国木田独歩の作品の中では「春の鳥」(1904年)が昔から好きだ。小説「春の鳥」の舞台は大分県佐伯の佐伯城跡の城山である。大分生まれの大分県人である私は、大分佐伯の城山を昔から知っている。佐伯の城山の山頂には「独歩の碑」がある。城山のふもとには市民文化会館と小学校があり、また国木田独歩の記念館もある。国木田独歩は明治26年に鶴谷学館という学校の教師として赴任し、一時期大分佐伯に在住していた。そのとき独歩は佐伯の城山を好み、よく登ったという。この経験をもとに城山を舞台にした「春の鳥」は執筆された。独歩の「春の鳥」は、鳥の真似をして城の高い石垣の上から空中に飛び墜落して亡くなった六蔵という少年とその母の話である。大分生まれの大分県人である私は、佐伯の城山の多くの木々や柔らかな風やまぶしい光の山道の自然も城山からの美しい眺望も、ふもとの町の様子も昔からよく知っている。

あと岩波新書「武蔵野をよむ」には国木田独歩の同時代人として、二葉亭四迷、北村透谷、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、田山花袋、志賀直哉ら、また近代日本の民俗学や戦後の文芸批評の人達として、柳田国男、宮本常一、前田愛、川本三郎、柄谷行人らが出てくる。

そのなかでも柄谷行人「日本近代文学の起源」(1980年)は、国木田独歩を扱った戦後日本の近代文学研究ならびに文芸批評の中で確実に五本の指に入る優れた仕事であると私は思う。柄谷「日本近代文学の起源」は、もともと自明で昔から当たり前に先天的にあったと目されている人間主体にとっての「風景」や「人間の内面」や「告白」や「病」や「児童」が、人間の内的な気付きや志向性らに由来した自発的なものではなく、実はある時代のある時期に外部から与えられた物質的制度(言文一致や公的医療制度や学校など)を介して後天的に作られ、しかもそれらを成り立たしめる外部からの物質的な制度や技術があって始めて「発見」されたり「意味付け」られたりして、ある時代のある時期に新たに生成されるものである、そして、それが歴史的なものであるがゆえに一度生成されると自然とその起源を隠蔽(いんぺい)し、そのものへの起源の由来溯行(そこう)を遮断して、あたかも昔から当たり前に先天的にあったかのように錯覚されてしまう歴史主義的普遍思考の作用を明らかにする旨の考察である。この「日本近代文学の起源」の「風景の発見」において柄谷が国木田独歩「忘れ得ぬ人々」(1898年)を、同様に「内面の発見」にて独歩の「武蔵野」を使う文芸批評の手並みの鮮やかさは実に見事だという他はない。岩波新書「武蔵野をよむ」にも、「日本近代文学の起源」にての柄谷行人による国木田独歩「武蔵野」への言及を引用し使っている箇所がある(63・64ページ、144─148ページ)。
 
ところで、国木田独歩の日記は「欺かざるの記」である。この私的日記のタイトルから察せられるように、国木田独歩や独歩没後の周囲の関係者らには、人間の内面の「自然」な本心はもともと自明のものとして存在し、何ら「欺く」ことなく誤魔化すことなく誠実に正直でありさえすれば自身の真実の姿の本心の吐露は可能であると素朴に信じ込まれてしまっている。人間の真実めいた内面の存在が先天的に当たり前のように想定されているのだ。思えば国木田独歩が執筆創作していた1900年前後の20世紀初頭の日本は、自然の事実を観察し「真実」を描くために大袈裟(おおげさ)な創作美化を否定する自然主義文学が隆盛の時代であり、また民衆(特に労働者)が直面する厳しい生活現実を描き出そうとするリアリズム志向のプロレタリア文学がやがては台頭してくる時代であった。独歩も初期のロマン主義の作風から自然主義の文学へ、やがては転回して行く。

岩波新書「武蔵野をよむ」を参照すれば明白なように「武蔵野」執筆時に国木田独歩は、佐々城信子との熱烈な恋愛にて周囲の反対を押しきっての駆け落ちの末の結婚であったが、その結婚生活は早くも破綻し離婚。「武蔵野」執筆時の独歩は信子との失恋・離婚の痛みの渦中にあった。熱烈なキリスト者でロマンチストであった独歩には相当な精神的痛手であった。そこで国木田独歩が東京近郊で暮らした「武蔵野」の自然風景である。昔から「武蔵野」の自然として、生い茂る雑木林や日の光や風の音や水の臭いや四季の移り変わりはあった。素朴な素材としての木や光や風や水や四季の「武蔵野」の自然はそのものとして前からあったのだ。ただし、柄谷行人「日本近代文学の起源」に依拠して語るなら、国木田独歩の失恋の内面を通して見られる人間主体の心情からの投影を介し改めて観察され感受されるような、「武蔵野」の自然を愛(め)でる人間の内的感情に呼応した複雑で立体的な自然の「風景」は作者の国木田独歩を介して「武蔵野の風景」として、このとき「武蔵野」という日本近代文学の作品の中で初めて成立したのであった。

岩波新書の赤、赤坂憲雄「武蔵野をよむ」を一読後、私は柄谷行人「日本近代文学の起源」を久しぶりに読み返したい強い衝動に駆られていた。