アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(383)渡辺照宏「死後の世界」

私達は死の問題について無関心ではいられない。しかし、私達は死に関したはっきりしたことを何も知らない。「死後の世界は存在するのか、そもそも存在しないのか!?」こういう形で問題を提起しても、死後の世界の存在を誰も肯定することも否定することも容易ではない。なぜかといえば「ある物事が存在する・しない」とは、当人の経験的知識に基づくものであるが、人が既に亡くなって死後の世界が仮にあって、その世界に実際に行って世界を見聞した死者がいたとしても、その人は死者なので死後の世界の有無を含めた死後の世界の詳細を、生きている世界の私達に知らせることが原理的に不可能であるからだ。

ただし、その例外はある。それは一度死んで死後の世界に行こうとするが、いよいよ死に至る過程の直前で突如再び生の世界に引き戻されるという、いわゆる「臨死体験」にて。人はかろうじて直前まで行って体験した死後の世界の入口までの様子を「臨死体験」として、生還した者が生きた世界の私達に経験的に見てきたことを語り知らせることはできる。だがしかし、そうした死後の世界の門前(入口)までの詳細報告の死後の世界についての確かな見聞の例外たる「臨死体験」を除いて、私達は死後の世界の存在の有無とその詳細について何ら確実なことは依然として知らないし、絶対に確実なことは何も言えないのである。

ところが、世の中にはそうした不可知な死後の世界について「死後の世界は存在する!」と明快に言い切り、しかもその死後の世界の詳細をまるで自身が実際に行って見て来たかのように(笑)、自信満々で語る人がいるのだから誠に私は恐れ入る。それは宗教者や霊媒師や超常現象研究者などを自称する人達である。そうした人々が各々に語る死後の世界の詳細についての書籍を私は一時期、集中して読んだことがある。例えば、以前に化学物質「サリン」を使いテロを起こして社会を震撼させたある教団や、人間の「幸福」について「科学」的アプローチから追求している宗教組織や、往年の名俳優が語る「大霊界」の死後の世界の話や、主に除霊や先祖供養をやっている神道系の地方で地道に活動している宗教団体や、イタコで死人の呼び寄せができる霊媒師などが執筆した死後の世界に関する書籍だ。

死後の世界については、前述したように、そもそも誰もが明快に語って報告できることがない原理的に不可能な事柄であるのだから、それら死後の世界に関する書物を読んで「いかん、これは明らかに詐欺だ」と私には率直に思えるのだけれど、詐欺師のだます人がいれば、その詐欺に引っ掛かるだまされる人も確実に一定数いるのが私達が現に生きるこの現実世界(リアルワールド)の馬鹿馬鹿しさ、だが愛すべき馬鹿らしい人間世界である。

詐欺の心理的機制は、だまされるカモが社会の中にあらかじめ一定数いて、その人達は愚かにも、不可知で分からないことの曖昧(あいまい)さに普通の人は耐えているのに、その不可知の曖昧さに耐えられずに単純明快な説明の答えを潜在的に激しく欲していて、そこに詐欺師となる悪意ある人や組織集団が普通の人は到底知り得ないと感得して、ある意味あきらめている事柄であるにもかかわらず、なぜか理論的根拠なく「実は真実の真理はこれこれこうで!」のフェイクのガラクタを目の前に自信満々に提示するので、いつも単純明快の説明の答えを潜在的に欲しているだまされやすい詐欺のカモの人は、その根拠なき大言壮語を安易に信じてしまい結果、見事だまされてしまうわけである。

同様に、人の人生には「これさえ手に入れれば、たちまち人生の一発逆転ができる」とか、「このことさえ知って身につけておけば、一生金銭には困らず経済的に不自由しない」などの究極万能なものなどあるわけがないのに、世間のほとんどの人々がそのような究極万能なものが不在の現実の世知辛(せちがら)さに日々耐えながら生きているにもかかわらず、詐欺でカモにされる人は、その世知辛さに耐えきれずに、そうした究極万能なものを安易に潜在的になぜか激しく欲しているため、そこに詐欺師となる悪意ある人や組織集団から付けこまれフェイクのガラクタを目の前に自信満々に示されて、案の定それに食い付いてまたもや見事にだまされてしまう。このことから、人が詐欺に引っかからないための詐欺の心理的機制の原理を踏まえた教訓はこうだ。

「世界の真実の真理は誰にも明快に言い当てられるわけがなく、人生の一発逆転などの究極万能なものもほとんど存在しないのだから、そうしたものを潜在的に激しく安易に欲するな。不可知で分からない曖昧さ、万能ではない不自由さを自分の内に受け入れて耐えろ。無駄に詐欺師につけこまれないために」

以上に尽きる。人間の死後の世界についても同様である。人が既に亡くなって死後の世界が仮にあって、その世界に実際に行って世界を見聞した死者がいたとしても、その人は死者なので死後の世界の有無を含めた死後の世界の詳細を生きている世界の私達に知らせることは、「臨死体験」といった例外を除いては原理的に不可能であるのだから、死後世界の不可知な事柄の存在証明を安易に激しく手に入れたがったり、死後の世界の詳細を無闇やたらに知りたがったりしてはいけない。そういうのは、不可知な死後の世界について「死後の世界は存在する!」となぜか明快に言い切り、しかも不思議なことに死後の世界の詳細をまるで自身が実際に行って見て来たかのように自信満々に語る宗教者や霊媒師や超常現象研究者などを自称する人達の詐欺的言説の格好のカモになるだけだ。

さて岩波新書の青、渡辺照宏(わたなべ・しょうこう)「死後の世界」(1959年)である。岩波新書は学術新書の老舗(しにせ)であるし、著者の渡辺照宏はインド哲学と仏教研究専攻の学者であるので、本書テーマの「死後の世界」について「死後の世界などない。そんなものは人間の錯覚の妄想」と過激に全否定することもなければ、また「いや死後の世界は確実に存在する。その詳細は以下で」云々と怪しく力説することもない。

本新書の序論「問題のとりあげ方」を読むと、「人間のみが死について観念できる動物であるが、われわれ人間は死後の世界について何ら確実なことは知り得ないのだから、本書では死後の世界が実在するか否かという問題を直接に論ずる代わりに、『死後の世界』について人類がこれまでどのように考え、どう信じてきたがということを問題としてとり上げたい」旨を著者の渡辺照宏は書いている。これは死後の世界の有無とその詳細を積極的に知りたいと思い、本新書を手に取った読者からはすれば、論点ズラしのごまかしと思われるかもしれない。だが、「死後の世界」について誰もが明確に語れないのであるから、人々の耳目を自分に集めたいがために「死後の世界は実在する!その詳細はこれこれこうで」云々と無理筋に軽薄に言い張ってしまう人々よりは、岩波新書「死後の世界」の著者の渡辺を私は確実に人として信用できる、皆が平等に分からない不可知なことについて、自分だけがあたかも真理を知っているかのような不確かな嘘を言ってはいけない。そういうのは人間としての誠実さに欠ける。

このように、死後の世界の実在を直接に論ずる代わりに人々が「死後の世界」について従来どのように信じ考えてきたかを明らかにするに当たり、その指標として「(1)各地の因習・習俗や宗教各派における死者儀礼、(2)古代人やある地域に流通している神話・伝説や説話文学、(3)死後世界の研究としての神智学・心霊学」の3つを挙げ、本書の中で順番に論じている。

(1)の各地の因習・習俗や宗教各派における死者儀礼については、とりわけ日本の神道や仏教における臨終の見とりや死体処理や埋葬や喪の儀式、その他、霊の供養や祖先崇拝の概要がかなり子細に説明されている。著者の渡辺照宏はインド哲学と仏教研究専攻の碩学であり、実は以前に岩波新書「日本の仏教」(1958年)にて、蘇我氏と聖徳太子の古代仏教から親鸞や日蓮らの鎌倉新仏教に至るまでの「日本の仏教」を散々に痛烈批判していた人である。すなわち、以下のような概要で。「インドでブッダが創始の本来的な仏教は、人間の生老病死について本質的に考える哲学的宗教であり、形式的で呪術的な死者儀礼などしない。しかしながら、仏教が日本に伝来の過程で死者の葬送を主としてやる葬式仏教の『仏教もどき』に変質してしまい、『日本の仏教』は仏教の本来性を失った。つまり日本人が古来より信仰している仏教は、ブッダが創始の本来の仏教ではなくて、葬式仏教の『仏教もどき』の代用品で、日本の仏教はブッダ本来の仏教の純粋性を汚す」というような。

その渡辺照宏が本書「死後の世界」で、日本の神道や仏教の死者儀礼の詳細を語っているのは、渡辺の旧著「日本の仏教」を既読の読者には今更ながらしらじらしく、読んでいてそれとなく面白い感じがする。

(2)の古代人やある地域に流通している神話・伝説や説話文学については、「死後の世界」に関する古今東西の文献を本新書を介し連続して読んでいると、死者の行(逝)き方(体外離脱、走馬灯のような生の振り返り)や、死の国あり様(三途の川、賽の河原、トンネル、光体験)から、死者への審判(天国と地獄)、死者の再生と不死(輪廻と解脱、復活と最後の審判)など、各項目にて幾多の文献が地域や時代を隔てて直接のつながりがないにもかかわらず、偶然にも話の要素や構成が酷似していることに気付く。これは「死後の世界」が確固として実在するから、それについての客観的な見聞記録に基づいて様々な死後世界の文献記述が一致しているのではなくて、「死後の世界」の実体とは何ら関係ない所で、今も昔もどの地域のどのような文化圏で暮らしている人であっても、人間の「死後の世界」に対する一般想像のイメージのだいたい共通する妥当な落とし所というものがあって、万人が許容できて是認できる「死後の世界」の共通イメージに皆が予定調和で落ち着くから、「死後の世界」についての幾多の文献が地域や時代を隔てて直接のつながりがないにもかかわらず、奇妙なことに偶然にも死後世界の話の各要素や基本の構成が酷似する事態になるのだと私には考えられる。

(3)の死後世界の研究としての神智学・心霊学については、わずか10ページほどしか割(さ)かれておらず、(1)の宗教各派における死者儀礼や(2)の神話・伝説や説話文学のそれに比べて、この記述は異常に少ない(笑)。これは著者の渡辺照宏がインド哲学と仏教研究専攻の人であり、ヨーロッパ中世の神智学や心霊学、近代科学の超心理学についてあまり知らないからだと思われる。

渡辺照宏は、フランソワ・グレゴワール「死後の世界」の日本語訳(1958年)をやっている。この翻訳仕事があったため、それが機縁となり、翌年の1959年に同タイトルの岩波新書「死後の世界」を訳書ではなくて、今度は渡辺が自分で執筆したと考えられる。そのため岩波新書の青、渡辺照宏「死後の世界」を読むなら、渡辺訳のフランソワ・グレゴワール「死後の世界」も同時に読むことをお勧めする。

「人間は死んだ後はどうなるのであろうか。この問題は、つねに人間の最大関心事であった。本書は、原始・古代から現代の文化的諸民族に至るまで、この問題がどう考えられ、具体的にその考え方がどう表現されてきたかを考察する。さらに、来世観や、霊魂と肉体との関係、また私たちの心がまえとして死をどうみるべきかを語る」(表紙カバー裏解説)