アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(377)亀田達也「モラルの起源」

岩波新書の赤、亀田達也「モラルの起源」(2017年)によれば、人間のもつ価値や倫理は、自然科学の経験的事実による知識と人文科学の理論的考察による知恵よりなる。そこで本書では人間社会の利他、共感、正義やモラルといったテーマに関し、自然知と人文知が隔絶して互いに無縁のものではなく、豊かな関わり合いをもち得る可能性を思考実験を便宜交えながら探り出そうとするものだ。この「自然知と人文知との豊かな関わり合いの可能性」とは、本新書のサブタイトルに「実験社会科学からの問い」とあるように、著者が志向する「実験社会科学」の概要のうちに集約されている。

本書での説明によると、「実験社会科学」とは「実験が切り開く二一世紀の社会科学」であり、「経済学、心理学、政治学、生物学など、異なるバックグラウンドをもつ研究者たちが結集し、『実験』という共通の手法を用いて、人間の行動や社会の振る舞いを組織的に検討しようとする共同プロジェクト」なのであった。理系と文系の専門性の垣根を越えて「異なるバックグラウンドをもつ研究者たちが結集し、『実験』という共通の手法を用いて」社会学をやるというのが文字通り「実験社会科学」のミソなのである。

そうして人間社会の利他、共感、正義やモラルといったテーマに関し、自然科学の知については、脳科学や進化生物学や霊長類学や行動科学らから最新の知見が紹介されている。例えば自然淘汰と適応、適応環境としての群れ(生き残りシステム)、進化生物学における互恵的利他主義、脳科学における眼窩前頭皮質での意思決定、情動伝染に関わるホルモン・オキシトシンが促進する利他行動などだ。

同様に人文科学の知については、宗教学、政治学、心理学、現代社会理論からの定番理論の論及に至る。例えばマキャヴェリ的知性、ホッブズの「自然状態」、「コモンズ(共有地)の悲劇」のジレンマ、ベンサムの「最大多数の最大幸福」の功利主義、ロールズの「無知のヴェール」などである。

岩波新書「モラルの起源」は全170ページほどであり、新書として紙数は比較的少ない。タイトルは「モラルの起源」としながらも、人間社会にて利他、共感、正義やモラルといったものがどのように生じ、何しろ人間社会にとってのモラル(倫理)は単に当人が単独で保持し遵守しているだけでは無意味であるから、少なからずの同時代の他者や共同体全体に相互了解で共通して認識され正当と信じられ実践されていなければ、それは利他や共感や正義のモラルにはなり得ないわけで、そうした倫理価値生成にまつわる共同化の原理や歴史的形成過程を本新書では解説していない点に不備が残る。また多くある、時に並存してある複数の倫理のなかでどれがより適切で切に遂行されなければならない倫理なのか、望ましい人間倫理に関する吟味の考察もない。今日の社会では擬似普遍性や似非(えせ)正義論や「マナー」という名のもとでの同調圧力ら、モラルの誤った使われ方の問題が特に深刻である。しかしながら本書にてその点に踏み込んだ詳しい考察は残念ながらないのである。

岩波新書「モラルの起源」は、著者が志向する「実験社会科学」と称する文系と理系の壁を越えた様々な分野の学問から思考実験を交えて人間のモラルに関する様々な研究報告や理論を、その都度(しかも著者の意向に沿うものばかりあえて集中的に選択して)紹介していく内容の書籍だ。総ページ数が比較的少ないので各報告や理論のトピックについて、そこまで深く掘り下げて詳しく論じられていない。ある程度の勉学を重ねている読者よりは、例えばベンサムの「最大多数の最大幸福」の功利主義哲学やロールズの分配正義の哲学をまだ読んだことがなく、その概要を全く知らないような、大学新入学の10代の若い学生にこれから大学でやる学問の全体的な見通しを大まかに指し示すオリエンテーリングの紹介パンフレットのような新書に私には思える。またこれくらいの内容ならば岩波新書ではなく、10代の中高生向け読み物であるジュヴナイル版の岩波ジュニア新書に収められても本書は差し支(つか)えないように私には思えた。

ところで近年、文系専攻の学者が哲学や文学や歴史学などが理系科目同様に有用であり人々の役に立つことをやたらアピールする書籍を書くので、そのことを私は苦々しく思っていた。これには2013年頃からの文部科学省による全国の国公立大学に対する、特に文系学部・大学院に向けての「有用性や実益性がある社会的役割を踏まえた学問へ」の提言の上からの締め付けがあるかららしい。それにともない文部科学省の提言要求を満たさない該当文系学部と大学院研究科に対する、学生の募集人員の縮小とともに教職員配置と公的補助金のあからさまな削減という水面下での無言の政治的圧力があるようである。このことに関係して、岩波新書「モラルの起源」の「はじめに」で著者の亀田達也は次のようなことを書いている。

「教育学部や文学部を対象に、文系の学問が社会に役に立っていないのではないかという批判が、ここ十数年ほど、政府や産業界を中心に表明されてきました。二0一三年には、国立大学の機能強化の一環として、文部科学省と各大学が意見交換を行い、それぞれの分野ごとの『強み・特色・社会的役割』が『ミッションの再定義』としてまとめられました。それを踏まえ、ついに二0一五年六月八日、文部科学大臣から全国の国立大学に対して、速やかな組織改革に努めることを求める公式通知が出されたのです。…本書は、文系がその内向きの傾向や『激痩せ』を脱し、豊満さを取り戻すための道筋…を、私が専門とする実験社会科学を出発点に描こうとするチャレンジです」「人文社会系の学問が私たちの生きている現代社会の要請に対して実際に『役に立つ』こと、個々の問題に対してマニュアル的な『答え』を与えるのではなく、より原理的なレベルでの『解』を与える可能性をもっていることを少しでも描けたら、筆者にとって望外の喜びです。この(無謀な)目論見が、先の文部科学大臣通達に対する、現時点での私なりの『ミッションの再定義』です」

文系の学問には理系のそれとは異なり、「産学共同」や「軍学共同」といった産業資本や国家の軍事に直接的に協力奉仕するような自らの有用性や効率性のアピールには到底終始しない学問の本領があるはずだ。文系の学問には、合理的計算性から離れた所で人間にとっての真善美の卓越性を極めたり、人々の間での悲しみや気遣いや敬(うやま)いの育て上げに尽力したり、現実政治や政治権力の腐敗・暴走を防ぐために批判精神を保持したりするなど、目先の損得勘定や実用性に安直に回収されることのない学問の深さが本来は確実にある。しかしながら、岩波新書「モラルの起源」では「人文社会系の学問は現代社会にて実際に『役に立つ』べきものであること」の上からの文部科学省通達を無批判に受け入れ、その文部科学大臣の最後通告に全面的に応(こた)えて、文系学問の有用性アピールこそが実験社会科学を志向する「現時点での私なりのミッション」である旨を著者は平気で能天気に書いてしまう。

大学でやる学問には、社会利益に即還元されない、目先の損得や有用性や効率性に容易に回収されないものがあることを著者の亀田達也は知らない。実に噴飯であり、私は氏の学者としての力量を疑い思わず軽蔑してしまう。こういった点も岩波新書の赤、亀田達也「モラルの起源」を読んで率直に残念だと感じるところである。

「私たちヒトは、うまく群れ生活を送っていけるように、その心を進化させてきた。しかし、『群れ』や『仲間』を大きく超えて人々がつながる現代、私たちが対立を乗り越え、平和で安定した社会を築くにはどうしたらよいのか。『実験社会科学』という新たなアプローチで、メタモラルの可能性を文理横断的に探る意欲作」(表紙カバー裏解説)