アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(385)見田宗介「現代社会の理論」

岩波新書の赤、見田宗介「現代社会の理論」(1996年)は1996年初版で2016年には第30刷となっており、相当に多くの人に長い間読まれている。本書のサブタイトルは「情報化・消費化社会の現在と未来」であり、全四章よりなる。その目次を書き出してみると、

「一・情報化╱消費化社会の展開・自立システムの形成、二・環境の臨界╱資源の臨界・現代社会の『限界問題』Ⅰ、三・南の貧困╱北の貧困・現代社会の『限界問題』Ⅱ、四・情報化╱消費化社会の転回・自立システムの透徹」

第一章の「情報化╱消費化社会の展開・自立システムの形成」では、現代社会を近代社会から区別するのは情報化と消費化のシステムであり、この情報化・消費化のシステムは「近代」市民社会の原理として生まれたものでありながら、現代社会にて「近代」社会のいくつかの特質を反転するものとして明確に新しい時代の画期をなし、「近代」社会と現代社会とを区別するとする。本書が「現代社会の理論」のタイトルになっているのは、「現代社会」が従来の「近代」社会との対立をなすものであり、「近代」のモダンを超える脱近代(ポストモダン)の現在の社会理論として「現代社会の理論」があるからに他ならない。

より詳細に言って、かつての近代社会の戦争統制経済や全体主義とは異なる、軍事需要のみに支えられない、ゆえに軍事力を有する近代国家や帝国主義資本ではコントロールできない、消費者主体の新しい資本主義に現代社会はなる。個人の消費の動機は、生活の必要性以外の、人間にとっての他者との関係や感情動機といった「みえない社会・心理的要因」の方に大きく働いて単なる物品サーヴィスの販売提供から転回していく。消費の形態も原材料や製造製品の生産・販売に加えて、目に見えないブランド記号のイメージや付加価値のサーヴィスをも売り買いする新たな高度資本主義となり、デザインと広告とクレジットを柱とするソフトなより包括的な戦略、つまりは「情報による消費の創出」を新規になす。さらには消費が情報化と結び付いて絶えず新たな外部を開拓し、これまでの内部を否定し転回し続けることで更新していくため、新たな情報化と消費化を内実とする現代社会の市場システムは、近代国家や一部の有力資本によって制御できない、先の予測が不可能なものになる。ここに先の読めないハイパーな情報消費文化の多様性・革新性の魅力の卓越性が現代社会の特色として見受けられるとする。

続く第二章の「環境の臨界╱資源の臨界・現代社会の『限界問題』Ⅰ」と第三章の「南の貧困╱北の貧困・現代社会の『限界問題』Ⅱ」では、前章での「現代社会の理論」の概要、つまりは従前の「近代」社会のそれとは明確に区別される脱近代(ポストモダン)な現代社会システムの新規な優越性についての概説とは対照的に、現代社会の情報化と消費化の新局面がもたらす弊害の限界を論じている。すなわち、その弊害とは「環境の限界、資源の限界、南の(物質的)貧困、北の(精神的)貧困」の4点よりなされる。例えば「環境の臨界╱資源の臨界」では、レイチェル・カーソン「沈黙の春」(1962年)から農薬の残留性や生物濃縮がもたらす(人体への健康問題も含む)生態系への悪影響の指摘とか、水俣病の事例に見られる企業による有害物質投棄の公害問題など、いずれも現代社会の「限界問題」であり、今日の社会での資本の利益追求による環境破壊と人間疎外の問題が取り上げられている。

その上で、最終章の第四章にて「情報化╱消費化社会の転回」として、「情報化を通じて自然収奪的でなく(環境と資源の限界の克服!)、かつ他社会収奪的でない(南の物質的貧困と北の精神的貧困の克服!)ような仕方で、需要の無限空間を見出すような新たな消費社会」への志向が現代社会の理論として提示される。前述のように、現代社会は情報化と消費化が特化した社会であるから、物質主義的な「幸福」の彼方にあるものへの価値意識の模索という「情報」コンセプトの徹底化と、それに伴う新たな「消費」概念の転回を著者は提示するのである。その際には、バタイユの「普遍経済論」や宇沢弘文の「社会的費用の経済学」らが参照される。

岩波新書の見田宗介「現代社会の理論」は全四章構成で、第一章では現代社会システムの概要とその魅力の卓越性を、第二章と第三章では現代社会の弊害の限界を、そうして第四章ではこれまでの議論を踏まえて解決の方向性を示す、現代社会理論のあるべき方向の未来の結論を表すものとなっている。こうした分かりやすい章展開にて、「初読の読み手でも中途で内容が容易に見切れてしまい、読み飛ばされてしまう」の危惧が著者の見田にあるためか、本書の「はじめに」で以下のように書いて「絶対に飛ばし読みするなよ。第四章の結論部分だけ読まず第一章から飛ばさずに順番に必ず読めよ」の読者に暗に釘を刺すところは、さすがに本書の笑い所か。

「本書の『結論』は、この四章に明記されるけれども、一章の『光の巨大』と、二、三章の『闇の巨大』の事実と論理とが明確にふまえられていないと、この結論部の理論の展開は、真に必然のものとして、理解されないものとなるだろう。三つの部分は、(文体も雰囲気も一変することがあるかもしれないけれども、)現代社会のダイナミズムと、矛盾と、可能性とについての、きんみつな構造をもったひとつの理論の、展開する三つの〈局面〉にほかならないからである」(「はじめに」)

この引用文にあるように、第一章で考察される現代社会システムの魅力の卓越性を「光の巨大」と無駄に大げさに表現し、第二章と第三章で指摘される現代社会の弊害の限界を「闇の巨大」などと安直に書いてしまう所も社会学者・見田宗介ならではのいかにもな言葉遣いというか、「見田社会学」の毎度の読み味といった感じが私はする(笑)。

「『ゆたかな社会』のダイナミズムと魅力の根拠とは何か。同時に、この社会の現在ある形が生み出す、環境と資源の限界、『世界の半分』の貧困といった課題をどう克服するか。現代社会の『光』と『闇』を、一貫した理論の展開で把握しながら、情報と消費の概念の透徹を通して、〈自由な社会〉の可能性を開く。社会学最新の基本書」(表紙カバー裏解説)