アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(375)森島恒雄「魔女狩り」

「魔女狩り」とは、「魔女」とされた被疑者に対する訴追、裁判、刑罰の手続きを経た公的司法、あるいは法的手続きを経ない私刑等の一連の迫害を指す。魔術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えることは古代から行われていたが、ヨーロッパ中世末期には悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」概念が生まれるとともに最初の大規模な魔女裁判が起こったとされる。

さらには歴史的な考察を踏まえて、現代でも「魔女狩り」という言葉が時に使われることがある。あるコミュニティや政治体制下にて、思想的偏見にもとづいて行われる糾弾・排除行為のことを「魔女狩り」と隠喩(いんゆ)する。例えば1950年代にアメリカで吹き荒れた、共産主義者追放の取り締まりであるマッカーシズムの嵐(「赤狩り」)や、1960年代からの中国での文化大革命にての反乱分子のあぶり出しによる粛清が現代の「魔女狩り」と称されたりする。また閉鎖的な前衛左派運動組織の内での同志による特定個人への理不尽な吊(つる)し上げや「総括」に対しても、その異常な現象が「魔女狩り」に喩(たと)えられることがある。

岩波新書の青、森島恒雄「魔女狩り」(1970年)は、そうした「魔女狩り」について当時の文献史料を引用し、詳細に読み解きながら現実に中世末期のヨーロッパにて数多く行われた「魔女狩り」の実態を明らかにしたものだ。本書の概要は以下である。

そもそも「魔女」と称される人は、古代の時代の昔よりヨーロッパのキリスト教国にて少なからず存在した。「魔女」とはキリスト教の異端信仰の持ち主ないしは非キリスト者で、地域の集落から孤立し一人で暮らしている孤独で醜悪で邪悪な老婆のイメージでとらえられてきた。確かにキリスト教国にて古代の昔から、そういった魔女に対してへの迫害はあったが、それらは必ずしも組織立ったものではなく、突発的で散発的な私刑(リンチ)的暴力であった。本書の記述によれば、古代よりの「魔女狩り」は「安泰だった『古い魔女』の時代」のそれであって、教会は魔女に寛容であり、その弾圧は極めて微温的であったばかりでなく、むしろ魔女に対し温情的ですらあったという。

そして同様に本書記述によると、「ともあれ、…魔女は十二、三世紀ごろまではまだ安泰であったと結論できることである。ところが、一三00年を境として事態は一変する。魔女に対する教会の態度が、にわかに硬化するのである。魔女の歴史は、ここで平穏だった古い魔女の時代を終えて、不安動揺の時代に入ることになる」。

なぜこのように寛容でむしろ温情的ですらあった魔女への対応が、1300年頃を境に険悪で過激な「魔女狩り」がヨーロッパ各地で横行する事態に変化したのかといえば、その主な理由には次の二つがあった。一つは当時に勃発したキリスト教内での大規模な異端運動(カタリ派の革新運動や「リヨンの貧者」の改革説教運動ら)が教会当局に与えた深刻な影響であり、もう一つは売官や贖宥状(しょくゆうじょう)の販売ら教会腐敗に伴うローマ・カトリック教会の権威低下の、いわゆる「神の危機」であった。これら異端発生と教会堕落によるキリスト教会権威の低下の危機を受け、教会権威の立て直しの体制引き締めのために、1233年に異端審問制の宣言がローマ教皇庁よりなされる。異端審問制とは、異端者改宗のために教皇が修道士その他の者を異端審問官として教皇庁から各地に派遣・駐在させる制度である。その異端審問の強制的な異端弾圧の過程で異端者の告発理由の一つに「魔女的行為」が付け加えられ、そのことで異端者と魔女は混淆(こんこう)されて異端審問の中に魔女裁判が包含されることとなった。つまりは、そもそものヨーロッパ中世の「魔女狩り」の魔女裁判とは、それ自体で独立して最初に大々的に行われたものではなく、異端審問制の一部として魔女裁判はあったのであり、当初の萌芽期の魔女裁判は異端者と魔女との曖昧(あいまい)な混淆による擬似的魔女裁判(「もぐり裁判」)であったのだ。

そうして1318年に、いわゆる「魔女狩り解禁令」の発布により、異端審問制から出発した擬似的魔女裁判はもっぱら魔女の異端性を証明する専門的な魔女裁判へと変化していく。こうした魔女裁判独立の動きの中で「魔女とは何か」の理論的整備が徐々になされていき、例えば以下のような魔女定義が成立し社会に定着していった。「魔女は悪魔と結託することによって、おのれの目的を遂げようとする者」(ジャン・ボダン「悪魔崇拝」)、「魔女は悪魔と結んだ契約の力によって、常識では理解できない不思議を行う者」(デル・リオ「妖術研究」)。ここでの魔女が持つ「不思議な力」とは、より具体的には空中浮遊、呪文・呪術による人畜加害、魔女集会の開催などである。魔女である証拠としては、本人の自白や他の者の密告・証言、悪魔との結託の印として当人の身体に出る「魔女マーク」の存在があった。

このように魔女裁判は1230年代よりキリスト教会により異端審問の一部の疑似的魔女裁判(「もぐり裁判」)として組織的に始まり、1310年代には専門的な独立した魔女裁判となり、魔女狩り旋風はヨーロッパのキリスト教国全土に吹き荒れた。魔女狩りの最盛期は1400年代から1600年代の15世紀から17世紀の間であったが、17世紀末になって急速に衰退していく。やがて18世紀に入ると魔女裁判は終息するに至った。魔女裁判のピークを過ぎた17世紀には各地の国王ら世俗権力者が、もはやローマ・カトリックのキリスト教会の権威に奉仕・同調しなくなり、権力支配者がキリスト教会から世俗の各地の国王に取って代わり、したがって教会権力が中世普遍世界の統括のために異端者や「魔女」を創出し追及・処罰する異端審問と魔女裁判をもはや必要としなくなったためであった。時代は宗教的権威による政治支配の中世から、合理的科学による近代のそれへ新しく動き始めていた。本書記述によれば、ヨーロッパ中世の「魔女狩り」にて迫害・処刑された人の数は30万人から300万人まで諸説あるという。

「魔女狩り」が行われた理由については、従来さまざまな説が唱えられてきた。代表的なものとして、犠牲者の財産没収を目的にした「金銭目当て説」、キリスト教を信仰しない者への迫害たる「異教説」、戦争や天災に対する怒りをぶつけたとする「災禍反応説」、権力者が支配を誇示する手段として用いた「社会制御手段説」などである。本書では、財産没収を狙った「金銭目当て説」(テンプル騎士団に対しての「もぐり魔女裁判」の事例。54─56ページ)と、相手を「魔女」と決めつけることでの「政敵追い落とし説」(ジャンヌ・ダルクの魔女裁判の事例、56─58ページ)が取り上げられている。

岩波新書「魔女狩り」に対し、本書は一般読者向けの新書であり、1970年に初版の書籍であることから「専門的な研究考察というよりは、厳密に述べられていない適度に省略され易化された軽い読み物」とか、「近年の新しい研究成果が取り入れられ紹介されておらず、内容的に古い書籍」などの酷評も時に見られる。しかし岩波新書の青、森島恒雄「魔女狩り」は今でも読まれるべき良心的で定番の名著であると私は思う。本書から私達が学びうる、現在でも押さえておかなければいけない「魔女狩り」についての重要論点は以下の2つだと私には思える。

(1)「暗黒の中世」史観からヨーロッパ中世の封建社会は非合理な宗教的迷妄に人々が支配された時代で、不条理な異端排除の迫害たる「魔女狩り」は、あたかも中世の全時代に渡って絶え間なく連続して実施されてきたように思われがちであるが、実はそうではない。前述したように、ローマ・カトリック教会の教皇庁により「魔女狩り」がヨーロッパ各地で大々的・組織的に行われ、その迫害内容が先鋭化・過激化していくのは1300年に入ってからの中世末期の時代であって、「魔女狩り」横行の時代は極めて限定的であった。1300年以前の教会は魔女には寛容であり、むしろ温情的ですらあった。

本書には直接に書かれていないけれども、1300年代の14世紀というのは、これまで繰り返されてきた教皇が各地の国王に命令し遂行していた十字軍遠征(1096─1270年)の失敗が明白となり、その結果、教皇の権威は大きく揺らぎ失墜して中世社会の崩壊を招く、まさに近代に移行して行く過渡期の中世キリスト教社会崩壊の始まりの時代であった。かつ教会内にて売官(金銭を出す者に重要な聖職を叙任する行為)が横行し、ついには贖宥状(しょくゆうじょう・金銭を出してこの書状を買えば罪は消え、地獄に堕ちるはずだった人間も天国へ行くことが出来るというもの)を教会みずから売り出すにまで至る。贖宥状が最初に出たのは1315年であって、この時期は教会腐敗に伴うローマ・カトリック教会の権威低下の、いわゆる「神の危機」の最も深刻な時期にあった。それゆえ当時のキリスト教会には、過激な「魔女狩り」を組織的に遂行して人々への信仰体制引き締めの必要があったのだ。14世紀前の、キリスト教会が万全で安定した権力支配体制にあった中世末期以前の時代には「魔女狩り」は、そこまで組織だって過激に実施されることはなかった。

「魔女狩り」は、あたかも中世の全時代に渡って長く絶え間なく実施されてきたように思われがちであるが、実際はローマ・カトリック教会の権威が失墜し教会権力が不安定となって、いよいよ中世社会が崩壊の兆(きざ)しを見せ始めたとき、それも1300年代の中世末期の14世紀からローマ教皇庁の宗教的権威回復と体制引き締めのための圧力によって「魔女狩り」が初めて本格化し激化していった歴史を押さえておきたい。

(2)「魔女狩り」の通俗イメージとして、魔女への迫害は路頭で人々が「魔女」と疑われる人物を吊し上げ罵声を浴びせて暴力を振るったり、屋敷を取り囲んで投石し放火して追放し、時にそのまま死に至らしめたりするような奔放過激な私刑(リンチ)たる集団ヒステリーの、人々の尋常ならざる精神状態下での異常行動のように思われがちであるが、実はそうではない。ローマ教皇庁から各地に派遣・駐在の異端審問官による異端審問制の一端として組織立って本格化した魔女裁判をその柱とする「魔女狩り」は、キリスト教会開廷の魔女裁判という公的な裁判制度の下で、ある意味「合法的に」行われたのであり、人々の排他の暴力やヒステリー的狂態がそのまま露出するような突発的で恣意的な私的処刑では決してなかった。

魔女裁判はあくまでも「裁判」であるから、「逮捕─投獄─証言と弁護─尋問(実質は拷問)─判決─刑罰」の法的手続きに従って「合法的に」に行われた。ただし、ある被告を「魔女」とする証拠・証言はほとんど根拠のない言いがかりの、でっち上げであったし、被告への弁護はどこまでも形式的で実効威力はなく、しかも尋問とは名ばかりで実質は過酷な拷問の上での自白の強要による自白第一主義にて「有罪」と決まるのであるから、魔女裁判のほぼ全てが無実者が有罪判決を受ける冤罪(えんざい・つまりは「濡れ衣」)であり、逮捕・投獄される者にとっては誠に不条理な、まさに「救いなき暗黒裁判」なのであった。

岩波新書「魔女狩り」の著者の森島恒雄は、科学思想史が専攻の人で法律学の裁判制度史は専門外なため、本書にてほとんど言及していないが、中世の「魔女狩り」における魔女裁判は、一応は公的な裁判の形式制度を採(と)ってはいるけれど、その裁判の内実は後の近代の(現代の)裁判制度とことごとく異なる。今日確立されている公的裁判制度における、特に被疑者・被告人に保障されている各種の権利原則─例えば推定無罪の原則、拷問による自白強要の禁止、黙秘権の保障、罪刑法定主義、「疑わしきは罰せず」ないしは「疑わしきは被告人の利益」の原則は、中世の魔女裁判のそれと著しい対照(コントラスト)を有して明確に異なっている。このことは中世の「救いなき暗黒裁判」たる魔女裁判から後の人々が学んで近代の裁判制度に生かした成果である。この意味で中世ヨーロッパの「魔女狩り」における魔女裁判は、人間社会にとっての「負の遺産」であると同時に、近代から現在に至る正当な公的裁判制度確立のための反面教師的教訓になっていたことも忘れずに押さえておきたい。